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第32話 通知:窓口の手紙

 朝の光の中で、封蝋の赤だけがやけに目立っていた。


 机の上に置かれた一通の手紙。

 紙は厚く、角が揃っている。触れる前から「急ぎではないふり」をしているのが分かる。


 父は椅子に腰を下ろし、無駄のない動きで封を切った。

 紙がわずかに鳴る。その音が、胸の奥の不安に針を立てる。


 父の目が文字を追って、いちど止まる。

 それだけで十分だった。中身は重い。


「……学府から?」


 私がそう尋ねると、父はうなずいた。


「通知だ」


 声はいつもと同じ。低くて短い。

 でも、紙を持つ指にだけ、少し力が入っていた。


 私はのぞき込みたい気持ちを飲み込む。

 見たら、心の中のざわめきが増える気がした。


 父は手紙を折り、私の目に触れない位置で机の端に置いた。


「行くの?」


「決める」


 決める。

 父のその二文字は、私にとって橋でもあり、時々こわい壁でもある。


 私は通い袋を抱えた。

 中のいちばん上、すぐ出せる場所に入れてある紙の角が指に当たる。


『困ったら:この窓口へ』


 短い言葉。

 必要だと思うだけで少し怖い。でも、あると守れる。


 父が立つ。


「持ったか」


「うん」


「紙は」


「ここ」


 私は通い袋の口を開け、紙の角が見えるのを確かめた。

 父はそれを見て、頷くだけ。


「行くぞ」


 余計な励ましがない。

 だから私は、歩ける。



 王都の朝は音が多い。

 荷車の車輪、呼び声、馬の蹄、石畳の足音。人の流れが止まらない。


 音のすき間に、噂が入りこむ。


「学府が動いたってさ」


「やっぱり、あの銀の目……」


 言葉が耳に刺さる前に、胸の奥に沈む。

 私は歩幅を乱しそうになって、すぐ戻した。


 父は人の流れの端を歩く。ぶつからない位置。逃げられる位置。

 いつも通りに見えて、今日は少しだけ近い。


「端」


 父が言う。


「うん」


 端を歩く。

 それだけで、背中に当たる視線が少し減る気がした。


 私は通い袋の紐を握り、結び目を確かめる。

 ほどけないと分かるだけで、心もほどけにくい。



 学び舎の門の前は、いつもより人が多かった。

 子どもだけじゃない。町の大人の視線も混ざっている。


 父の顔に気づいた誰かが、ひそひそと言った。


「……勇者だ」


 その一言で、視線が父に集まる。

 冷たい風が体の上を流れるみたいに、落ち着かない。


 父は立ち止まらない。

 声だけ落とす。


「名で呼べ」


 短い。強い。

 怒鳴っていないのに、ひそひそがすっと引っ込む。


 道が少し空いた。


 私は父の半歩後ろで、石畳の硬さを足の裏で感じながら歩いた。

 ここにいる。私は、ここにいる。



 教室に入ると、空気が妙に静かだった。

 視線がいっせいに動く。銀の瞳へ向かう視線は、今日は重い。


 机に座るまでの数歩が長い。


 担任の先生が、黒板の前に立った。

 いつもより少しゆっくり。


「おはよう。今日は最初に、約束を確認します」


 先生は掲示板を指さした。

 貼り紙が整列している。


『囲まない』

『噂は確かめる』

『困ったら先生へ』


 先生は新しい紙を一枚、貼り足した。


『本人に押し付けない』

『勝手に呼び出さない』


「噂が広がると、誰かが困ります。本人も、周りも」


 先生の声は大きくない。だから、ちゃんと届く。


「短い言葉でいい。守りやすい形にしよう」


 教室の空気が、少しだけ落ち着く。

 胸の奥も、少しだけ軽くなる。



 休み時間。

 机に座っていると、小さな紙が差し出された。


「ねえ、これ見て」


 折り目のある紙。その向こうに、期待の目。

 周りも寄りかける。半円。囲みの形になりかける。


 私は受け取る前に、短く言った。


「見ない。先生へ」


「えー、ちょっとだけ」


「先生へ」


 私は紙をひっくり返した。文字が見えないように。

 立ち上がり、先生の机へ向かう。


 先生は紙を受け取り、うなずいた。


「ありがとう。これは先生が預かるね」


 背中に当たっていた視線が散る。

 囲みの形が崩れる。私は息を吐いた。


 言葉を増やさなくても、守れる。

 その手応えが指先に残った。



 昼休み。

 友だちが隣に座って、小さな声で聞いた。


「ねえ……学府って、行くと戻れないって本当?」


 冗談みたいなのに、胸がきゅっとなる。

 戻れない。学校に戻れない。家に戻れない。ここに戻れない。


 私は短く言った。


「知らない」


 それしか言えない自分が嫌で、視線が落ちる。


 友だちは慌てて手を振った。


「ごめん! 脅かすつもりじゃなくて」


 私は首を振った。

 脅かすつもりじゃないのは分かる。

 でも噂は、いつもそういう顔で近づいてくる。


 そのとき、私の中で一つの言葉が固まった。


 私は、ここに通いたい。


 願いというより、呼吸みたいなもの。

 当たり前にしたい当たり前。



 午後。

 廊下が少しざわついた。でも、嫌なざわつきじゃない。


 担任の先生が教室の扉を開け、誰かを案内した。

 入ってきたのは学府の先生だった。


 髪を後ろでまとめた女性。目が落ち着いている。


「こんにちは。私はマリエです。学府の者です」


 教室が一瞬、固まる。

 学府。特別。確認。そういう言葉が、空気の裏で揺れる。


 でもマリエ先生は、最初に言った。


「今日は確認をしに来たんじゃありません。約束をしに来ました」


 子どもたちの目が、少し丸くなる。


