第二十六話 水端
お姉ちゃんの話のせいでちょっと身構えていたのだけど、幸か不幸か昨日はあのまま解散してゆっくり休むように言われて、シリルとゆっくり話す機会は訪れなかった。
夜が明けるより前に起こされて、久しぶりに法衣じゃない普通の服に着替える。ちなみに最初の頃はやたらと豪華なドレスを着せられそうになったのだけれど、全力で拒否すると侍女たちは渋々装飾の少ない服を持ってきてくれたため、それを着て過ごしている。彼女たち曰く、私にはドレスとしか言えない形だけれどそれは普段着で、クレアが城にいた頃に着ていたものだとか。……あの子も割と小柄な方だったのに、そのクレアが数年前に着ていた服が余裕で着られるって、どうなんだろう。それでも新しいものを作られるよりも精神的な負担が少ないのは確かで、ありがたく借りることにしていた。
その後はというと、聖地に来てから一番慌ただしかった。お兄ちゃん曰く、ネルヴァル侯を含めた他の同行者たちも私が『事故』に巻き込まれたことは知っているけれど、今日発つことまでは知らせていないらしい。彼らに悟られないようヴラディミーラと別れの挨拶を済ませ、四人でアネモスに転移。転移魔法なんて言うから少し不安だったけど、視界が光に包まれて、それが治まって目を開いたらもうアネモスだった。……そういえばこの世界に飛ばされた時もそんな感じだったよなぁ、なんて思い出す。
予定より早く私たちが城に帰還したことを知られるのは、あまり良くないだろう。お兄ちゃんはそう言って、転移先に彼の実家――つまりはトゥルヌミール公爵家の屋敷を選んだ。夜が明けてしばらくしたらここから王都に転移するという。少しお兄ちゃんの部屋に寄ってくるという二人と別れ、侍女らしき人に広間に案内された私とシリルが真っ先に出会ったのは、よく知っている人だった。
「五日ぶりですね、シリル様、ニナ様。ご無事で何よりです」
「リオネルさん!」
部屋の中で待っていたらしい彼は立ち上がり、私たちに向かって優雅に一礼する。その隣に、リオネルさんに合わせて礼をする見知らぬ女性がいた。綺麗な亜麻色の髪に萌葱色の瞳、そして何より見て分かるほどはっきりと膨らんだお腹で、彼女の正体を悟る。私が口を開くより先に、シリルが嬉しそうに声を上げた。
「久しぶりだね、マリルーシャ。新年以来かな、体は大丈夫?」
「ええ、お久しぶりです、シリル様。病気ではないのですもの、そう心配しすぎることでもありませんわ。……リオ様にも、そう申し上げているのですけれど」
「心配なものは心配だろう、何かあったらどうする。とにかく座っていろ。……シリル様とニナ様も、いつまでも立っていては疲れるでしょう。そちらにどうぞ」
「相変わらずみたいだね」
聴いているだけで仲が良いのが分かるやり取りに、促されるまま二人の対面、私の隣に座ったシリルがくすっと笑みを漏らす。その声で我に返ったのだろう、マリルーシャさんは私の方に向き直ると、再び頭を下げた。
「失礼致しました、神子様。初めまして、マリルーシャ=メルレ=トゥルヌミールと申します」
「初めまして、加波仁菜です。あの、『神子様』じゃなくて、名前で呼んでもらえますか?」
シリルにフルネームはいけないと言われたことを思い出すが、それはお兄ちゃんとお姉ちゃんのことがあったからだ。相手さえ選べば問題ないだろう。彼女はその辺りの事情も知っていると聞いているから、大丈夫なはず。……そういえば、ハルとクレアにその辺りの事情って説明してないよね、私。今度会ったら話しておかないと。
何度繰り返したか分からない言葉を付け足すと、彼女はふわりと微笑んで頷いた。
「はい、ニナ様。わたくしのことは……夫やシリル様から、聞いていらっしゃいますか?」
「それだけじゃなくて、アドリエンヌさんやお城の人たちからも、たくさん。シリルとクレアの乳母で、クレアの侍女で、リオネルさんの奥さんですよね」
