第32話 通知:窓口の手紙
朝の光の中で、封蝋の赤だけがやけに目立っていた。
机の上に置かれた一通の手紙。
紙は厚く、角が揃っている。触れる前から「急ぎではないふり」をしているのが分かる。
父は椅子に腰を下ろし、無駄のない動きで封を切った。
紙がわずかに鳴る。その音が、胸の奥の不安に針を立てる。
父の目が文字を追って、いちど止まる。
それだけで十分だった。中身は重い。
「……学府から?」
私がそう尋ねると、父はうなずいた。
「通知だ」
声はいつもと同じ。低くて短い。
でも、紙を持つ指にだけ、少し力が入っていた。
私はのぞき込みたい気持ちを飲み込む。
見たら、心の中のざわめきが増える気がした。
父は手紙を折り、私の目に触れない位置で机の端に置いた。
「行くの?」
「決める」
決める。
父のその二文字は、私にとって橋でもあり、時々こわい壁でもある。
私は通い袋を抱えた。
中のいちばん上、すぐ出せる場所に入れてある紙の角が指に当たる。
『困ったら:この窓口へ』
短い言葉。
必要だと思うだけで少し怖い。でも、あると守れる。
父が立つ。
「持ったか」
「うん」
「紙は」
「ここ」
私は通い袋の口を開け、紙の角が見えるのを確かめた。
父はそれを見て、頷くだけ。
「行くぞ」
余計な励ましがない。
だから私は、歩ける。
◆
王都の朝は音が多い。
荷車の車輪、呼び声、馬の蹄、石畳の足音。人の流れが止まらない。
音のすき間に、噂が入りこむ。
「学府が動いたってさ」
「やっぱり、あの銀の目……」
言葉が耳に刺さる前に、胸の奥に沈む。
私は歩幅を乱しそうになって、すぐ戻した。
父は人の流れの端を歩く。ぶつからない位置。逃げられる位置。
いつも通りに見えて、今日は少しだけ近い。
「端」
父が言う。
「うん」
端を歩く。
それだけで、背中に当たる視線が少し減る気がした。
私は通い袋の紐を握り、結び目を確かめる。
ほどけないと分かるだけで、心もほどけにくい。
◆
学び舎の門の前は、いつもより人が多かった。
子どもだけじゃない。町の大人の視線も混ざっている。
父の顔に気づいた誰かが、ひそひそと言った。
「……勇者だ」
その一言で、視線が父に集まる。
冷たい風が体の上を流れるみたいに、落ち着かない。
父は立ち止まらない。
声だけ落とす。
「名で呼べ」
短い。強い。
怒鳴っていないのに、ひそひそがすっと引っ込む。
道が少し空いた。
私は父の半歩後ろで、石畳の硬さを足の裏で感じながら歩いた。
ここにいる。私は、ここにいる。
◆
教室に入ると、空気が妙に静かだった。
視線がいっせいに動く。銀の瞳へ向かう視線は、今日は重い。
机に座るまでの数歩が長い。
担任の先生が、黒板の前に立った。
いつもより少しゆっくり。
「おはよう。今日は最初に、約束を確認します」
先生は掲示板を指さした。
貼り紙が整列している。
『囲まない』
『噂は確かめる』
『困ったら先生へ』
先生は新しい紙を一枚、貼り足した。
『本人に押し付けない』
『勝手に呼び出さない』
「噂が広がると、誰かが困ります。本人も、周りも」
先生の声は大きくない。だから、ちゃんと届く。
「短い言葉でいい。守りやすい形にしよう」
教室の空気が、少しだけ落ち着く。
胸の奥も、少しだけ軽くなる。
◆
休み時間。
机に座っていると、小さな紙が差し出された。
「ねえ、これ見て」
折り目のある紙。その向こうに、期待の目。
周りも寄りかける。半円。囲みの形になりかける。
私は受け取る前に、短く言った。
「見ない。先生へ」
「えー、ちょっとだけ」
「先生へ」
私は紙をひっくり返した。文字が見えないように。
立ち上がり、先生の机へ向かう。
先生は紙を受け取り、うなずいた。
「ありがとう。これは先生が預かるね」
背中に当たっていた視線が散る。
囲みの形が崩れる。私は息を吐いた。
言葉を増やさなくても、守れる。
その手応えが指先に残った。
◆
昼休み。
友だちが隣に座って、小さな声で聞いた。
「ねえ……学府って、行くと戻れないって本当?」
冗談みたいなのに、胸がきゅっとなる。
戻れない。学校に戻れない。家に戻れない。ここに戻れない。
私は短く言った。
「知らない」
それしか言えない自分が嫌で、視線が落ちる。
友だちは慌てて手を振った。
「ごめん! 脅かすつもりじゃなくて」
私は首を振った。
脅かすつもりじゃないのは分かる。
でも噂は、いつもそういう顔で近づいてくる。
そのとき、私の中で一つの言葉が固まった。
私は、ここに通いたい。
願いというより、呼吸みたいなもの。
当たり前にしたい当たり前。
◆
午後。
廊下が少しざわついた。でも、嫌なざわつきじゃない。
担任の先生が教室の扉を開け、誰かを案内した。
入ってきたのは学府の先生だった。
髪を後ろでまとめた女性。目が落ち着いている。
「こんにちは。私はマリエです。学府の者です」
教室が一瞬、固まる。
学府。特別。確認。そういう言葉が、空気の裏で揺れる。
でもマリエ先生は、最初に言った。
「今日は確認をしに来たんじゃありません。約束をしに来ました」
子どもたちの目が、少し丸くなる。
