第二十七話 それを恋と呼ぶのなら
「ぅ……」
「ニナ?」
小さく呻き、そっと目を開く。硬い地面の感触が不愉快で身を起こすと、僅かに砂埃が舞った。顔を顰めながら辺りを見れば、すぐ隣でシリルが安心したように息を吐く。薄暗いものの、辛うじて表情は認識できた。
「良かった、目が覚めたんだね。体は大丈夫? どこか痛いところは?」
「平気。シリルは?」
「僕も大丈夫」
微笑みを交わすと、少しだけ緊張がほぐれる。けれど状況が全く分からないことに変わりはなくて、私はシリルを見て首を傾げた。
「それで、今度は何があったの?」
「覚えていないのかい?」
その表情から察するに、どうやらまた私が何かやらかした、のだろうか。黙って首を振ると、シリルは「そう」と頷いて説明してくれる。
「様子がおかしかったから、無理もないか。泉を覗き込んだ君が、いきなり変になったんだ。何というか……我を失っていた、って言えばいいのかな」
「変に?」
「呼んでる、行かなきゃ、ってどこか虚ろな目で呟いて、泉に入ろうとしていた。止めようとしたんだけど、僕もバランスを崩して、二人で泉に落ちて……光に包まれたのは、覚えてる?」
「うん、気付いたらシリルに抱き締められてて、すっごく眩しかったのは。……そうだ、呼ばれてたんだよ」
少しずつ、記憶が戻ってくる。覗き込んだ泉の奥から、直接頭の中に響くような声が聞こえたのだ。こっちにおいで、帰っておいで、そんな声が。お母さんの声にも、お父さんの声にも聞こえた。大切な人たちの声が一度に聞こえてきたような気がして、だから私は。
「……ごめんねシリル、私、また迷惑かけちゃったみたいで。余計なことしないで、お兄ちゃんたちが忙しくなくなるまで待てば良かった。あんなことしでかして、お姉ちゃんに怒られたばっかりなのに」
「いや、仕方ないよ。予想出来なかったのは僕も同じだし、君は悪くない。じゃあニナも、ここがどこかは……分からない、よね」
遠慮がちなシリルの問いかけに、再び首を横に振る。どうやら建物の中なのは間違いなかったけれど、その作りはアネモスでも聖地でも見かけたことの無いもの。どこなのか、なんて分かるはずもない。
……あれ、でも待って。本当に? 本当に、見たことが無い? だってどこかで見たことがあるような、そんな気がするのに。だけど、どこで?
「……違う、そんなはず」
「ニナ?」
ゆっくりと、私の中で出来ていく答え。それを確かめようと、私は震える声で囁いた。
「カタリナ。この近くに、危険なものはある?」
「分かりませんわ」
返ってきたのは、彼女にしては珍しい、戸惑うような声。現れた親友の表情もまた、口調通りのものだった。
「そもそも魔力の質が、アネモスとも聖地とも違うようね。魔法が使えないわけではなさそうですけれど。雑多というか、色々な物が混ざっていてよく感じ取れませんの。すぐに分かるような危険は無いようですから、大丈夫だとは思うのですけれど」
外に出ても大丈夫、彼女の言葉をそう解釈して扉を開ける。すぐに視界に飛び込んできた階段を半ば飛び降りるようにして駆け下り、けれど私はそこで立ち止まった。追いかけてきたシリルが、同じものを見て絶句する。
「これは――!」
広間のように視界の開けた部屋の、その隅の方に広がる赤黒い染み。壁にも床にも飛び散ったそれは間違いなく血痕で、……私はその理由を、かつてここで起きた惨劇を確かに知っていた。確か中学を卒業した頃だったか、来実さんに無理を言って連れてきてもらったことがあったのだ。あの時は中には入れてもらえなくて、入り口から覗いただけだったけれど、見間違えようもない。
「……私、ここ知ってる。ずっと前に、来たことがあるんだ」
「何ですって? ニナ、まさか」
私の呟きが聞こえたのだろう、カタリナが信じられないとでも言いたげに眉を顰める。それでシリルも気付いたのか、険しい表情で私を見た。
そんな二人に、私は頷く。発した声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。
