第二十一話 彼女がもたらしたのは
「加波さん? 少し良いかしら」
突然そう声をかけられたのは、高校の入学式が終わり、帰ろうと教室を出かけたときのことだった。私は振り返り、担任となった女教師に頷き返す。
「はい、もちろん。お兄ちゃんのことですか? 伊崎先生」
「そっくりねぇ、そういうところ」
私の答えに、先生は苦笑した。
一度も会ったことがない兄だけれど、小さい頃から憧れていた人にそっくりだと言われるのは嬉しい。僅かな照れ臭さを隠すように、悪戯っぽく微笑む。
「お兄ちゃんとは高校から一緒だけど中学から知り合い同士ではあって、高校に入ってから告白したけどあっさり玉砕して、でも普通に仲は良くて、生徒会でも一緒で、ついでに二年生から同じクラスだったんですよね」
「……詳しいわね」
「お姉ちゃんやお母さんが色々話してくれましたから」
柚希お姉ちゃんともお兄ちゃんと通じて親しくなった人の一人で、高校を卒業してからも交流はあったらしい。彼女からお兄ちゃんや咲月さんたち以外の知り合いのことを聞くのは珍しかったから、よく覚えている。
だけど、まさかその人が自分の担任になるなんて思わなかった。入学式で名前を聞いたときには驚いたし、向こうも私の名前を見つけたときはもっと驚いたことだろう。もちろん、ここはお兄ちゃんが通っていた学校で、お姉ちゃんや先生の母校なのだから、私がここを選んだことも先生がここで働いていることも不思議じゃないのだけれど。
「柚希とも知り合いなの? ……ああ、柚希はあの後も慎の家族を気にかけてたっけ」
「はい。先生は、東京の方の大学でしたよね?」
「ええ、その後もしばらく向こうにいてね。ちょうど帰ってきてすぐに高校の同窓会があって、そこで柚希とも再会して……」
そこまで話して、彼女は不意に口を噤む。その理由も、表情に影が差した理由も、聞く必要は無かった。中学の頃、来実さんにも聞いた話だ。お姉ちゃんが行方を眩ましたのは、その一週間後だったと。
「ああ、ごめんなさい。それにしても、名簿に貴女の名前を見つけたときはびっくりしたわ。貴女が生まれたことは柚希に聞いてたけど、まさかうちの学校に来るなんて思わなかったもの。それも、私が受け持つクラスになるなんて。懐かしくて、つい話しかけちゃった」
「じゃあ、特に用事ってわけじゃなかったんですね? 良かった、兄に振られた恨み言でも言われたらどうしようかと思ってました」
「嫌ね、言うわけないじゃない。慎とはその後も普通に友達だったって、貴女が言ったんでしょ? 大体、慎は振られたくらいで恨めるような相手じゃなかったわ。……私たちは彼が優しいことを知っていたけれど、彼が優しすぎることを知っていたのは柚希だけだったのかもしれないわね」
彼女が遠い目をしたのは一瞬のことで、先生はすぐに私に視線を戻し、にこりと微笑む。
「おばさんは元気? 入学式には来たのかしら」
「実は昇降口で待ち合わせしてるんです。入学祝に美味しいものでも食べて帰ろう、って話になって」
「そうなの? ごめんなさい、邪魔しちゃったかしら」
「いえ、大丈夫です。お母さんとも知り合いだったんですね」
「それはもう、我らが会長殿のお母様には大変お世話になりましたから。」
おどけた口調でそう答え、彼女はおかしそうに笑った。そのまま腕の時計に視線を落とし、先生は頷く。
「でも、それならあまり引き留めちゃ悪いわよね。おばさんとも久しぶりに話したかったけど、それは三者面談のときにでもとっておきましょう。……旧友のお母さんが生徒の母さんかぁ」
「あははっ、頑張ってくださいね」
「他人事みたいに言ってくれるじゃない。それじゃ、時間を取らせちゃってごめんなさい、加波さん。また明日ね」
「あっ、……あの!」
くるりと私に背を向け、先生は職員室への方へと歩いて行った。それを引き留めるように、彼女の背に声をかける。不思議そうに振り返った彼女が口を開く前に、私は訊ねた。
「先生は、お姉ちゃんが死んだとき……その……」
「私たちね、加波さん。仲間を失う哀しみは、何度も味わったのよ」
うまく言葉にできず黙りこくった私に、先生は諭すような口調で答える。ハッと顔を上げると、哀しげな微笑が視界に映った。
「哀しかったし、苦しかったし、辛かった。だけど慎が死んだとき、たった一人だけ前を見据えて、沈んでちゃ駄目だって私たちを叱ってくれたのが柚希だったの。だったら私たちも――哀しまずにいることは出来ないけど、いつまでも俯いてちゃいられないでしょう?」
