第9話 熱を重さに変える手
熱は、光みたいに来る。
見えないのに突然そこにあって、気づいたときには世界の形を変えてしまう。
幼い頃の私は、それを「熱」と呼べなかった。
胸の奥がざわついて、皮膚が痛くて、息が浅くなる――ただの“嫌な感じ”として覚えている。
その夜も、はじまりは小さかった。
⸻
部屋は暗い。
火鉢の赤は弱く、窓の布はきちんと掛かっている。外の冷たい光は刺さらない。いつもなら、それだけで眠れた。
なのに、その夜は落ちきれなかった。
布が肌に触れるたび、ちくりとする。
柔らかいはずの布が、今夜は刃みたいだった。
眉を寄せても変わらない。
変わらないから、息が浅くなる。浅い呼吸は胸をさらにざわつかせる。
声を出そうとした。
でも、喉が熱い。熱い喉は音を拒む。
――床が、かすかに鳴った。
鳴ったというより、空気が動いた。
父が起きたのだ。
父は眠っていても、私の呼吸が変わると起きる。剣士の勘ではない。父の勘だ。
足音が近づく。静かで、迷いがない。近づくほど暗闇が少しだけ小さくなる。
父は籠の縁に手を置き、私の額に指を当てた。
いつもの確かめる指。
けれど、その指がほんのわずかに止まった。
「……熱いな」
声は低い。驚いていない。
でも、硬い。
硬いのに刺さらない。私を怖がらせない硬さだ。
父は頬に触れ、首元に指を滑らせ、背中に手を当てた。
どこが熱いか、どこが冷たいか。剣を握る手ではなく、壊さないための手つき。
私は父の外套の匂いを探した。
匂いを吸うと息が少し戻る。戻ると、涙が出る。
痛いのか、怖いのか、自分でも分からない。
分からないから、ただ出る。
父は私を抱き上げた。
こんなときも、抱き上げる前の一拍を置く。急がない。急げば私の世界が崩れることを知っている。
外套の内側へ入れるように抱き寄せ、胸の温度で私の冷えを探した。
「……寒かったか」
答えられない。けれど、問いかけであることは分かる。
問いかけは、私を物にしない。
父は湯を沸かした。
鍋に水を張り、炭を足し、火を起こす。湯気が立ち上るまでの時間が長い。
私は父の腕の中で窓の布を見た。
揺れていない。隙間もない。夜の冷たい糸は入ってこない。
――それでも、熱は増える。
湯気が立った。白いものが空気を柔らかくする。
けれど今夜の湯気は、いつもより遠い。白いのに、近づけない。
父は湯を椀に注ぎ、布を濡らして絞った。
絞る指は強い。強いのに、布は破れない。父は力の使い方を知っている。
濡れ布が額に当たる。ひやり、として少しだけ気持ちいい。
でもすぐ、熱が戻ってくる。
父は布を替えながら、私の呼吸を聞いていた。
聞いて、合わせるように自分も呼吸をする。
呼吸が重なると、私は少しだけ落ち着く。
落ち着くと、熱が“痛み”から“重さ”に変わる。重さなら、抱えられる。
父が呟いた。
「……薬がいる」
迷いのない声だった。
ただ、外へ出る覚悟の硬さが混ざっている。
父は布を二枚、三枚と増やした。首元を締めないよう整え、外套の紐を結び直す。
結び目は不格好でも、ほどけにくい形。
戸口へ向かい、扉の前で立ち止まる。
一呼吸。境目を守る呼吸。
扉を少しだけ開けた。夜の冷たい空気が細い線になって入る。
私は身をすくめる。
父は必要な分だけしか開けない。線を太くしない。
それだけで胸のざわつきが少し抑えられた。
外は暗く、灯りが少ない。星の光が残っている。
布の外の星は冷たい。
私は外套の内側に顔を押しつけた。匂いが帰り道になる。
父は夜の道を選ぶ。人通りの少ない路地。灯りを避け、影を選ぶ。
影は暗いのに刺さらない。
歩く速度は速い。速いのに揺れが少ない。