「前二つに関しては『だった』が正しいのですが、その通りですわ」
「すっごく怖かったって、シリルがよく話してます」
「待っ、ニナ、何を」
シリルがびくりと肩を震わせ、恐ろしいものを見るような顔で私を見る。くっ、と喉を鳴らすリオネルさんを横目で睨み、マリルーシャさんは笑顔でシリルに向き直った。……そんな顔してても綺麗なんだもんなー、美人ってお得だ。
「あら、それは面白いことを聞かせて頂きましたわね、シリル様」
「いや、あの、違」
「少しは成長なさったかと思ったのですが……あまり変わっていらっしゃらないようで」
微笑んだまま、物凄い重圧を放つマリルーシャさんに対し、シリルは縮こまる。そんな彼を見て、マリルーシャさんはぴしゃりと言い放った。
「姿勢が悪いですよ、シリル様」
「……はい」
こんなシリルは滅多に見られないぞ、と思わず目を輝かせる。表情から察するに、リオネルさんも同じことを考えているらしい。静観していようと視線を交わし合ったところで、扉の方から聞こえた声がそんな空気を打ち破った。
「おや、お説教中でしたか?」
「ジルか。いや、入ってきていいぞ」
入り口辺りに立ち、面白そうに微笑むお兄ちゃん。その後について部屋に入ってきたお姉ちゃんが、マリルーシャさんを見てどこか嬉しそうに口を開く。
「そろそろ生まれるんでしょ、大丈夫なの? マリルーシャ」
「まあ、リザ様までそういうことを仰るのですか? シリル様はともかく、ジルやリザ様に会える貴重な機会を逃すわけにはいきません」
「……やめてよリオ様の嫉妬怖いんだから」
冗談とも思えない口調のお姉ちゃんに、リオネルさんが苦い顔をする。そのまま彼は面白そうにやり取りを見守っていたお兄ちゃんの方に向き直った。
「座らないのか?」
「ええ、先に城に向かって、陛下に事情を説明しておこうかと。ネルヴァルに与する者も、城にはいますから。陛下がそんな愚か者の言葉に耳を傾けるとも思えませんが、念のため」
「そうか。俺が行こうと思っていたのだが、お前が説明するならその方が早いだろうな。では、これを」
頷くと、リオネルさんは僅かに表情を引き締め、テーブルの上に置かれていた紙束をお兄ちゃんに渡した。かなり速いペースでそれを捲る彼に対し、リオネルさんは静かに問いかける。
「奴が裏でしでかしていたことだ。今回の件が加えられれば良いのだが、奴が首謀者だという直接の証拠が無いからな。それさえあれば極刑でも足りないほどだが、今のままでは……せいぜい同行しておきながら王子と神子を危険に晒したことと、部下の監督を怠った罪か。それを踏まえて、罰はどうなる?」
「他の貴族の説得次第ですが領地の没収か、どう頑張っても爵位剥奪程度でしょう。……足りませんね」
「ああ、足りないな。いくつかでっち上げるか」
サラリと物騒なことをいうリオネルさんに、私とシリルは揃ってぎょっとする。けれどマリルーシャさんとリザさんは至って普通に……それどころか、どこか呆れるような目でそのやりとりを見守っていた。ああ、そういえば舞踏会のときにも、リオネルさんが同じような目をしていたっけ。本当、普段は優しいのに怒ると怖い人ばっかりだなぁ、私の知り合い。
リオネルさんの爆弾発言にも顔色一つ変えず、お兄ちゃんは微笑んだままリオネルさんを見た。
「そちらはお任せしても?」
「ああ、任せろ。荒れていた時期に散々やったことだ、そう難しいことでもない。お前は陛下や貴族たちの説得を頼む、ジル。……奴が帰国するまでに片付けるぞ。追い出して、もう二度とこの国には立ち入らせん。今度こそ、腐敗は全て潰してやる」
「ええ、そのつもりです」
