第二十三話 神の目は盗めない
大神官長、というのはつまり、神殿の最高権力者である。聖地の番人であるがゆえに聖地から出ることは滅多にないが、とても強い発言力を持ち、各国の王にも一目置かれている……僕も余程のことがない限り敵には回したくない、そんな相手なのだ。当然だろう、ウィクトリアのように信仰心が極端に薄い国でもない限り、国民への神殿の影響力というのは大きい。国を治める人間にとって、神殿と友好的な関係を結ぶのは必須事項なのである。
大神官長と神子との対面。そんな場面で僕が席を外したのは、そういうわけだった。もちろん直接そうして欲しいと言われたわけではないけれど、神殿内部にしか伝わらないような話もあるかもしれない。気を使ったつもりだったのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。大神官長の柔和な笑みで、僕はそれを悟った。軽く一礼し、微笑を返す。
「先ほどはろくに挨拶もせずに失礼致しました、ヴラディミーラ」
「お久しぶりですね、シリル殿下。最後に貴方がこの地を訪れられてから、もう十年は経ったかしら? 小さかった貴方がそうやって気を遣えるようになられたことが分かって、とても嬉しいですよ」
「……あの頃は、僕も幼かったので」
その座に就いたのは男性であれば、神国クローウィンの初代国王の名を。女性であれば、歴史に残る最初の神子の名を。大神官長は代々その名を継承し、彼ら以外にはその二つの名を名乗ることは許されない。当代の大神官長は女性であるため、ヴラディミーラと呼ばれていた。いつからそうなのかは分からないが、名前で呼ぶ際には敬称を付けない決まりである。
会うのは十年ぶりだけれど、彼女はどうやら昔とまったく変わらない、優しい老婆のままらしい。ニナの楽しそうな表情からも、それが窺えた。余談だけれど今の彼女は久しぶりに見る、白地に金の刺繍の、ニナ曰く「裾が長くてばさばさした」神子の法衣姿である。ヴラディミーラはまるでその対となるような、黒地に金の刺繍の法衣を纏っていて、神子が唯一大神官長と同じ地位にあることを語っていた。……いや、実際には神子の方が権力が強いことも多々あるんだけど、公式には一応そういうことになっているらしい。
「クレア殿下は先日ハーロルト殿下とご一緒にいらっしゃいましたが、あの方も随分可愛らしくなられましたね。ハーロルト様の方も見違えて、本当に月日が経つのは早いものです。シルヴィア様はお元気でいらっしゃいますか? ニナ様は、お会いしたことはあるのでしょうか」
「王妃様ですか? はい、何度か。私が会ったときには、元気そうでしたけど……」
そこで言葉を切り、ニナが問いかけるように僕の方を見る。僕はそれに苦笑し、ヴラディミーラに対してそっと首を振った。
「普段はお元気そうなのですが、数か月前から急に体調を崩すことが多くなってしまって。僕も最近では、昔ほど頻繁にお会いすることは出来ないんです。公務の際には無理をしてでも起きてくるので、その度に父上と二人で止めてはいるんですが」
「まあ、それは……陛下も殿下も、気が気ではないでしょうね」
「ええ。あ、ですが神子が降りてからは、母上の体調が良いことが多いんですよ」
心配そうに眉を顰める彼女を安心させるように、ニナに視線をやりつつ微笑む。きょとんとするニナとは反対に、ヴラディミーラは納得したように頷いた。
「昔から信心深い方でいらっしゃいますからね。神子の降臨による神のご加護を、より強く受けたのでしょう。……そういえば、先ほどお会いした中に噂の賢者様と歌姫様もいらっしゃいましたね」
「はい。調べることがあると言っていましたが、後で正式にご紹介出来るかと。聖地でその呼び名が出るのは、少しおかしな気分ですね」
「どうして? ……あ」
不思議そうに首を傾げたニナが、何かに気付いたように声を上げる。その表情から察するに、説明は不要だろう。『原初記』に出てくる伝説の存在。あの二人はあまりに神話に被りすぎていて、たまに不安になるほどだ。