「聞きたいことがあるとき、本人に押し寄せるのは危ないです。本人も困るし、周りも困ります」


 短い言葉。押さない言い方。


「だから、窓口を作ります。質問は、ここに入れてください」


 マリエ先生は小さな箱を取り出した。

 ふた付きで、中が見えない。


「紙に書いて、この箱へ。先生がまとめて読みます。必要なら、私も答えます」


 ざわっとする。

 でもそれは見物のざわつきじゃない。仕組みに興味が向いた音だ。


 担任の先生も頷いた。


「いいね。これなら、囲まないで済む」


 教室の空気が整う。

 私は、その整い方に救われた。



 放課後。

 私は別室に通された。


 机の上に紙。

 担任の先生とマリエ先生、そして父。


 父は椅子に座っているだけで、場を落ち着かせる。

 剣はない。でも、揺れない背中がある。


 マリエ先生が、通知の内容を短くまとめた。


「学府からは来訪のお願いが来ています。けれど、ここで線を引けます」


 父が言った。


「本人の学校を優先する」


 それだけ。

 胸が温かくなる。私が言う前に、父が言ってくれた。


 マリエ先生は紙に書く。


「来訪は月に一度まで」

「必ず窓口が同席」

「本人が止めたら、その場で終わり」

「学び舎に影響を出さない時間で」


 担任の先生も言う。


「教室の約束とつなげます。『勝手に呼び出さない』を、もっとはっきり掲示します」


 言葉が守りに変わっていく。

 私は、その変わり方を見ていた。


 線ができる。

 線があると、人はやさしくなれる。



 ドアが少し強く叩かれた。

 ノックというより合図みたいに。


 返事を待たず、扉が開く。


 入ってきたのは背の高い男の人。

 襟の硬い服。忙しい目。


「マリエ、聞いたぞ。通知を出した。今日中に確認すべきだ」


 場が張りつめる。

 その張りつめ方に、私の呼吸も引っかかりそうになる。


 マリエ先生は落ち着いて言った。


「今日は線を決めています。手順通りです」


「線? そんな悠長な話じゃない。珍しい反応だったんだろう。今のうちに——」


 男の人の視線が、私の目元に向かう。

 勝手に決める視線。期待の視線。


 父が立った。


 剣はない。

 でも、止まる距離がある。


「しない」


 低く、短い声。

 男の人が眉を動かす。


「君は——」


「順番だ」


 それだけで、空気が止まる。


 マリエ先生が重ねる。


「本人が止めたら終わり。今ここで決めた線を越えません」


 男の人は口を開きかけて閉じた。

 不満が顔に出る。それでも越えられない。


「……分かった。だが、また連絡する」


 足音が遠のき、扉が閉まる。


 私は椅子の背を握っていた。

 気づいたら指が白くなっている。


 父が私を見る。


「大丈夫か」


 短い。けれど、ちゃんと私の方を向いている。


 私は息を吸って吐いた。


「……うん」


 震えていた。

 でも、越えられない線が、私を守ってくれた。



 話し合いが終わりかけたとき。

 私の中の言葉が、もう逃げられない形になった。


 言うなら今。

 今なら窓口の人がいて、先生がいて、父がいる。


 私は小さく息を吸った。


「……わたし」


 声が小さい。

 でも、誰も急かさない。待ってくれる沈黙がある。


「私は、ここに通いたい」


 言えた。

 胸の奥が、少し軽くなる。


 父が目を閉じた。ほんの一瞬。

 それは私に言わせてしまった痛みなのかもしれない。


 でも父は、短く言った。


「分かった」


 その二文字が、足の裏に地面を作った。


 マリエ先生も頷く。


「本人の望みが、いちばん大事です」


 担任の先生も微笑んだ。


「守り方、増やそうね」


 増やす。

 閉じこめるためじゃない。歩くための道を増やす。



 別室を出ると、廊下の光がさっきより明るく見えた。

 明るいからじゃない。私の中の重さが少し減ったからだ。


 翌日からの準備として、教室に箱を置くことになった。

 担任の先生が言う。


「質問は箱へ。本人に押し付けない。困ったら先生へ」


 掲示板に新しい紙が貼られる。


『質問は箱へ』

『本人に押し付けない』

『困ったら先生へ』

『勝手に呼び出さない』


 読み上げ係の子が、小さな声で読んだ。

 周りの子がふっと止まる。


 誰かが集まりかけても、自然に距離ができる。

 守り方が、言葉の形でそこにある。


 私はその光景を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。



 夜。宿の机。

 父が、お湯の杯を置く。湯気が細く上がり、部屋の角が少し丸くなる。


 私は記録帳を開いた。

 筆先が紙に触れ、止まらずに動く。


「学府の手紙が来た」

「線を引いた」

「質問は箱へ」

「私は、ここに通いたいと言えた」


 最後に、一行。


「窓口がある」


 書けたら、胸の中の暗さが少しほどけた。


 父が、お湯の杯を持ち上げずに言った。


「……俺は、一人で守るつもりだった」


 父がそんなふうに言うのは珍しい。

 短いのに、重い。


「でも、もうやめる」


 私は顔を上げた。


「やめる?」


「一人で守るのを、やめる」


 父の声はいつもと同じ。

 けれど今日は、それが少しだけやさしい。


 私は小さく笑って頷いた。


「うん。増やす」


 湯気がゆっくり上にのぼっていく。

 私はそれを見ながら、静かに思った。


 守り方が増えると、やさしさも増える。


「行きたい」と言えた日は、私の居場所が私のものになった。

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