揺れが少ないから、熱い頭が余計に痛くならない。
――前方に影が二つ。
金属の鳴る音。鎧の擦れる音。槍先が石を叩く音。
都の夜を巡る者たち。
「止まれ」
命令の声。
その声は胸を硬くする。
父は足を止めた。止め方が静かだ。急に止まらない。私の首が揺れないように。
衛兵が父の顔を覗き込み、すぐに表情を変えた。
「……おお。あなたは――」
肩書きの匂いがする。英雄、勇者。言葉になる前の匂い。
父はそれを切らない。切らずに、線を引く。
「……父だ」
衛兵が言葉を止めた。止めたまま、外套の奥――私を見た。
「子が……?」
父の腕が、私をさらに内側へ寄せた。見られる面積を減らす。視線が刺さらない距離。
「……熱がある。薬がいる」
衛兵は戸惑って頷いた。
「……通れ。だが、医師を呼ぶなら――」
父は小さく首を振る。
「……医師じゃない。薬草で足りる」
衛兵はまだ何か言いたそうだった。
でも父の目を見て、飲み込んだ。脅さない。ただ揺れない目。
衛兵が、私に向かって言いかける。
「お嬢――」
父の声が落ちた。
「……名で呼べ」
衛兵が驚き、それでも丁寧に言い直した。
「……名は?」
父は夜の空気に、迷いなく落とした。
「ルミシア」
その音は冷たくならなかった。
外の夜に落ちても、名は胸の奥を温めた。
衛兵は一度だけ頷いた。
「……ルミシア。早く良くなれ」
祈りの形をしている。けれど物語の圧じゃない。
短い優しさ。
父は頷き、歩き出した。
⸻
薬草の店は、夜でも小さく灯りがついていた。
扉の鈴が鳴る。鳴る音が刺さりそうになる。
でも父の腕が、背中に温度を置く。
奥から年配の女性が出てきた。目が軽い。噂を見る目じゃない。
女性は父を見て、すぐ私を見た。
眉を寄せる。
「熱ね」
言い切る声。判断の早い声。
威圧じゃない。生活の声。
「……今すぐ効くものを」
女性は頷き、棚から乾いた薬草をいくつか取り出した。
匂いが強い。土の匂い。苦い匂い。少し怖い。
「湯で煎じて、布も替えなさい。汗をかかせすぎない。
冷えないように。でも、熱を閉じ込めすぎない」
父は頷く。学ぶ人の頷き。英雄の頷きじゃない。
女性がふと、私の髪の結び目を見る。
不格好で、それでもほどけにくい結び目。
「その結び目、いいわね。
不器用でも、ほどけても、戻せる」
父は答えない。
でも、顔の角がほんの少し丸くなる。
女性は最後に小さな布袋を添えた。乾いた葉の甘い匂い。
「枕元に。呼吸が少し楽になる」
父は代金を払った。
女性が受け取りながら、胸の内側を見抜くように言う。
「一人で全部やろうとしないで。
でも、線を引くのはあなたの仕事ね」
父は短く頷いた。
「……分かっている」
声に疲れが混ざっている。
疲れは弱さじゃない。守り続けている証拠だ。
⸻
家に戻ると、父は外の線を消した。扉を閉め、窓の布を確かめ、隙間を消す。
火鉢を強くしすぎず、湯気の逃げ道を作る。
速い。けれど乱暴じゃない。
乱暴じゃない速さ。それが父の強さ。
鍋の中で湯が色を変え、苦い匂いが立つ。
私は顔をしかめた。
父が頬に指を当てる。
「……飲まなくていい。匂いだけでいい」
それだけでいい。
その言葉が胸を少し緩めた。
父は布袋を枕元に置いた。甘い匂い。刺さらない匂い。
濡れ布を替え、額に当て続ける。
冷えると、内側の熱が少し落ち着く。落ち着くと、痛みは重さになる。
重さになれば、抱えられる。
父はずっと、そばにいた。椅子ではなく床。私の呼吸と同じ高さで呼吸をする。
ときどき、名を呼ぶ。
確認ではない。灯りを置くために。
「ルミシア」
名が落ちる。名が落ちると、私は少し息を吸える。
