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第30話 面談:外す合図

「確認のため、目元の布は外してください」


 その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 言い方は丁寧だった。けれど、丁寧な命令ほど逃げ道がなくて、怖い。


 私は、返事が出る前に息を吸っていた。浅くなりかけた息を、いったん止める。


 大丈夫。今日は、聞き返していい。


 父が言った言葉が、頭の中で短く光る。


 合図は、お前が出す。



 朝の宿は静かだった。窓ガラスが少し白く曇っていて、指でなぞるとすぐに消える。


 机の上には父が置いた杯。お湯の湯気が細く立って、部屋の角をやわらかくしていた。


 私は両手で杯を包む。温かい。なのに指先はまだ冷たいままだ。


 向かいで父が荷を整えている。布が擦れる音、紐が締まる音。必要な音だけ。


「水」


 父が言う。確認の言葉。


「うん」


「紙」


「筆」


「薬」


 父は指で数え、最後に私を見る。


「……目の布」


 私は机の端に畳んである薄い布を見た。目元を隠すための布だ。外へ出たとき、人の視線が集まりすぎると、息が浅くなる。そういう日、私はこれの力を借りてきた。


 今日は王都の学府で面談がある。


 条件の一つに「入室時は外すこと」と書かれていた。


 外す。外さない。


 二つの言葉が、胸の中で小さくぶつかる。


 父は余計な励ましをしない。けれど、私が迷っているのは分かっているはずだ。


 だから父は短く言った。


「合図は、お前が出す」


 その言葉が、私の手の中に小さな鍵を置いたみたいだった。扉の鍵じゃない。私の動きを始める鍵。


 私は杯を机に戻す。湯気がゆらりと揺れた。


「……分かった」


 声は小さくなったけれど、父は気にしない顔で頷いた。


「行くぞ」


 それだけ。


 それが父の「一緒に行く」の言い方だ。



 王都の門は、思ったより高い。というより、ずっと長い。壁が続いていて、「ここから先は人が多い」と言われているみたいだった。


 門の前には列ができていた。荷車、馬車、人。話し声が混ざって、空気がざわざわする。


 私は目の布をまだ外さないまま、父の半歩うしろを歩いた。父は人の流れの端を選ぶ。ぶつからない場所、立ち止まっても邪魔にならない場所。


「道の端」


 父が言う。


「うん」


 それだけで、歩き方が決まる。私は父の言葉を足元に置いて、その上を歩く。


 守衛が父の顔を見る。次に腰のあたりを見る。剣がないのが不思議そうだった。


 それでも父は短く用件を言う。


「面談」


「学府の登録ですか」


「そうだ」


 守衛の目が、私に向いた。目の布のせいで、余計に見られる気がする。


 背中が少し冷たくなる。視線は刺さらないのに、集まると重くなる。


 そのとき、後ろの方から声が飛んだ。


「……勇者様?」


 父の肩は動かない。歩調も変わらない。声だけが落ちる。


「名で呼べ」


 短い。強い。けれど、怒鳴っていない。


 声の主が黙る。周りの視線もほどける。道が少しだけ空いた。


 胸に詰まりかけた息が、戻ってくる。



 学府の受付棟は城みたいに立派だった。石の床は冷たく、天井は高い。声が上に逃げるから、ざわざわしているのに耳の近くは意外と静かだ。


 待合の長椅子に、子どもと保護者が並んでいる。きれいな服、整えた髪、磨いた靴。


 私は通い袋を抱え直した。小さくて軽い。これなら私の手で持てる。


 壁際に掲示板があり、注意書きが大きな字で貼ってある。


『順番を守る』

『走らない』

『声を大きくしない』

『困ったら係へ』


 短い言葉。分かる言葉。


 こういう言葉は、私を刺さない。守る場所になる。


 父は椅子に座らず、少し離れた場所に立った。人の流れを邪魔しない位置。私が見える位置。


 私は椅子に座る。


 隣の子がちらりとこちらを見る。


「……銀、って」


 言いかけて止まる声。止まると、余計に胸がざわつく。


 私は通い袋の紐を指でなぞった。落ち着くための小さな動き。


 大丈夫。今日は、聞き返していい。


 そう思って掲示板の文字を目で追った。



 番号を呼ばれて受付へ行く。木のカウンターの向こうに事務の係が座っていた。紙の束をめくる音が乾いている。


「お名前を」


「ルミシア・ノクティエルです」


 係は私の顔を見て、目の布を見る。


「確認のため、目元の布は外してください」


 その瞬間、胸がきゅっとなる。今ここで?


