第31話 噂拡散:光った珠と窓口の人
机の上に、一枚の紙が置いてあった。
白い紙。角がきれいで、指で押すと少しだけ硬い。
書かれている言葉は短い。
『担当:マリエ先生』
『困ったら:この窓口へ』
『言いにくいとき:この紙を見せる』
それだけ。
私は指先で文字をなぞり、ゆっくり息を吐いた。
決まりが増えるのは、少し怖い。
でも、決まりがあると守れる。
隣で父が荷物の紐を結んでいる。
きゅ、きゅ、と同じ音。一定の動き。
その音だけで、胸の奥が落ち着く。
「持ったか」
「うん」
「紙は」
「ここ」
私は通い袋のいちばん上に紙を入れた。
すぐ出せる場所。迷わない場所。
父はそれを見て、頷くだけだった。
「行くぞ」
余計な励ましはない。
だから、歩ける。
◆
王都の朝は、音が多い。
荷車の車輪。呼び声。馬の蹄。石畳の足音。
その音のすき間に、人の噂が入りこむ。
「聞いた? 学府で珠が光ったって」
私は足が止まりそうになって、すぐ歩幅を戻した。
机の端。淡い光。目が集まった瞬間。
胸の奥に残っている景色が、勝手に浮かぶ。
「銀の目が原因だってさ」
「占いみたいだよな」
言葉が耳に入って、胸の中を重くする。
刺さる前に流そうとしても、重さだけは残る。
父は歩調を変えない。
人の流れの端を歩く。ぶつからない位置。逃げられる位置。
「端」
父が短く言う。
「うん」
端を歩く。
それだけで、背中に当たる視線が少し減る。
私は通い袋の紐を握り、結び目を確かめた。
ほどけないと分かるだけで、心もほどけにくい。
◆
門の前は、列ができていた。
守衛が立ち、視線が行き来する。
父の顔に気づいた人が、ひそひそ声を漏らした。
「……勇者だ」
その一言で、周りの視線が父に集まる。
集まる視線は、風みたいに体の上を流れる。冷たい。
父は立ち止まらない。
声だけ落とす。
「名で呼べ」
短い。強い。
怒鳴っていないのに、場が静まる。
さっきまでのひそひそが引っ込む。
道が少し空いた。
私は父の半歩後ろで、石畳の硬さを感じながら歩いた。
足の裏が地面を掴む。
ここにいる、と思える。
◆
学府の控室は明るかった。
窓が大きく、机も椅子も整っている。
そこで待っていたのは、担当の先生だった。
髪を後ろでまとめた女性で、目が落ち着いている。
「ルミシアさん。今日は来てくれてありがとう」
最初の言葉が、丁寧で、重くない。
「呼び方は、ルミシアさんでいい?」
私は少し驚いて、頷いた。
「……はい」
「嫌なら変えられる。いつでも言ってね」
“いつでも”は、ときどき嘘みたいに聞こえる。
でもこの先生は、押してこない目をしていた。
父は部屋の端に立った。
近すぎない。遠すぎない。見える場所。
「今日は確認がいくつかあります。でも、全部やる必要はありません」
先生ははっきり言った。
「できる範囲でいい。途中で止めたくなったら、止めていい」
止めていい。
その言葉で、胸の奥が少し緩む。
「止めるときの言葉を、決めておこうか。短いのがいい」
先生は紙を置いて、鉛筆で候補を書いた。
『止めてください』
『今は無理です』
『先生、お願いします』
私は紙を見て、指先が冷えるのを感じた。
言葉は、いつも遅れる。
出したいときほど、出ない。
父が低い声で言う。
「合図だ」
私は小さく頷いた。
合図は、自分で出す。出せたら守れる。
「……『止めてください』が、いいです」
先生は笑わずに頷いた。
「うん。それでいこう。言えなくても、紙を見せればいい」
先生は、通い袋の中の紙を指した。
私はそれを取り出して、見せた。
「これ。困ったときは、この紙でいい。出せばいい」
道がある。
それだけで、怖さが少しだけ小さくなる。
◆
廊下から足音が近づいた。
ノック。返事を待たずに、扉が開く。
入ってきたのは、背の高い男の人だった。
服の襟が硬い。目が忙しい。
「担当、聞いたぞ。珠が反応したんだろう」
先生の表情は変わらない。
「確認は済んでいます。今日は——」
「いや、追加確認だ。珍しい反応だ。今のうちに詳しく——」
言葉が早い。
早い言葉は、追いつけない。追いつけないと、飲まれる。
男の人の視線が、私の目元に向く。
布をしていない。だから余計に。
胸が重くなる。息が浅くなりそうになる。
父が一歩前に出た。
剣はない。けれど、止まる距離がある。
「今はしない」
父の声は低い。短い。
男の人が眉を動かす。
「君は——」
「順番だ」
それだけで、空気が止まる。
先生がすぐ重ねる。
「手順通りです。本人が『今は無理』と言ったら、今日は終わり」
男の人は口を開きかけて、閉じた。
でも、まだ引かない目をしている。
視線が集まる。
私は、決めた言葉を思い出した。
短く。はっきり。
「止めてください」
声は震えた。
それでも、言えた。
先生がすぐ前に立つ。
私と男の人の間に、体で線を引く。
「今、本人が止めました。ここまでです」
男の人は一瞬、何か言いたそうにして、黙った。