獰猛とも呼べるリオネルさんの笑みと、会話の内容に反してどこまでも穏やかなお兄ちゃんの微笑とがとても恐ろしくて、思わず目を逸らす。やっぱりこの二人、かなり怒っているらしい。二人を止めない辺り、お姉ちゃんとマリルーシャさんも同じなのだろう。
……何があっても絶対にこの二人は怒らせまい、と心に誓った。
◆◇◆
「やっと終わった……」
ようやくすっきりした机の上を見渡し、深く息を吐く。事情を説明したついでに先生が何か言ってくれたらしく、父上からのお咎めはほとんど無かった。ただその代わりのように今まで以上の量の政務を押し付けられて、全て片付けるのに今までかかったのだ。内容を確かめて、問題が無ければ署名をするだけの単純作業でも、数百枚と集まれば脅威だ。……恐らく、ネルヴァル侯をどうにかするまでは大人しくしていろ、ということなのだろう。
帰国してから三日。食事の時間を除いて、ニナには殆ど会っていなかった。先生から聞いた話のせいで顔を合わせ辛かったのも事実だけれど、こうも会えないとそれはそれでなかなか辛い。
思考を遮るようにノックの音が響いたのは、そのときだった。
「どうぞ」
ドアの方に目を向けることもせず、いつの間にか机に突っ伏していた体を起こして、紙の束を揃え直しながら答える。……疲れていたからだろうか、相手を確認すらしなかったのは、不覚としか言いようがない。
「し、失礼します」
「……ニナ?」
どこか遠慮がちに部屋に入ってきたのは、見慣れた神子たる少女だった。当然身に纏っているのは聖地にいたときの法衣姿ではなく、昔クレアが来ていた普段着。だから僕にとっては見慣れた服のはずだけれど、着る人間によって印象がこうも違うのかと実感させられる。……いや、そうじゃなくて。
「どうしたの? アドリエンヌの授業は?」
「あー、えっと、色々理由付けて終わらせちゃった」
僕の問いに、ニナは中途半端に笑う。……そんな態度を取るのも珍しい。僕が訝しんでいるのが分かったのだろう、ニナは言葉を重ねた。
「ごめん、仕事中だったよね? 邪魔するつもりはなかったんだけど、もうそろそろ終わるかなって……最近話してなかったし、その、邪魔だったらもちろん出ていくけどっ」
珍しく焦ったようにわたわたとする彼女を見て、僕は思わず吹き出す。不満気に見てくるニナに、どうにか笑いを堪えながら言葉を返した。
「ちょうど今終わったところだよ、大丈夫」
「本当? 良かった……あっ、だったらちょっと散歩に行かない? 見たいものがあるんだ」
「散歩? 良いけど……」
首を傾げつつ、彼女について部屋を出る。もちろん護衛の騎士がいるが、ニナの姿を見ると何も言わずに通してくれた。恐らくカタリナさんの存在を知っているからだろう。精霊は聖地では無力でも、この城に帰ってくればそうではない。
隣を歩く彼女は、たまにちらちらとこちらを見てくるけれど何も語らない。僕も同じことをしているものの、しばらく歩いているとその沈黙が辛くなってきた。城から外に出たところで、耐えきれずに口を開く。
「そういえば、カタリナさんは?」
「寝てるよ。神殿に行くって言ったら自主的に寝ちゃった感じ」
返ってきた答えに、僕は首を傾げた。
「神殿に? どうして?」
そんなことを話している間に神殿に辿り着き、顔見知りの神官たちといくつか言葉を交わして中に入る。当然神子であるニナは大歓迎を受けるわけだけれど、ここに来るたびに同じやり取りをしているせいだろう、彼女はそれを軽くあしらって奥に歩き出した。再び隣に並び、答えを促すように横目で見ると、ニナはぽつりと呟く。
「ここで、シリルと初めて会ったんだよね」
「え? ……そうだね、王族専用の祈りの間だったっけ。あの時は焦ったよ、王族でも神官でもない人間が、怪しい格好で立っているんだから」
「それはこっちの台詞だよ! 剣を向けられるなんて、向こうじゃ滅多に無いことなんだからね? すっごく怖かったんだから」
