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第31話 噂拡散:光った珠と窓口の人

 机の上に、一枚の紙が置いてあった。


 白い紙。角がきれいで、指で押すと少しだけ硬い。

 書かれている言葉は短い。


『担当:マリエ先生』

『困ったら:この窓口へ』

『言いにくいとき:この紙を見せる』


 それだけ。


 私は指先で文字をなぞり、ゆっくり息を吐いた。

 決まりが増えるのは、少し怖い。

 でも、決まりがあると守れる。


 隣で父が荷物の紐を結んでいる。

 きゅ、きゅ、と同じ音。一定の動き。

 その音だけで、胸の奥が落ち着く。


「持ったか」


「うん」


「紙は」


「ここ」


 私は通い袋のいちばん上に紙を入れた。

 すぐ出せる場所。迷わない場所。


 父はそれを見て、頷くだけだった。


「行くぞ」


 余計な励ましはない。

 だから、歩ける。



 王都の朝は、音が多い。


 荷車の車輪。呼び声。馬の蹄。石畳の足音。

 その音のすき間に、人の噂が入りこむ。


「聞いた? 学府で珠が光ったって」


 私は足が止まりそうになって、すぐ歩幅を戻した。

 机の端。淡い光。目が集まった瞬間。

 胸の奥に残っている景色が、勝手に浮かぶ。


「銀の目が原因だってさ」


「占いみたいだよな」


 言葉が耳に入って、胸の中を重くする。

 刺さる前に流そうとしても、重さだけは残る。


 父は歩調を変えない。

 人の流れの端を歩く。ぶつからない位置。逃げられる位置。


「端」


 父が短く言う。


「うん」


 端を歩く。

 それだけで、背中に当たる視線が少し減る。


 私は通い袋の紐を握り、結び目を確かめた。

 ほどけないと分かるだけで、心もほどけにくい。



 門の前は、列ができていた。

 守衛が立ち、視線が行き来する。


 父の顔に気づいた人が、ひそひそ声を漏らした。


「……勇者だ」


 その一言で、周りの視線が父に集まる。

 集まる視線は、風みたいに体の上を流れる。冷たい。


 父は立ち止まらない。

 声だけ落とす。


「名で呼べ」


 短い。強い。

 怒鳴っていないのに、場が静まる。


 さっきまでのひそひそが引っ込む。

 道が少し空いた。


 私は父の半歩後ろで、石畳の硬さを感じながら歩いた。

 足の裏が地面を掴む。

 ここにいる、と思える。



 学府の控室は明るかった。

 窓が大きく、机も椅子も整っている。


 そこで待っていたのは、担当の先生だった。

 髪を後ろでまとめた女性で、目が落ち着いている。


「ルミシアさん。今日は来てくれてありがとう」


 最初の言葉が、丁寧で、重くない。


「呼び方は、ルミシアさんでいい?」


 私は少し驚いて、頷いた。


「……はい」


「嫌なら変えられる。いつでも言ってね」


 “いつでも”は、ときどき嘘みたいに聞こえる。

 でもこの先生は、押してこない目をしていた。


 父は部屋の端に立った。

 近すぎない。遠すぎない。見える場所。


「今日は確認がいくつかあります。でも、全部やる必要はありません」


 先生ははっきり言った。


「できる範囲でいい。途中で止めたくなったら、止めていい」


 止めていい。

 その言葉で、胸の奥が少し緩む。


「止めるときの言葉を、決めておこうか。短いのがいい」


 先生は紙を置いて、鉛筆で候補を書いた。


『止めてください』

『今は無理です』

『先生、お願いします』


 私は紙を見て、指先が冷えるのを感じた。

 言葉は、いつも遅れる。

 出したいときほど、出ない。


 父が低い声で言う。


「合図だ」


 私は小さく頷いた。

 合図は、自分で出す。出せたら守れる。


「……『止めてください』が、いいです」


 先生は笑わずに頷いた。


「うん。それでいこう。言えなくても、紙を見せればいい」


 先生は、通い袋の中の紙を指した。

 私はそれを取り出して、見せた。


「これ。困ったときは、この紙でいい。出せばいい」


 道がある。

 それだけで、怖さが少しだけ小さくなる。



 廊下から足音が近づいた。

 ノック。返事を待たずに、扉が開く。


 入ってきたのは、背の高い男の人だった。

 服の襟が硬い。目が忙しい。


「担当、聞いたぞ。珠が反応したんだろう」


 先生の表情は変わらない。


「確認は済んでいます。今日は——」


「いや、追加確認だ。珍しい反応だ。今のうちに詳しく——」


 言葉が早い。

 早い言葉は、追いつけない。追いつけないと、飲まれる。


 男の人の視線が、私の目元に向く。

 布をしていない。だから余計に。


 胸が重くなる。息が浅くなりそうになる。


 父が一歩前に出た。

 剣はない。けれど、止まる距離がある。


「今はしない」


 父の声は低い。短い。

 男の人が眉を動かす。


「君は——」


「順番だ」


 それだけで、空気が止まる。


 先生がすぐ重ねる。


「手順通りです。本人が『今は無理』と言ったら、今日は終わり」


 男の人は口を開きかけて、閉じた。

 でも、まだ引かない目をしている。


 視線が集まる。

 私は、決めた言葉を思い出した。


 短く。はっきり。


「止めてください」


 声は震えた。

 それでも、言えた。


 先生がすぐ前に立つ。

 私と男の人の間に、体で線を引く。


「今、本人が止めました。ここまでです」


 男の人は一瞬、何か言いたそうにして、黙った。