「……はい。私も、そう思います。そう、思いました」
そっと目を閉じ、頷く。その力強い口調はどこか懐かしくて、確かにお姉ちゃんの言葉を似た響きを持っていた。
◆◇◆
「ニナ。それで、話したいことって?」
「あ……」
お兄ちゃんのその言葉に、顔を上げる。けれど同時に同じことをしたお姉ちゃんとバッチリ目が合って、すぐにまた二人とも俯いた。そんな私たちを見て、お兄ちゃんは苦笑する。当然だろう、この部屋に来てからずっとこんな調子なのだ。怒らないどころかずっと笑顔のままな辺りが流石である。
「君もリザも、あまり遅くならないうちに部屋に戻らないといけないだろう? 話がどれだけ長いものかは分からないけれど、そろそろ話し始めた方が良いんじゃないかな」
「そ、それは分かってるんだけど、その……」
彼の言葉はもっともだった。昼間ならともかくこんな夜遅くに、男性の部屋に年頃の女の子が訪れていた。それだけでも、この平和な城内じゃ格好のネタになることだろう。神子という私の立場は、話を盛り立てる材料にしかならない。俯く私の向かいで、お姉ちゃんは不満げにお兄ちゃんを睨んだ。
「あたしは別にここに泊まっても良いんだけど」
「……リザ、野宿でも宿に泊まるのでも無いのにそういうこと言うのは、色々とまずいから」
「どこが?」
素知らぬ顔で微笑むお姉ちゃんを見て、思わず吹き出す。当然二人に注目されて、私はどうにかこみ上げる笑いを抑え込んだ。
「ごめん、何ていうかその、二人とも仲良いんだね。良かった。何ていうか、もうちょっとぎくしゃくしてるのかと思ってたんだ。ほら、カタ……あの子に、何があったかは聞いてたから」
名前を呼んだらまた昨日のように話が進まなくなると気付き、慌てて言い直す。私の言葉を聞いて、お姉ちゃんが顔を顰めた。
「よりによってウィクトリア帝国の狂王女をあの子呼ばわり出来る人間なんて、世界中探してもあんたくらいだわ」
「良い子なんだよ? あれでも」
「その『良い子』とやらに、こっちは散々苦労させられたのよ」
それもアドリエンヌさんやシリル、カタリナから詳しく聞いているだけに、反論も出来ない。曖昧に笑い、私は話題を切り替えた。
「えっと……それじゃ、本題に入るね」
その言葉に、二人も僅かに表情を引き締める。さてどこから話そうか、と考え、私は躊躇いがちに口を開いた。
「その……柚希お姉ちゃんが、死んだときのこと、なんだけど」
「っ」
聞いた途端、お姉ちゃんは目を見開く。一瞬で顔が青ざめたのが、向かいに座っているとはっきり分かった。それだけで僅かに心が痛んだけれど、ここで止めるわけにもいかない。
「あのとき、私は何も知らされなかったんだ。もちろん、今思えばそれはお父さんやお母さんが私を気遣ったからなんだけど……それでも、私は知りたかった。何がお姉ちゃんを奪ったのか、お姉ちゃんの身に起きた全てを知りたかった」
「そう……でしょうね。あんた、昔から好奇心強かったもの」
ぎこちなく頷くお姉ちゃんは、話が始まってから私と視線を合わせようとはしなかった。あえてそれには気付かないふりをして、言葉を続ける。
「最初は自分で調べようとしたんだけど、新聞とかじゃ当たり障りのないことしか書いてないし、雑誌は面白がるような書き方ばっかりで、本当のことかどうかなんて分からなくて。ねえお兄ちゃん、来実さんって、お兄ちゃんの友達だったんだよね?」
「来実……冬哉のこと? 知り合いなの?」
訊ねると、彼は僅かに驚いたように訊き返してきた。ずっとお姉ちゃんに向けていた視線を今度はお兄ちゃんの方に向け、私は頷く。
「事件のことを一番よく知ってるのは、犯人を除いたら警察くらいでしょ? 教えてもらえるわけないとは思っていたんだけど、駄目元で行ってみて、そこで会ったの。話しているうちに、お兄ちゃんの知り合いだって分かって……本当は駄目なんだけど、色々教えてもらったんだ。妹ってやつには弱いんだ、って」
「そう……知夏ちゃん、まだ見つかっていないんだ。そうか、だから警察に。冬哉らしいな」
どこか辛そうに、けれど懐かしそうに、お兄ちゃんは目を細めた。そういえばあの人の妹さんが行方不明になったのは、お兄ちゃんが命を落とす前のことだったんだっけ。行方不明と言えば、今の私もそういう扱いを受けているのだろうか。気を抜くと浮かんでくる不安を振り払い、お姉ちゃんに視線を向ける。私とお兄ちゃんが話しているのを蒼白な顔で見ていた彼女は、私と目が合うと僅かにその目を細めた。