 父の声が低く落ちた。


「条件は入室時だ」


 係が眉を上げる。


「こちらの手順では受付で確認します」


 “手順”という言葉が、空気を少し固くする。周りの人がこちらを見始める。視線が寄る気配がする。


 息が浅くなりそうになる。


 私は思い出す。聞き返していい。短く。


 私は係を見て言った。


「今すぐ、必要ですか」


 声が震えているのが分かった。でも、言えた。


 係が一瞬止まる。


 父は声を荒くしないまま続けた。


「見るなら、責任ある場所で見ろ」


 係は困った顔で紙をめくり、何かを確認する。しばらくして口を開いた。


「……承知しました。入室時の確認にします」


 父は頷くだけ。


 私は息を吐いた。肩が少しだけ下がる。


 怖かった。でも止められた。


 止めたのは父だけじゃない。私も、言えた。



 待合に戻ると、同じ年代くらいの子がこっちを見ていた。好奇心がそのまま顔に出ている。


「ねえ、ほんとに未来が見えるの?」


 直球。


 私は一瞬、笑いそうになった。未来が見えるなら、こんなに緊張していない。見えていたら、もっと上手くやれている。


 でも笑うと、ふざけた感じになる。ここは短く。


「できない」


 その子は「えー」と言いかけて止まった。たぶん、父が少しだけ視線を向けたから。父は何も言わない。でも目だけで「やめろ」が出る。


 その子は慌てて言い直す。


「ごめん。噂で……」


「分からないことは、分からない」


 私はそう言った。掲示板の言葉みたいに、短く。


 その子は頷いた。


「面談、怖い?」


 質問が変わった。未来から、今へ。


「少し」


「私も」


 その子が小さく笑う。


 それだけで、胸の固いところが少しほどけた。怖いのは私だけじゃない。



 呼び出しの声が響いた。番号。名前。


「ルミシア・ノクティエル」


 足が止まりそうになる。扉の向こうが見えないから。


 父が近づき、肩がぶつからない距離で横に立つ。


「困ったら」


 父が言う。


「聞き返す」


 私が続ける。


 父は頷く。


 それで十分。


 廊下は静かだった。石の床が冷たく、靴の音がはっきりする。自分の音が大きいのが恥ずかしい。でも走らない。


 扉の前で、私は目の布の結び目に指を置いた。


 まだ外さない。


 外す合図は、私が出す。


 息を吸って、吐く。


 心の中で数えてから扉を押した。



 面談室は明るかった。窓が大きい。机が一つ。机の向こうに大人が三人座っている。


 真ん中に記録係。左に厳しい顔の人。右に穏やかな顔の人。


 机の端に小さな道具が置いてあった。透明な珠みたいなもの。飾りに見えるけれど、飾りじゃない感じがする。


 父は同席者として少し後ろに立った。近すぎない。けれど見える場所。


 記録係が言う。


「名前を」


「ルミシア・ノクティエルです」


「なぜ学ぶ」


 厳しい顔の人が、短く聞いてくる。


 答えは長くなる。長いと絡まる。短く。


「生きるためです」


 記録係のペンがカリカリと鳴る。その音が落ち着く。書かれると、言葉がちゃんと形になる気がする。


 穏やかな顔の人が続けた。


「困っていることは?」


「囲まれるのが、怖いです」


 厳しい顔の人が言う。


「噂は知っているか。銀の目は占いだと」


 胸がきゅっとなる。噂は、ここまで追いかけてくる。


 でも私は答え方を知っている。短く、事実。


「占いは、できません」


「では、何ができる」


 質問が速い。速いと飲まれそうになる。


 私は聞き返すことを選ぶ。


「“できる”は、何についてですか」


 声が少し震えた。でも言えた。


 穏やかな顔の人が頷く。


「学びについて。努力について」


 努力はできる。未来が見えなくてもできる。


「学ぶことは、できます」


 記録係のペンが止まらずに動く。よかった。


 厳しい顔の人が、机の端の透明な珠を指で軽く叩いた。


「入室の条件を確認する。目元の布を外せ」


 来た。


 胸の奥が熱くなる。怖い。なのに、今日は逃げたくない。


 父は動かない。前に出ない。これは私の場面だと分かっている。


 私は結び目に指を置いた。


 合図は私が出す。


 ゆっくり息を整える。宿のお湯の湯気を思い出すみたいに。


「外します」


 言ってから外す。奪われないために、言う。


 布がするりと落ちる。視界が明るくなる。空気が冷たい。頬に風が当たる感じがした。


 三人の視線が、まっすぐに私の瞳に向かう。


 部屋が静かになる。


 心臓の音が聞こえそうだった。


 厳しい顔の人が、小さく言った。


「……なるほど」


 その言い方が嫌だった。物みたいに言われた気がしたから。


 私は短く言う。


「私は私です」


 自分で言って、自分で守る。