「聞きたいことがあるとき、本人に押し寄せるのは危ないです。本人も困るし、周りも困ります」
短い言葉。押さない言い方。
「だから、窓口を作ります。質問は、ここに入れてください」
マリエ先生は小さな箱を取り出した。
ふた付きで、中が見えない。
「紙に書いて、この箱へ。先生がまとめて読みます。必要なら、私も答えます」
ざわっとする。
でもそれは見物のざわつきじゃない。仕組みに興味が向いた音だ。
担任の先生も頷いた。
「いいね。これなら、囲まないで済む」
教室の空気が整う。
私は、その整い方に救われた。
◆
放課後。
私は別室に通された。
机の上に紙。
担任の先生とマリエ先生、そして父。
父は椅子に座っているだけで、場を落ち着かせる。
剣はない。でも、揺れない背中がある。
マリエ先生が、通知の内容を短くまとめた。
「学府からは来訪のお願いが来ています。けれど、ここで線を引けます」
父が言った。
「本人の学校を優先する」
それだけ。
胸が温かくなる。私が言う前に、父が言ってくれた。
マリエ先生は紙に書く。
「来訪は月に一度まで」
「必ず窓口が同席」
「本人が止めたら、その場で終わり」
「学び舎に影響を出さない時間で」
担任の先生も言う。
「教室の約束とつなげます。『勝手に呼び出さない』を、もっとはっきり掲示します」
言葉が守りに変わっていく。
私は、その変わり方を見ていた。
線ができる。
線があると、人はやさしくなれる。
◆
ドアが少し強く叩かれた。
ノックというより合図みたいに。
返事を待たず、扉が開く。
入ってきたのは背の高い男の人。
襟の硬い服。忙しい目。
「マリエ、聞いたぞ。通知を出した。今日中に確認すべきだ」
場が張りつめる。
その張りつめ方に、私の呼吸も引っかかりそうになる。
マリエ先生は落ち着いて言った。
「今日は線を決めています。手順通りです」
「線? そんな悠長な話じゃない。珍しい反応だったんだろう。今のうちに——」
男の人の視線が、私の目元に向かう。
勝手に決める視線。期待の視線。
父が立った。
剣はない。
でも、止まる距離がある。
「しない」
低く、短い声。
男の人が眉を動かす。
「君は——」
「順番だ」
それだけで、空気が止まる。
マリエ先生が重ねる。
「本人が止めたら終わり。今ここで決めた線を越えません」
男の人は口を開きかけて閉じた。
不満が顔に出る。それでも越えられない。
「……分かった。だが、また連絡する」
足音が遠のき、扉が閉まる。
私は椅子の背を握っていた。
気づいたら指が白くなっている。
父が私を見る。
「大丈夫か」
短い。けれど、ちゃんと私の方を向いている。
私は息を吸って吐いた。
「……うん」
震えていた。
でも、越えられない線が、私を守ってくれた。
◆
話し合いが終わりかけたとき。
私の中の言葉が、もう逃げられない形になった。
言うなら今。
今なら窓口の人がいて、先生がいて、父がいる。
私は小さく息を吸った。
「……わたし」
声が小さい。
でも、誰も急かさない。待ってくれる沈黙がある。
「私は、ここに通いたい」
言えた。
胸の奥が、少し軽くなる。
父が目を閉じた。ほんの一瞬。
それは私に言わせてしまった痛みなのかもしれない。
でも父は、短く言った。
「分かった」
その二文字が、足の裏に地面を作った。
マリエ先生も頷く。
「本人の望みが、いちばん大事です」
担任の先生も微笑んだ。
「守り方、増やそうね」
増やす。
閉じこめるためじゃない。歩くための道を増やす。
◆
別室を出ると、廊下の光がさっきより明るく見えた。
明るいからじゃない。私の中の重さが少し減ったからだ。
翌日からの準備として、教室に箱を置くことになった。
担任の先生が言う。
「質問は箱へ。本人に押し付けない。困ったら先生へ」
掲示板に新しい紙が貼られる。
『質問は箱へ』
『本人に押し付けない』
『困ったら先生へ』
『勝手に呼び出さない』
読み上げ係の子が、小さな声で読んだ。
周りの子がふっと止まる。
誰かが集まりかけても、自然に距離ができる。
守り方が、言葉の形でそこにある。
私はその光景を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
◆
夜。宿の机。
父が、お湯の杯を置く。湯気が細く上がり、部屋の角が少し丸くなる。
私は記録帳を開いた。
筆先が紙に触れ、止まらずに動く。
「学府の手紙が来た」
「線を引いた」
「質問は箱へ」
「私は、ここに通いたいと言えた」
最後に、一行。
「窓口がある」
書けたら、胸の中の暗さが少しほどけた。
父が、お湯の杯を持ち上げずに言った。
「……俺は、一人で守るつもりだった」
父がそんなふうに言うのは珍しい。
短いのに、重い。
「でも、もうやめる」
私は顔を上げた。
「やめる?」
「一人で守るのを、やめる」
父の声はいつもと同じ。
けれど今日は、それが少しだけやさしい。
私は小さく笑って頷いた。
「うん。増やす」
湯気がゆっくり上にのぼっていく。
私はそれを見ながら、静かに思った。
守り方が増えると、やさしさも増える。
「行きたい」と言えた日は、私の居場所が私のものになった。