「……失礼、この地ですべき話ではありませんでした。お二人とも、ここにはどのくらい滞在なさるご予定ですか? 折角ですから、この地を見て回って行ってくださいな」
「あまり長くはいられませんが、そのつもりです。神殿と繋がりを持っておいて損は無いでしょうから」
「まあ」
冗談交じりに言うと、彼女はおかしそうに微笑む。そんなヴラディミーラに一礼し、僕はニナの方を見た。
「そんなわけで行こうか、ニナ。ではヴラディミーラ、また後ほど」
「あの、色々と聞かせてくれてありがとうございました。楽しかったです」
「いえいえ、こちらこそ。夕食の際には是非、ニナ様のお話も聞かせてくださいませ」
そんな言葉を交わして、僕たちは部屋を出る。ちらりとニナに視線をやり……彼女の服装がいつもと違うことを思い出して、一瞬目が離せなくなった。ニナの法衣姿は城でも何度か見ているはずなのに、アネモスとは異なる趣の神殿に立っているせいだろうか、彼女までいつもと違うような錯覚に襲われた。なるほど、法衣は確かに、神官のための衣装なのだろう。……いつもは結んでいる髪を下ろしているから、というのもあるかもしれない。妹やマリルーシャを見ていても思ったことだけれど、女性は髪型が変わるだけでここまで違うものなのか。
「シリル? どうかした?」
「あ、ごめん。何でもないよ」
訝しげに訊ねられ、僕はハッと我に返った。取り繕うように微笑むと、ニナは首を傾げつつもそれ以上追及せず、歩き出す。その隣に並んで歩きながら、僕はちらりと彼女を見下ろした。
「そう言えば、ヴラディミーラとは何を話したの?」
「色々。あ、シリルが気にしてたような話はしなかったよ。傍から見たらどうでもいいような世間話ばっかり。多分シリルがいても同じ話をしたんじゃないかな。シリルとクレアがちっちゃいときの話とか、そんなの」
「……ちょっと待った」
笑顔のままの彼女から、その話の内容まで推し測ることは出来ない。ん? と見上げてくるニナに対し、僕は引き攣った笑顔を返す。
「小さいときって、いつの? どんな話?」
「だから、色々だって。六歳頃までは何回かここに来たことがあるんでしょ? その時に二人がしでかしたこととか」
「……大人の目を盗んで祭壇で遊んでいたらクレアが壊しちゃったこと、とかかなぁ」
あの時は僕までこっ酷く叱られたっけ。当時はマリルーシャが乳母になる前だったからまだ良かったものの、僕にまで飛び火してきたのは痛かった。遠い目で呟くと、ニナはおかしそうに頷く。
「そうそう、そんな感じ。大神官長っていうからどんな人かと思ったけど、普通に良い人だったね。ここも普通に居心地良いし。カタリナがあんなこと言うから、実はちょっと不安だったんだ」
「君は神子だから少し特殊だけれどね。……そういえば、先生とリザさんはどこに行ったんだろう」
ふと気になって訊ねると、ニナは首を横に振った。
「さぁ……私も探してるつもりで歩いていたんだけど、見当たらないし。シリル、何か知らない?」
「何も。調べたいことがある、とは聞いたけど」
ニナと顔を見合わせ、二人で首を傾げる。けれど答えは分からないまま、聖地での日々は静かに過ぎて行った――はず、だった。
◆◇◆
「五日って短いと思ってたけど、そうでもないんだなぁ……」
光の差し込む廊下を歩きつつ、独り言のように呟く。いや、時折すれ違う大神官のほかには誰もいないから、実際独り言に間違いはないんだけど。
気付けば、アネモスへの帰国は明日に迫っていた。ここでの日々はあっという間、ではなかった。どこか他の国と時間ごと切り離されたようなこの地では、時間はのんびりと穏やかに過ぎていって、けれどそれは決して退屈な長さでは無かったのだ。この神殿の中にも、常に神子の法衣を着て歩き回るのにもようやく慣れてきたのにと思うと、少しだけ残念かもしれない。そんなことシリルに言ったらずっと法衣を着ていればいいと返されそうだから言わないけど。
「おや、神子殿。帰国の準備はもうよろしいのですかな?」
