第30話 面談:外す合図
「確認のため、目元の布は外してください」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
言い方は丁寧だった。けれど、丁寧な命令ほど逃げ道がなくて、怖い。
私は、返事が出る前に息を吸っていた。浅くなりかけた息を、いったん止める。
大丈夫。今日は、聞き返していい。
父が言った言葉が、頭の中で短く光る。
合図は、お前が出す。
◆
朝の宿は静かだった。窓ガラスが少し白く曇っていて、指でなぞるとすぐに消える。
机の上には父が置いた杯。お湯の湯気が細く立って、部屋の角をやわらかくしていた。
私は両手で杯を包む。温かい。なのに指先はまだ冷たいままだ。
向かいで父が荷を整えている。布が擦れる音、紐が締まる音。必要な音だけ。
「水」
父が言う。確認の言葉。
「うん」
「紙」
「筆」
「薬」
父は指で数え、最後に私を見る。
「……目の布」
私は机の端に畳んである薄い布を見た。目元を隠すための布だ。外へ出たとき、人の視線が集まりすぎると、息が浅くなる。そういう日、私はこれの力を借りてきた。
今日は王都の学府で面談がある。
条件の一つに「入室時は外すこと」と書かれていた。
外す。外さない。
二つの言葉が、胸の中で小さくぶつかる。
父は余計な励ましをしない。けれど、私が迷っているのは分かっているはずだ。
だから父は短く言った。
「合図は、お前が出す」
その言葉が、私の手の中に小さな鍵を置いたみたいだった。扉の鍵じゃない。私の動きを始める鍵。
私は杯を机に戻す。湯気がゆらりと揺れた。
「……分かった」
声は小さくなったけれど、父は気にしない顔で頷いた。
「行くぞ」
それだけ。
それが父の「一緒に行く」の言い方だ。
◆
王都の門は、思ったより高い。というより、ずっと長い。壁が続いていて、「ここから先は人が多い」と言われているみたいだった。
門の前には列ができていた。荷車、馬車、人。話し声が混ざって、空気がざわざわする。
私は目の布をまだ外さないまま、父の半歩うしろを歩いた。父は人の流れの端を選ぶ。ぶつからない場所、立ち止まっても邪魔にならない場所。
「道の端」
父が言う。
「うん」
それだけで、歩き方が決まる。私は父の言葉を足元に置いて、その上を歩く。
守衛が父の顔を見る。次に腰のあたりを見る。剣がないのが不思議そうだった。
それでも父は短く用件を言う。
「面談」
「学府の登録ですか」
「そうだ」
守衛の目が、私に向いた。目の布のせいで、余計に見られる気がする。
背中が少し冷たくなる。視線は刺さらないのに、集まると重くなる。
そのとき、後ろの方から声が飛んだ。
「……勇者様?」
父の肩は動かない。歩調も変わらない。声だけが落ちる。
「名で呼べ」
短い。強い。けれど、怒鳴っていない。
声の主が黙る。周りの視線もほどける。道が少しだけ空いた。
胸に詰まりかけた息が、戻ってくる。
◆
学府の受付棟は城みたいに立派だった。石の床は冷たく、天井は高い。声が上に逃げるから、ざわざわしているのに耳の近くは意外と静かだ。
待合の長椅子に、子どもと保護者が並んでいる。きれいな服、整えた髪、磨いた靴。
私は通い袋を抱え直した。小さくて軽い。これなら私の手で持てる。
壁際に掲示板があり、注意書きが大きな字で貼ってある。
『順番を守る』
『走らない』
『声を大きくしない』
『困ったら係へ』
短い言葉。分かる言葉。
こういう言葉は、私を刺さない。守る場所になる。
父は椅子に座らず、少し離れた場所に立った。人の流れを邪魔しない位置。私が見える位置。
私は椅子に座る。
隣の子がちらりとこちらを見る。
「……銀、って」
言いかけて止まる声。止まると、余計に胸がざわつく。
私は通い袋の紐を指でなぞった。落ち着くための小さな動き。
大丈夫。今日は、聞き返していい。
そう思って掲示板の文字を目で追った。
◆
番号を呼ばれて受付へ行く。木のカウンターの向こうに事務の係が座っていた。紙の束をめくる音が乾いている。
「お名前を」
「ルミシア・ノクティエルです」
係は私の顔を見て、目の布を見る。
「確認のため、目元の布は外してください」
その瞬間、胸がきゅっとなる。今ここで?