「それで? 色々って、どこまで聞いたのよ」
「全部。何があったのかの推測とか、どんな状態で発見されたかとか。……それで、ね」
懐からずっと持ち歩いていた封筒を取り出し、テーブルの上に置く。流石にそれだけでは中身は分からなかったのだろう、対面に座る二人は揃って首を傾げた。中学の頃、来実さんにこれを渡された時のことを思い出し、けれど自然と口調は固くなる。
「その時に、来実さんに受け取ったのがこれ。お姉ちゃんが発見された時の写真と、その状態についての詳しい説明だって言ってた」
「っ!」
ガタン、と音を立てて、お姉ちゃんが勢いよく立ち上がった。真っ青なまま封筒を凝視し、彼女は何度か唇を開閉させるけれど、それは声にはならない。お兄ちゃんが心配そうに見上げていることにも、気付いていないようだった。
「お姉ちゃんの死の瞬間と本気で向き合う覚悟が出来るまで、これを開けてはいけない。そう、来実さんと約束したの。多分、私にその覚悟は出来ない。絶対に、出来ないと思う」
「だから、リザに?」
「お姉ちゃんと、お兄ちゃんに。……ごめんね、話すべきじゃなかったのは分かってる。二人の傷を抉るだけだって分かってたけど、でも二人に会っちゃったらもう、私はその重みに耐えられなかった」
もう二度と会えない。そう思っていたからこそ、ずっとこれを持っていられたのかもしれない。再会した瞬間、ただの紙封筒はずしりと重くなって、全てを話さずにはいられなくなった。勝手に全て知ってしまった罪悪感なのか、もっと別の何かなのか。
「中を見ろなんて言わないし、言えないよ。もちろん見るなとも言えないけど……お姉ちゃんが見たくないなら、燃やしちゃっても構わない」
「そう」
どこか掠れた声で答え、お姉ちゃんは無表情で封筒を見下ろす。やがて深く嘆息すると、彼女は椅子に座り直し、私に笑みを向けた。
「ありがと、ニナ」
「……怒らないの?」
その反応が予想外すぎて、私は思わず目を瞬かせる。お姉ちゃんはおかしそうに微笑し、手を伸ばして私の頭を撫でてきた。
「あんたが余程のことしない限り怒んないわよ」
「その割にはビシバシ叱られてた気がするんだけど……」
「小さい頃のあんたはろくでもないことばっかりしでかしてた、ってことじゃない?」
悪戯っぽく笑うと、お姉ちゃんはすっと封筒を自分の方に引き寄せる。私たちのやり取りを見守っていたお兄ちゃんが、不意に私の方を見た。
「そういえば、聖地訪問の日取りが決まったんだって?」
「ああうん、再来週くらいに出発して、来月頭にはこっちに戻ってくるって。っていうか情報早いね、お兄ちゃん」
今日決まったばかりで正式な発表は明日以降だとシリルが言っていたから、城の中でも本当に限られた人間しか知らないはずなのに。そう思って見上げると、お兄ちゃんはどこか読めない笑みを浮かべる。
「これでも『風の国の賢者』だからね。心配だから僕たちも同行させてもらおうか、ってリザと話していたんだけど……」
「一緒に来てくれるの?」
予想外の言葉に、私は思わず声を上げた。もちろんシリルは一緒に来るし、他にも同行者はいるというけれど、初めてアネモスの外に出るのだから不安なものは不安なのだ。ずっと旅を続けている二人が一緒に来てくれるというのなら、これほど心強いことは無いだろう。
「あたしもジルも信仰心は薄いし、聖地なんて近付きたくもないんだけどね。ニナが行くなら話は別だわ」
「それに、こっちにも色々と事情があるんだ。僕たちがこの間までクローウィンにいたのは知っているだろう? 向こうで請け負っていた仕事は、まだ続いていてね。少し、聖地で調べたいことがある」
「じゃあ……」
期待の目を向けると、兄はにこりと微笑み、頷く。
「明日、僕からシリル様に言っておくよ。一緒に行こう」
「うんっ!」
嬉しさに気を取られていたせいだろう。封筒の上に置かれたお姉ちゃんの手が、まるで力が入りすぎているかのように白くなっていたことに、私は最後まで気付けなかった。
こんばんは、高良です。……言い訳はしない。
さて、前半は高校に入ったばかりの頃のニナ。この担任の先生、実は第一部のかなり最初の方で名前だけ出てきていたりします。その後色々あってここにいたるのですが、その『色々』もいつか番外編で書きたいですね。
後半はニナの『話したいこと』。最後の文章については、伏線回収は恐らく第五部になるかと思います。次からまたシリニナ。多分。
ではでは、また次回!