「うん。……帰って、来たんだと思う。私の、元の世界に」
だけどよりによって、どうしてここに飛ばされたのか。かつて変わり果てた姿の義姉が発見された、町外れの廃病院なんかに。
◆◇◆
この建物の中は薄暗いけれど、外はまだ日が暮れる直前らしい。ニナを連れて最初に目覚めた部屋へ戻ったところで、その間に建物の周りを見てきたカタリナさんからそう聞かされた。とても興味深そうにしていたから、ニナに聞いていた通り、向こうには無いものがこの世界にはたくさん存在するのだろう。しばらくしてようやく落ち着いてきたニナに、僕は躊躇いがちに訊ねる。
「訊いても良いかな、ニナ。ここが君の世界なのは間違いないんだね? なら、この建物は……」
「病院だよ。アネモスの治癒の塔とかと同じ、医療施設。私が生まれる前に廃院になって、その後はずっと使われてないけど。……十年以上前に、行方不明だったお姉ちゃんが見つかった場所」
「じゃあ、やっぱりあの血は……」
下の階で見た物を思い出し、僕は表情を強張らせた。彼女が生前酷い目にあったのだというのは先生やリザさん本人の口調から何となく察していたけれど、ここがニナに聞いていた通りの平和な世界なのなら、あの血はいくら何でも常軌を逸しているような気がした。僕の問いに、ニナはどこか暗い顔で頷く。
「お姉ちゃんはあまり知られたくないだろうから、今は詳しいことは話さないでおくね。……それでね、二人とも。私、家に帰りたい」
驚く理由はなかった。元から彼女はそのために元の世界へ帰る方法を探していたのだ、ニナがそう言い出すのは十分に予想できたことで、だからこそ僕もカタリナさんも反対はしない。
「うん、ここは君の世界だ。君の好きなようにすればいいよ」
「そうですわ、ニナ。私はともかく、貴方たちは食事や寝る場所の確保という現実的な問題もあることですし」
「……そうなんだけど、そのことでちょっと相談があって。カタリナ、さっき魔力の質がどうこうとか言ってたよね。魔法は使える? 姿を隠す魔法とか」
遠慮がちなニナの問いに、王女は首肯した。
「魔法? ええ、その程度でしたら問題なく」
「そっか。あー、でも念のために夜まで待った方がいいかな。えっとね、二人も知ってると思うけど、私は結構長く向こうの世界にいたわけでしょ?」
「君が降りたのは春の一の初め頃だったから……うん、四カ月くらいかな」
四カ月。口に出すと長いけれど、ニナと出会ってからの日々は本当にあっという間だった。答えると、ニナはどこか渋い顔で頷く。
「その間、私はこっちじゃ多分行方不明扱いだったと思うんだ。行方不明者の顔を全部覚えてるような数奇な人は流石にいないだろうけど、私、こう見えても知り合いとか多いから……遭遇すると、ちょっとまずいことになるかもしれない」
「だから姿を隠して、夜まで待つ?」
「うん。カタリナはともかく、シリルは見た目的にもかなり目立つからね。それにほら、服だって向こうのだし。暗ければ、万が一何かあっても上手く誤魔化して逃げ切れる……と、いいなって」
「ああ、確証はないんだね……」
曖昧に笑うニナ。その様子は普段通りだったけれど、本当は早く家に帰りたくて堪らないのだろう。その証拠に、膝の上に置かれた手は強く握られて、僅かに震えていた。その手を包み込むように、そっと触れる。
「じゃあとりあえず僕たちは中で待っているとして、カタリナさんに外を見ていてもらおうか」
「……随分と人使いが荒いのね?」
不満そうに目を細める彼女に対し、僕は微笑を返した。
「こういう時のために貴女がいるのでしょう。僕では姿を消すことは出来ませんし、ニナと話もしたいですから」
「仕方ありませんわね……ニナ、分かっているとは思いますけれど、何かあったら私の名を呼びなさいな。例えばそうね、そこの王子に襲われた時とか」
「か、カタリナ!」
「……しませんよ、そんなこと」