父の声が低く落ちた。
「条件は入室時だ」
係が眉を上げる。
「こちらの手順では受付で確認します」
“手順”という言葉が、空気を少し固くする。周りの人がこちらを見始める。視線が寄る気配がする。
息が浅くなりそうになる。
私は思い出す。聞き返していい。短く。
私は係を見て言った。
「今すぐ、必要ですか」
声が震えているのが分かった。でも、言えた。
係が一瞬止まる。
父は声を荒くしないまま続けた。
「見るなら、責任ある場所で見ろ」
係は困った顔で紙をめくり、何かを確認する。しばらくして口を開いた。
「……承知しました。入室時の確認にします」
父は頷くだけ。
私は息を吐いた。肩が少しだけ下がる。
怖かった。でも止められた。
止めたのは父だけじゃない。私も、言えた。
◆
待合に戻ると、同じ年代くらいの子がこっちを見ていた。好奇心がそのまま顔に出ている。
「ねえ、ほんとに未来が見えるの?」
直球。
私は一瞬、笑いそうになった。未来が見えるなら、こんなに緊張していない。見えていたら、もっと上手くやれている。
でも笑うと、ふざけた感じになる。ここは短く。
「できない」
その子は「えー」と言いかけて止まった。たぶん、父が少しだけ視線を向けたから。父は何も言わない。でも目だけで「やめろ」が出る。
その子は慌てて言い直す。
「ごめん。噂で……」
「分からないことは、分からない」
私はそう言った。掲示板の言葉みたいに、短く。
その子は頷いた。
「面談、怖い?」
質問が変わった。未来から、今へ。
「少し」
「私も」
その子が小さく笑う。
それだけで、胸の固いところが少しほどけた。怖いのは私だけじゃない。
◆
呼び出しの声が響いた。番号。名前。
「ルミシア・ノクティエル」
足が止まりそうになる。扉の向こうが見えないから。
父が近づき、肩がぶつからない距離で横に立つ。
「困ったら」
父が言う。
「聞き返す」
私が続ける。
父は頷く。
それで十分。
廊下は静かだった。石の床が冷たく、靴の音がはっきりする。自分の音が大きいのが恥ずかしい。でも走らない。
扉の前で、私は目の布の結び目に指を置いた。
まだ外さない。
外す合図は、私が出す。
息を吸って、吐く。
心の中で数えてから扉を押した。
◆
面談室は明るかった。窓が大きい。机が一つ。机の向こうに大人が三人座っている。
真ん中に記録係。左に厳しい顔の人。右に穏やかな顔の人。
机の端に小さな道具が置いてあった。透明な珠みたいなもの。飾りに見えるけれど、飾りじゃない感じがする。
父は同席者として少し後ろに立った。近すぎない。けれど見える場所。
記録係が言う。
「名前を」
「ルミシア・ノクティエルです」
「なぜ学ぶ」
厳しい顔の人が、短く聞いてくる。
答えは長くなる。長いと絡まる。短く。
「生きるためです」
記録係のペンがカリカリと鳴る。その音が落ち着く。書かれると、言葉がちゃんと形になる気がする。
穏やかな顔の人が続けた。
「困っていることは?」
「囲まれるのが、怖いです」
厳しい顔の人が言う。
「噂は知っているか。銀の目は占いだと」
胸がきゅっとなる。噂は、ここまで追いかけてくる。
でも私は答え方を知っている。短く、事実。
「占いは、できません」
「では、何ができる」
質問が速い。速いと飲まれそうになる。
私は聞き返すことを選ぶ。
「“できる”は、何についてですか」
声が少し震えた。でも言えた。
穏やかな顔の人が頷く。
「学びについて。努力について」
努力はできる。未来が見えなくてもできる。
「学ぶことは、できます」
記録係のペンが止まらずに動く。よかった。
厳しい顔の人が、机の端の透明な珠を指で軽く叩いた。
「入室の条件を確認する。目元の布を外せ」
来た。
胸の奥が熱くなる。怖い。なのに、今日は逃げたくない。
父は動かない。前に出ない。これは私の場面だと分かっている。
私は結び目に指を置いた。
合図は私が出す。
ゆっくり息を整える。宿のお湯の湯気を思い出すみたいに。
「外します」
言ってから外す。奪われないために、言う。
布がするりと落ちる。視界が明るくなる。空気が冷たい。頬に風が当たる感じがした。
三人の視線が、まっすぐに私の瞳に向かう。
部屋が静かになる。
心臓の音が聞こえそうだった。
厳しい顔の人が、小さく言った。
「……なるほど」
その言い方が嫌だった。物みたいに言われた気がしたから。