……笑顔、笑顔。
「こんにちは、ネルヴァル侯。元々大した荷物は持ってきていませんでしたし、大神官の方たちがやってくださったので」
「ほう……流石神子殿ですな。大神官を従えるなど、神子でなくては出来ますまい。下級の神官ですら我々貴族の言うことを聞かないというのに」
その口調からも、彼が神殿をどう思っているかは伝わってきた。言い返したい気持ちを抑え込み、微笑を保つ。
「いえ、皆さんお優しいですから。侯爵こそ、準備は終わったんですか? そういえば、滞在中はあまりお会いしませんでしたよね」
「私も色々と、陛下から直々に任されたことを片付けねばなりませんでしたからね。今も、大神官から陛下への返事を催促しに行くところです。ニナ様は何を?」
「シリルを探しているんですけど……どこかで見かけませんでしたか?」
訊ねると、彼の厭な笑顔に一瞬影が差した。しかしそれを指摘する前に、侯爵は首を横に振る。正体のわからない、けれどどこか良くない感じだけが胸に残った。
「いいえ、見ておりませんね。お部屋ではないでしょうか。……ではニナ様、私は急いでおりますので、失礼」
「……部屋にいないから、訊いたんだけどなぁ」
どこか逃げるように立ち去る侯爵を、無言で睨みつける。ふっ、と隣に影が降りたのが分かった。もうすっかり慣れてしまった、けれど五日ぶりの感覚。
「カタリナ? どうしたの一体、出てこないんじゃ――」
「助言はすると言ったはずですわ。恐らく向こうです、急いで」
よく分からないまま、彼女の指差した方向に向かって走り出す。すぐ横を滑るようについてきながら、カタリナは囁いた。
「あの顔を見たでしょう? 警告はしていたはずですわよ、ニナ。あの男、完璧に真っ黒ですわ」
「……それって」
背筋に冷水を浴びせられたような感覚。立ち止まるなと自分に言い聞かせ、必死に足を動かしながら、視線だけを隣の精霊に向ける。彼女は今までに見たことが無いほど険しい顔で、はっきりと頷いた。
「人の心、とりわけ悪人の心に関してでしたら、私ははっきりと断言出来ますもの。早く行かなければ、あの王子が危ないかもしれません。……もっとも、行ったところで何かが出来るとも――」
「カタリナ!」
ふっ、と彼女の姿が掻き消える。聖地で姿を現すのは難しいと本人があんなに言っていたのだ、むしろ助言してくれただけありがたいのだろう。それでも、不安は消せなかった。
やがて見慣れた銀髪が視界に映って、私はほっと息をつく。ここは……中庭、だろうか。中央神殿は他の神殿と違って酷く複雑な作りで、あちこちに中庭があったりして、城かと錯覚するほど規模の大きい建物だから、この五日間で来たことが無い場所があるのも当然だろう。
「ニナ?」
「……良かった」
驚いたように振り返る彼に、私はそっと微笑む。彼を見つけられた時点で私は安心しきっていて……だからだろう、辺りに人がいないことにも、カタリナの警告の意味にも、気付けなかった。
「どうしてここに……」
私の方に歩いてくる彼の足下で、何かが光る。
自分が何を考えたのか知る前に、私は飛び出していた。駄目だ、何かよく分からないけれど、駄目なのだ。危ない。――守ら、ないと。
体当たりするようにシリルに飛びついて、そのまま彼を何かから庇うように倒れ込む。やたらと体が熱かった。目を凝らせば私を、そしてシリルを覆うように、薄い光の膜が出来ている。
そこまで認識したところで、体ごと砕け散ってしまいそうなほどの爆音と衝撃に意識を奪われた。
こんばんは、高良です。
いよいよ聖地編……なのですが予定よりだいぶ早く終わりそうで驚愕しています。あれぇおかしいなこんなにあっさりな予定じゃ……まぁいいや。
そんなわけで噂の大神官長様。第三部まではちょこちょこ出てくるだけだった世界の謎が第五部からは深く関わってくるのですが、第四部はいわばその狭間に位置するお話。少しずつ、『枯花』後半戦の幕は上がってきています。
さて、出発前の嫌な予感は、見事に的中してしまったようですが……?
では、また次回。