 穏やかな顔の人が言った。


「ありがとう。戻してもいいよ」


 私は布を戻そうとして、指が止まった。


 戻すのは逃げじゃない。でも、戻したら負ける気がした。そんな気持ちもある。


 そのとき。


 机の端の透明な珠が、淡く光った。


 小さな光。音はない。けれど、光は目立つ。


 空気が一気に変わる。


 記録係のペンが止まった。


 厳しい顔の人が立ち上がる。


 その瞬間、父の声が落ちた。


「触るな」


 低くて短い。剣はない。でも、声で止まる。


 厳しい顔の人の手が止まる。


 父は続ける。


「窓を開けろ」


 穏やかな顔の人がすぐに窓へ行く。冷たい風が入り、頭の中が少しだけはっきりする。


 私は珠を見る。光は淡い。熱は感じない。音もない。


 私は短く言った。


「光りました」


 当たり前の報告。でも、こういう当たり前が大事。


「音は、ありません」


「熱くないです」


 言葉を増やしすぎない。見たことだけ言う。


 穏やかな顔の人が頷く。


「確認しよう。担当を呼ぶ」


 記録係がベルを鳴らした。


 父が私にだけ聞く。


「怖いか」


「少し」


「見ろ」


 逃げろ、じゃない。見ろ。確かめろ。


 私は頷いた。



 しばらくして担当者が入ってきた。道具を扱う人の手。触る前に手袋をする。準備がある動きは安心する。


 担当者は珠を見て眉を上げた。


「……反応したのか」


 記録係が短く説明する。私が言ったことも伝える。


 担当者は頷き、珠の周りを確認した。


「異常ではありません」


 その一言で、部屋の緊張が一段下がる。


 厳しい顔の人が言う。


「危険ではないと?」


「危険ではない。珍しい反応です。条件が揃うと光る」


 穏やかな顔の人が私を見る。


「驚かせてしまったね。ごめん」


 私は首を振りかけて、止めた。謝られたら「いいです」と言いたくなる。でも、怖かったのは事実だ。


 短く、事実。


「怖かったです」


 声が少し震えた。


 でも続けた。


「でも、止められました」


 父の声が落ちる。


「確認した」


 それだけ。けれど、その二語で今日の出来事の形が決まる。騒ぎじゃない。確認だ。


 記録係のペンがまた動き出した。カリカリという音が戻る。音が戻ると、呼吸も戻る。



 面談の最後に、穏やかな顔の人が紙を一枚出した。短い項目が並ぶ。


「目の布を外すのは、必要な場面のみ」

「担当の先生を決める」

「困ったら、相談の窓口へ」


 言葉が短い。掲示板に貼れるくらい短い。


 厳しい顔の人が言う。


「必要な場面、とは」


 私は聞き返す。今日の型。


「“必要”は、誰が決めますか」


 穏やかな顔の人がすぐに答える。


「基本は本人。加えて、担当の先生が相談する」


 父が一言だけ足す。


「勝手に決めるな」


 厳しい顔の人が眉を動かす。でも言い返さない。


 私は続ける。


「今すぐ決める必要がありますか」


 穏やかな顔の人が小さく笑った。


「いい質問だね。今日は骨組みだけにしよう。細かいところは担当と一緒に」


 私は頷いた。決まりが増えるのは怖い。けれど、決まりがないまま人の気分で動く方がもっと怖い。


 父が私を見る。


「合図は」


「私が出す」


「そうだ」


 短い会話。短いのに心が落ち着く。



 受付棟を出ると、王都の風が冷たかった。人の匂いが混ざっている。馬車の匂い、焼きたてのパンの匂い、石の匂い。


 父は歩調を崩さない。私は半歩うしろを歩く。


 待合で会った子が、遠くから小さく会釈した。私は手を上げる。声は出さない。それで十分。


 宿に戻ると、父はいつものように杯を置いた。お湯。湯気。静かな部屋。


 私は記録帳を開く。今日のことを短く書く。


「面談」

「聞き返した」

「外した」

「光った」

「止めた」

「確認した」


 最後に少しだけ迷って、書き足す。


「外したのは、私」


 書けた。


 父が言う。


「戻せ」


 一瞬、何を戻すのか分からなかった。父は視線を私の手に落とす。私の指には、まだ目の布がかかっていた。


「……あ」


 私は苦笑して布を畳む。


 父の言葉はいつも短い。短いけれど、ちゃんと届く。


 畳み終わると、胸の奥の暗さが少しだけ軽くなっていることに気づいた。


 怖さは消えていない。けれど、守り方が増えた。


 私は杯を両手で包んで、お湯を一口飲んだ。


 温かい。


 湯気がゆっくり上にのぼっていく。


 私はその湯気を見ながら、心の中で言った。


 今日の私は、奪われなかった。選んだ。


 そして、また選べる。


外したのは、私だ。だから、戻れる。

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