その声にあまり自信が無いことが分かったのだろう、王女は意地の悪い笑みと共に姿を消す。僕の頼み通り外に言ってくれたのだろう。あの性格はどうにかならないものか、と脱力すると、くいと袖を引っ張られた。見ればニナが真剣な表情で、しかし頬を染めて僕を見上げている。
「シリル、まさか本当に」
「しない、しないから!」
慌てて首を振ると、ニナはほっとしたように、けれどどこか残念そうに嘆息する。……いや、そういう顔されると本当に自信無くなるから止めてください。
軽く深呼吸して気持ちを落ち着けると、僕は表情を引き締めてニナに向き直った。
「でも、話がしたいっていうのは本当だよ。アネモスに帰ってから、二人きりでゆっくり話す時間なんて無かっただろ? またしばらくそういう時間も取れなさそうだし、今のうちに言っておきたくて」
「話?」
首を傾げる彼女に、「うん」と微笑を返す。
これから告げる言葉は、完璧に僕の我侭だ。アネモスのためでも何でもない、けれど彼女にとってもきっと迷惑であろう言葉。今ここで告げるべきではないのは、僕が一番よく分かっている。けれど、先生に諭されて、三日間ずっと考え続けて、思ったことがあった。
ずっと我慢してきたのだ。アネモスのために、みんなのために、自分を殺してきた。クレアに許されて僕には許されない自由にも、孤独であることにも、ずっとずっと耐えてきた。だったら少しの我侭くらい、許されたっていいじゃないか。一緒にいたいなんて望まない、それで彼女を不幸にするなんて出来ない。けれどこの想いを認めることくらい、そしてそれを告げるくらいは。
「僕は……君が好きです、ニナ。王子としてとか、神子としてとか、そういうのは関係なくて。一人の女性としての君を、愛してる」
僕の言葉に、ニナは驚いたように目を見開く。少しして、見開かれた彼女の瞳から、一滴の雫が零れ落ちた。同時に、呟くような言葉も。
「シリルからその言葉が聴けるなんて、思わなかった」
「言わないつもりだったよ。言わないまま別れようと、そう思っていたんだけど……ごめん」
「何で謝るの」
困ったように笑う彼女の頬を、なおも涙が伝う。手を伸ばしてそれを拭うと、不意にその手を掴まれた。驚いて見ると、ニナはふわりと微笑む。
「私も、……私も、シリルが好きだよ。シリルが言ってくれなかったら、私から言おうと思ってた。いつからか、なんて分からないけど、気付いたら貴方が好きでした」
「……ニナ」
「本当は私だって、伝えるつもりなんて無かったんだけどね。でも私、言わないまま別れて、それで一生後悔するなんて、したくない」
「うん」
その言葉に、僕は思わず彼女をそっと抱き締めた。ニナは僅かに身を強張らせるものの、僕の腕から抜け出ようとはしない。むしろ、緊張はすぐに解けたのか、僕に身を預けるように力を抜いたのが分かった。ああ、彼女はこんなに温かかっただろうか。
「大好きだよ、ニナ。愛してる」
「うん、私も。愛してる。シリル」
あれは一体いつだっただろうか。確か、リオネルとマリルーシャを仲直りさせようとしていたときのことだったはず。運命というものを信じるかと、マリルーシャはかつてそう言った。あのときの僕は分からないと答えたけど、今ならちゃんと答えられる。僕も運命を信じるよ、マリルーシャ。君とリオネルがそうであるように、僕とニナが出会ったのも、きっと運命だから。
……だから、見たくない現実からは、認めたくない現実からは、そっと目を背けた。
こんばんは、高良です。
主人公カップル差し置いてどんどん周りがくっついていくのが枯花です(真顔)
そんなわけで作中では三組目の(リオマリ、ハルクレに続く)カップル誕生。どう見てもバカップルですほんとうにありがとうございました。
書いているとニヤついて執筆が進まない、という現象に悩まされました。果たして私がニヤついたのと同じくらい、読者の皆様にもニヤついていただけたでしょうか。それが心配です。
さて、しかしそんな告白が、更なる問題を生んでしまうわけで……
では、また次回。