 父も先生も動かない。線が崩れない。


 男の人は肩を落とすように言った。


「……分かった。また連絡する」


 足音が遠のく。


 私は椅子の背を握った。

 膝の力が抜けそうだった。


 先生がこちらを見る。


「言えたね」


 私は小さく頷いた。

 言えた。

 それだけで、体の震えが少し減っていく。


 父が短く言う。


「よくやった」


 褒め言葉が短いと、受け取りやすい。

 胸の奥が、少し温かい。



 学府を出ると、王都はさっきより騒がしかった。

 人が増えている。噂も増える。


 子どもたちの声が耳に入る。


「ねえ、光った珠ってさ」


「銀の目が——」


 私の名前は出ていない。

 でも、私のことだと分かる言い方。


 胸の奥で、「説明しなきゃ」が動く。

 説明できないのに、説明しないといけない気がする。

 それは、期待と同じ重さだ。


 父が言う。


「背負うな」


 短い言葉で、肩から重さが落ちる。


「……うん」


「言いにくいなら、窓口だ」


 父は通い袋を目で示した。

 紙の場所。


 私は紙の角を指で触って、頷いた。



 教室に入ると、視線がいっせいに動いた。

 朝の空気が、ふっと止まるのが分かる。


「ルミシア、聞いたよ!」


 直球の声。子どもは遠慮がない。


「学府の珠、光ったんでしょ? 占い?」


 周りが寄りかける。半円。囲みの形。


 私は息を吸って、短く答える。


「占いはできない」


「じゃあ、光らせたの?」


「知らない」


 それでも引かない子がいる。

 声が増える。空気がざわつく。


 そこへ先生が入ってきた。

 黒板の前に立ち、手を上げる。静かに止める合図。


「みんな、席へ」


 先生は掲示板に新しい紙を貼った。

 太い文字で、短い言葉。


『噂は確かめる』

『本人に押し付けない』

『困ったら先生へ』


「今日の約束を足します。噂は、確かめる。囲まない。押し付けない」


 先生の声は大きくない。

 だから、ちゃんと届く。


 私は息を吐いた。

 教室の中に、“止める手”がある。



 休み時間、近づいてきたのは友だちだった。

 昨日も一緒に歩いた子。小さな声で言う。


「ごめんね。止めるの遅かった」


「……ううん」


 本当は怖かった。

 でも、来てくれたことは分かった。


 そこへ、噂を広げた子が来る。


「だって、聞いたんだもん。光ったって。だから——」


 友だちは責めない声で言った。


「聞いた話じゃなくて、見たことだけ言おう」


「見たこと……」


「見てないなら、言わない。噂は速いけど、止めるのもできるよ」


 先生の掲示板と、同じ形の言葉だった。

 短い。分かる。刺さらない。


 噂の子は黙って、目を伏せた。

 謝れない感じが残る。

 でも、空気は壊れなかった。


 私は小さく言う。


「ありがとう」


 友だちは照れた顔で頷いた。



 放課後、廊下が少しざわついた。

 学府の担当、マリエ先生が来ていた。


 学び舎の先生と短く話している。

 言葉が少ないのに、必要なことだけが進んでいく。


 マリエ先生が私を見て、手を振った。

 私は小さく会釈した。


 先生は私に、紙を一枚渡した。

 朝の紙より、少し小さい。


『困ったとき:これを先生に見せる』

『学府窓口:マリエ先生』


「今日、言えたの、えらかったね」


 先生は笑いすぎない。

 だから、胸が落ち着く。


「言いにくい日は、紙でいい。出せばいい」


 私は紙を受け取った。

 紙は軽い。けれど、“道”が入っている。


 父が一歩前に出て、短く言った。


「助かる」


 マリエ先生は少しだけ目を細めて頷く。


「こちらこそ。守り方は、増やした方がいい」


 その言葉が、父の肩に乗っていたものを少し軽くする気がした。



 夜。宿。

 父がお湯の杯を置く。湯気が細く上がり、部屋の角が少し丸くなる。


 私は記録帳を開いた。

 筆先を紙に当てて、止まる。


 今日のことは、書きはじめると長くなる。

 でも、短くてもいい。短い言葉は守りになる。


 父が言う。


「どうした」


 私は杯の湯気を見つめて、言った。


「……言えた」


「何を」


「止めてください、って」


 父は急がせない。

 待ってくれる沈黙がある。


「言って、止まった」


 私は続けた。

 声が少し震える。でも今日は、震えてもいい。


 父が短く言う。


「よかった」


 私は思わず、小さく笑った。

 三文字だけで、胸が温かくなるのが分かる。


 父は机の上の紙を見た。窓口の紙。


「……俺は、一人で守るつもりだった」


 父がそう言うのは珍しい。


「でも、増やす」


 私は頷く。


「うん。増やす」


 父は私を見て、短く言う。


「背負うな」


「うん」


 返事が自然に出る。

 自然に出る返事が増えたのは、たぶん、いいことだ。



 私は記録帳に書く。


「噂は速い」

「確かめると止まる」

「止めてくださいと言えた」

「紙がある」

「窓口がある」


 最後に、一行だけ足す。

 少し迷って、それでも書く。


「助けを呼べた」


 書けたら、胸の中の暗さが少しほどけた。


 湯気がゆっくり上にのぼっていく。

 私はその湯気を見ながら、静かに思う。


 守り方が増えると、やさしさも増える。


助けを呼べる場所が増えた夜、私は少しだけ強くなれた。

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