――ある瞬間、父の手がほんの少し震えた。
濡れ布を絞る指が止まり、父は唇を噛む。
怖かったのだと思う。
剣を抜けば勝てる怖さじゃない。勝ち負けの外にある怖さ。
父は震えを隠さない。
でも、飲まれない。
短く息を吐き、私の名を呼ぶ。
まるで自分の心臓にも言い聞かせるように。
「ルミシア」
私の胸の奥が、少しだけ熱くなる。
熱は嫌な熱だけじゃない。名が落ちるときの熱は痛くない。
私は口を動かした。熱い喉で、音は出にくい。
でも、出したい音がある。
「……と」
父の体がぴたりと止まる。
沈黙が“待つ沈黙”になる。
「……う」
父の目が、ほんの少し揺れた。嬉しさと怖さと、壊したくない気持ち。
もう一つ、音を探す。
――出ない。
悔しい。悔しいと涙が出る。
父は布を替え、涙を拭いた。丁寧に。
「泣くな」と言わない拭き方。
「……いい。今は眠れ」
お願いの声。
私は目を閉じる。眠りは浅い。
でも、落ちるだけじゃない。休むことだ。
火鉢の赤。甘い匂いの布袋。父の呼吸。
その中で、私は少しだけ深いところへ沈んだ。
⸻
どれくらい経ったのか分からない。
熱は時間の形を変える。
けれど、ある瞬間。汗がすっと引いた。
皮膚の痛みが薄くなり、胸のざわつきが少し遠のく。
私は息を吸った。深く吸えた。
深く吸えたとき、私は“戻った”と感じた。熱の向こうから、ここへ。
父の指が額に当たる。いつもの確かめる指。
「……下がった」
声の温度が軽い。
そして、名。
「ルミシア」
名が胸に落ちる。
私は“言いたい音”を思い出す。
「……と」
父は待つ。
「……う」
父の喉が小さく動く。
息を吸って、最後の音を探す。
見つけた。
「……さ」
かすれている。完璧じゃない。
でも、つながった。
「……とうさ」
父はしばらく黙って、その音を受け取った。
受け取ってから、低い声で言った。
「……父だ」
肩書きじゃない。物語でもない。今の形。
「よし」
いつもの「よし」より少し震えている。
震えているのに、痛くない熱。
父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。
私はもう一度だけ、短く音を出した。
「……とう」
父は目を伏せ、息を吐いた。泣かない。笑わない。
ただ、戻った重さを受け止めるみたいに。
「……帰ってきたな」
帰ってきた。
私は父の匂いの中で、小さく息を吐いた。
⸻
朝が来た。
湯気の匂いが、いつもより優しい。火鉢の赤が、いつもより近い。窓の布の向こうの光は刺さらないまま、部屋を薄く明るくする。
父は薄い粥を作り、匙で少しずつ、息を吹きかけて冷ます。
その息の音が好きだ。「今日が続く」音だから。
「……熱いぞ」
私は口を開ける。温かいものが内側に入ると、体の中でも朝が始まる。
「よし」
それから父は、台所の内側の壁に掛かった小さな札を見た。
名が書かれた札。外のためではなく、中のための札。
父は私を抱き上げ、その前まで連れていく。
「ルミシア」
名が落ちる。
私は昨日の夜を思い出す。怖さの中でも名は消えなかった。父の手も消えなかった。
私は胸元の布を掴んで、かすれた声で言う。
「……とう」
父は頷く。
「……父だ」
そして、短く。
「よし」
湯気のある朝。名のある朝。呼びかけが届く朝。
その三つで、今日が始まる。
熱は光みたいに来る。
けれど――父の声もまた、光みたいに来る。
刺さらない光。戻れる光。
私を“私”の形に戻してくれる光。
それが、父の「呼びかけ」だった。
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