父も先生も動かない。線が崩れない。
男の人は肩を落とすように言った。
「……分かった。また連絡する」
足音が遠のく。
私は椅子の背を握った。
膝の力が抜けそうだった。
先生がこちらを見る。
「言えたね」
私は小さく頷いた。
言えた。
それだけで、体の震えが少し減っていく。
父が短く言う。
「よくやった」
褒め言葉が短いと、受け取りやすい。
胸の奥が、少し温かい。
◆
学府を出ると、王都はさっきより騒がしかった。
人が増えている。噂も増える。
子どもたちの声が耳に入る。
「ねえ、光った珠ってさ」
「銀の目が——」
私の名前は出ていない。
でも、私のことだと分かる言い方。
胸の奥で、「説明しなきゃ」が動く。
説明できないのに、説明しないといけない気がする。
それは、期待と同じ重さだ。
父が言う。
「背負うな」
短い言葉で、肩から重さが落ちる。
「……うん」
「言いにくいなら、窓口だ」
父は通い袋を目で示した。
紙の場所。
私は紙の角を指で触って、頷いた。
◆
教室に入ると、視線がいっせいに動いた。
朝の空気が、ふっと止まるのが分かる。
「ルミシア、聞いたよ!」
直球の声。子どもは遠慮がない。
「学府の珠、光ったんでしょ? 占い?」
周りが寄りかける。半円。囲みの形。
私は息を吸って、短く答える。
「占いはできない」
「じゃあ、光らせたの?」
「知らない」
それでも引かない子がいる。
声が増える。空気がざわつく。
そこへ先生が入ってきた。
黒板の前に立ち、手を上げる。静かに止める合図。
「みんな、席へ」
先生は掲示板に新しい紙を貼った。
太い文字で、短い言葉。
『噂は確かめる』
『本人に押し付けない』
『困ったら先生へ』
「今日の約束を足します。噂は、確かめる。囲まない。押し付けない」
先生の声は大きくない。
だから、ちゃんと届く。
私は息を吐いた。
教室の中に、“止める手”がある。
◆
休み時間、近づいてきたのは友だちだった。
昨日も一緒に歩いた子。小さな声で言う。
「ごめんね。止めるの遅かった」
「……ううん」
本当は怖かった。
でも、来てくれたことは分かった。
そこへ、噂を広げた子が来る。
「だって、聞いたんだもん。光ったって。だから——」
友だちは責めない声で言った。
「聞いた話じゃなくて、見たことだけ言おう」
「見たこと……」
「見てないなら、言わない。噂は速いけど、止めるのもできるよ」
先生の掲示板と、同じ形の言葉だった。
短い。分かる。刺さらない。
噂の子は黙って、目を伏せた。
謝れない感じが残る。
でも、空気は壊れなかった。
私は小さく言う。
「ありがとう」
友だちは照れた顔で頷いた。
◆
放課後、廊下が少しざわついた。
学府の担当、マリエ先生が来ていた。
学び舎の先生と短く話している。
言葉が少ないのに、必要なことだけが進んでいく。
マリエ先生が私を見て、手を振った。
私は小さく会釈した。
先生は私に、紙を一枚渡した。
朝の紙より、少し小さい。
『困ったとき:これを先生に見せる』
『学府窓口:マリエ先生』
「今日、言えたの、えらかったね」
先生は笑いすぎない。
だから、胸が落ち着く。
「言いにくい日は、紙でいい。出せばいい」
私は紙を受け取った。
紙は軽い。けれど、“道”が入っている。
父が一歩前に出て、短く言った。
「助かる」
マリエ先生は少しだけ目を細めて頷く。
「こちらこそ。守り方は、増やした方がいい」
その言葉が、父の肩に乗っていたものを少し軽くする気がした。
◆
夜。宿。
父がお湯の杯を置く。湯気が細く上がり、部屋の角が少し丸くなる。
私は記録帳を開いた。
筆先を紙に当てて、止まる。
今日のことは、書きはじめると長くなる。
でも、短くてもいい。短い言葉は守りになる。
父が言う。
「どうした」
私は杯の湯気を見つめて、言った。
「……言えた」
「何を」
「止めてください、って」
父は急がせない。
待ってくれる沈黙がある。
「言って、止まった」
私は続けた。
声が少し震える。でも今日は、震えてもいい。
父が短く言う。
「よかった」
私は思わず、小さく笑った。
三文字だけで、胸が温かくなるのが分かる。
父は机の上の紙を見た。窓口の紙。
「……俺は、一人で守るつもりだった」
父がそう言うのは珍しい。
「でも、増やす」
私は頷く。
「うん。増やす」
父は私を見て、短く言う。
「背負うな」
「うん」
返事が自然に出る。
自然に出る返事が増えたのは、たぶん、いいことだ。
◆
私は記録帳に書く。
「噂は速い」
「確かめると止まる」
「止めてくださいと言えた」
「紙がある」
「窓口がある」
最後に、一行だけ足す。
少し迷って、それでも書く。
「助けを呼べた」
書けたら、胸の中の暗さが少しほどけた。
湯気がゆっくり上にのぼっていく。
私はその湯気を見ながら、静かに思う。
守り方が増えると、やさしさも増える。
助けを呼べる場所が増えた夜、私は少しだけ強くなれた。