私は短く言う。
「私は私です」
自分で言って、自分で守る。
穏やかな顔の人が言った。
「ありがとう。戻してもいいよ」
私は布を戻そうとして、指が止まった。
戻すのは逃げじゃない。でも、戻したら負ける気がした。そんな気持ちもある。
そのとき。
机の端の透明な珠が、淡く光った。
小さな光。音はない。けれど、光は目立つ。
空気が一気に変わる。
記録係のペンが止まった。
厳しい顔の人が立ち上がる。
その瞬間、父の声が落ちた。
「触るな」
低くて短い。剣はない。でも、声で止まる。
厳しい顔の人の手が止まる。
父は続ける。
「窓を開けろ」
穏やかな顔の人がすぐに窓へ行く。冷たい風が入り、頭の中が少しだけはっきりする。
私は珠を見る。光は淡い。熱は感じない。音もない。
私は短く言った。
「光りました」
当たり前の報告。でも、こういう当たり前が大事。
「音は、ありません」
「熱くないです」
言葉を増やしすぎない。見たことだけ言う。
穏やかな顔の人が頷く。
「確認しよう。担当を呼ぶ」
記録係がベルを鳴らした。
父が私にだけ聞く。
「怖いか」
「少し」
「見ろ」
逃げろ、じゃない。見ろ。確かめろ。
私は頷いた。
◆
しばらくして担当者が入ってきた。道具を扱う人の手。触る前に手袋をする。準備がある動きは安心する。
担当者は珠を見て眉を上げた。
「……反応したのか」
記録係が短く説明する。私が言ったことも伝える。
担当者は頷き、珠の周りを確認した。
「異常ではありません」
その一言で、部屋の緊張が一段下がる。
厳しい顔の人が言う。
「危険ではないと?」
「危険ではない。珍しい反応です。条件が揃うと光る」
穏やかな顔の人が私を見る。
「驚かせてしまったね。ごめん」
私は首を振りかけて、止めた。謝られたら「いいです」と言いたくなる。でも、怖かったのは事実だ。
短く、事実。
「怖かったです」
声が少し震えた。
でも続けた。
「でも、止められました」
父の声が落ちる。
「確認した」
それだけ。けれど、その二語で今日の出来事の形が決まる。騒ぎじゃない。確認だ。
記録係のペンがまた動き出した。カリカリという音が戻る。音が戻ると、呼吸も戻る。
◆
面談の最後に、穏やかな顔の人が紙を一枚出した。短い項目が並ぶ。
「目の布を外すのは、必要な場面のみ」
「担当の先生を決める」
「困ったら、相談の窓口へ」
言葉が短い。掲示板に貼れるくらい短い。
厳しい顔の人が言う。
「必要な場面、とは」
私は聞き返す。今日の型。
「“必要”は、誰が決めますか」
穏やかな顔の人がすぐに答える。
「基本は本人。加えて、担当の先生が相談する」
父が一言だけ足す。
「勝手に決めるな」
厳しい顔の人が眉を動かす。でも言い返さない。
私は続ける。
「今すぐ決める必要がありますか」
穏やかな顔の人が小さく笑った。
「いい質問だね。今日は骨組みだけにしよう。細かいところは担当と一緒に」
私は頷いた。決まりが増えるのは怖い。けれど、決まりがないまま人の気分で動く方がもっと怖い。
父が私を見る。
「合図は」
「私が出す」
「そうだ」
短い会話。短いのに心が落ち着く。
◆
受付棟を出ると、王都の風が冷たかった。人の匂いが混ざっている。馬車の匂い、焼きたてのパンの匂い、石の匂い。
父は歩調を崩さない。私は半歩うしろを歩く。
待合で会った子が、遠くから小さく会釈した。私は手を上げる。声は出さない。それで十分。
宿に戻ると、父はいつものように杯を置いた。お湯。湯気。静かな部屋。
私は記録帳を開く。今日のことを短く書く。
「面談」
「聞き返した」
「外した」
「光った」
「止めた」
「確認した」
最後に少しだけ迷って、書き足す。
「外したのは、私」
書けた。
父が言う。
「戻せ」
一瞬、何を戻すのか分からなかった。父は視線を私の手に落とす。私の指には、まだ目の布がかかっていた。
「……あ」
私は苦笑して布を畳む。
父の言葉はいつも短い。短いけれど、ちゃんと届く。
畳み終わると、胸の奥の暗さが少しだけ軽くなっていることに気づいた。
怖さは消えていない。けれど、守り方が増えた。
私は杯を両手で包んで、お湯を一口飲んだ。
温かい。
湯気がゆっくり上にのぼっていく。
私はその湯気を見ながら、心の中で言った。
今日の私は、奪われなかった。選んだ。
そして、また選べる。
外したのは、私だ。だから、戻れる。