「それは……ごめん」
こっちでも戦闘職に就いている人間じゃない限りそうそうないことなのだけれど、あれについては謝るしかないだろう。そう思って素直に頭を下げると、ニナはおかしそうに笑みを零す。
「怒ってないから平気。よく考えたら当然の反応だもんね」
「なら良かった」
微笑んだところで、ニナは不意に足を止めた。釣られて止まり、彼女の視線を辿ると、そこには僅かに白い光を帯びた泉があった。それが何なのか、分からないはずがない。
「……神泉?」
「うん。お兄ちゃんが、様子がおかしいって言ってたでしょ?」
「ニナも聞いたんだね」
神国を中心に、全ての国の神泉に起こっているという異変。アネモスのそれは魔法が使わなければ分からないほどの些細な異変だと聞いたけれど、それはつまり魔法が使える人間なら分かるということだ。少し集中してみれば確かに、何かが『違う』のが感じ取れた。何が違うのか、どう違うのか、そこまでは分からないけれど。さっきの神官たちの反応を見る限り、先生はまだ彼らには話していないのだろう。
「様子がおかしいのは私が来てからだって……だったら、私になら何とか出来るんじゃないかなって、そう思って」
「待った、ニナ」
微笑を崩さない彼女に対し、僅かに険しい表情を向ける。
言うと思った。ニナなら言うと思った、けれど。
「軽はずみな行動をするな、とも言われたはずだよ。何かあったら」
「うん、分かってる。見るだけなら良いでしょ? お兄ちゃんが忙しくなくなったらちゃんと話して、協力してもらうから」
説得しても無駄だと分かる、強い言葉。不安なまま渋々頷くと、ニナは嬉しそうに顔を輝かせた。「ありがとう」と囁くと、彼女は神泉に駆け寄り、僅かに身を乗り出して覗き込む。
「魔力って言うのは何となく分かるようになったけど、前までの神泉は知らないからなー。前は光ってなかったけど、これは私が触ったからでしょ? だったら――」
独り言のようなニナの声が、不意に途切れた。驚いて顔を上げるが、こちらに背を向けている彼女の表情は分からない。代わりに、どこか彼女らしくない声が聞こえた。
「……よんでる」
「え?」
「よんでる……いかなきゃ」
「ニナ!」
そのままニナの体が泉の方に傾くのを見て、慌てて駆け寄る。泉は浅いのだから落ちたって濡れる程度で、余程のことが無い限り溺れはしないだろう。けれど心の奥では警告のようなものが鳴り響いていて、それがやたらと不安を煽った。
抱き締めるように彼女を引き留め、横から覗き込む。意識はあるもののその表情はどこか虚ろで、けれど悲痛なほどに必死さを感じさせた。僕が覗き込んでも気付いてはいないようで、抵抗するように泉の縁を乗り越えようとする。その力は普段の彼女からは想像も出来ないほど強くて、気付けば僕もバランスを崩し、ニナを抱き締めたまま水の中へと倒れ込んでいた。踏ん張ろうとしても、既に足は地面から離れている。
水の感触を肌に感じた瞬間、視界が眩いほどの白い光に包まれた。同時に、触れていたはずの水がふっと消えるのが分かる。光は瞬く間にその強さを増して、見えていた神殿の景色を塗り潰す。
「っ!」
思わず目を瞑り、ニナを抱き締める腕に力を込めた。この光には覚えがある、そうだニナを神子だと判別したときの、あの。……だけど、何故?
「……シリル?」
我に返ったような、いつも通りのニナの言葉。安堵を覚えると同時に、ふっと意識が遠くなった。
こんばんは、高良です。
アネモスに帰還した四人。トゥルヌミール公爵家の男性陣は怒らすととてもとても怖いです。恐らくここまで読んでくださっている読者の方ならよくお分かりでしょう。本気出すと多分アネモスくらい潰せます。敵に回しちゃいけない人たちです。
対し、どこかぎくしゃくしたままの二人を襲った異変。その正体は――
では、また次回。




