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第8話 扉の外の札、台所の内の名

家の音は、だいたい静かだ。


火鉢の炭がぱちりと小さく鳴る音。

湯が温まっていく途中で、鍋の底から泡がはじける音。

布を畳むとき、繊維が空気を抱える音。


そういう音は、胸の奥を落ち着かせる。


けれど――戸口の音だけは別だった。


「とん、とん」


木を叩く音。

外から来る音。

こちらの許可を待たずに生まれる音。


その音は、世界の境目を揺らす。


私は幼く、境目に敏感だった。

境目が揺れると息の形が崩れる。崩れると、怖いものが入り込む気がする。

言葉にできなくても、体は先に知ってしまう。


その朝も、湯気の匂いが部屋に満ち始めた頃だった。


父は鍋を火にかけ、椀を温め、私の髪を後ろで結んでいた。

結び目は不格好で、左右の輪がいつも少し違う。

でもその不格好さが、私には安心だった。父の手が迷いながらも、ここにいる証拠だから。


父は私の額に指を当て、温度を確かめたあと、短く言った。


「……よし」


朝の合図。

その合図があれば、世界はゆっくり動く。


――そのはずだった。


「とん、とん」


戸口が鳴った。


私は反射的に椅子の端を握った。

指先が白くなる。目の前の湯気が、少し遠くなる。


父の動きは止まらなかった。

止まらないのに、空気の密度が変わる。父の背中が、ほんの少しだけ固くなる。


剣士の固さじゃない。

家を守る固さ。


父は鍋の火を弱め、蓋をずらして湯気の逃げ道を作った。

逃げ道を作ってから、私の方へ来る。


父は私の手の上からそっと包むように指を重ねた。

ほどくためじゃない。温度を足すための手。


「……ここにいろ」


短い言葉。

短いから刺さらない。


私は父の外套の端を掴む。

父は頷きだけで答えた。


父は戸口へ向かった。

歩く音は静かで、迷いがない。


「とん、とん」


もう一度。今度は少し強い。


父は扉の前で一呼吸置いた。

扉を開ける前に、いつも一拍置く。

その一拍で、境目は“揺れるもの”じゃなく“守るもの”になる。


父は、扉を少しだけ開けた。


外の冷たい空気が細い線になって部屋へ入る。

私は思わず肩をすくめた。けれど父は、扉を大きく開けない。線を太くしない。


隙間の向こうに、都の役人がいた。

襟元が固く、布が新しい匂いを持っている。

手には封蝋のされた紙。


整いすぎたものは、正しさの匂いがする。

正しさは、肩書きや物語を連れてくる。


役人は父を見て、声を明るくした。


「失礼いたします。こちらが……アレイオス・フェルディア殿の――」


父の目がほんのわずかに細くなる。

否定じゃない。線を引く前の目。


父は低い声で言った。


「……用件を」


役人は言葉を飲み込み、姿勢を正す。


「王都の住居管理と記録の件で。こちらのお屋敷に、正式な表札を掲げるよう王命が――

英雄殿のご邸宅ですから、“勇者邸”として――」


肩書きの音がした。

“勇者邸”。


その音の大きさが、家の入口を覆いそうになる。

私は息が少し浅くなる。部屋が広くなる。夜みたいな広さが、昼に入り込む。


父は扉の内側から動かないまま、言った。


「……いらない」


役人の顔が固まる。


「しかし規定で、邸宅には所有者と用途を――」


父は最後まで聞いた。

聞いて、同じ温度で返す。


「……用途は家だ」


家。

肩書きじゃない言葉。

それ以上でもそれ以下でもない言葉。


役人は封書を握り直し、食い下がる。


「では所有者名だけでも。“勇者アレイオス・フェルディア邸”――」


父の目がもう一段細くなる。

次の言葉が線になる予感。


父は静かに言った。


「……肩書きはいらない」


役人は焦って笑った。


「いえ、称号は国の誇りで――」


父は遮らない。

遮らない代わりに、扉の隙間を少しだけ狭めた。外の空気が細くなる。距離がほんの少し増える。


それだけで場の空気が変わる。


父は低い声で言った。


「……誇りは、掲げるものじゃない」


役人の喉が動く。言い返す言葉を探す動き。

けれど役人は、父の目を見て言葉を引っ込めた。


父の目に脅しはない。

ただ、動かない線がある。


役人は封書を差し出したまま、話題を変えた。


「では……もう一件。最近、お子様がいらっしゃると。記録のため出生登録が必要です」


出生。登録。

硬い言葉は、私の輪郭に触れる前に何かを決めようとする。


役人の声が少し落ちる。


「……噂も聞こえておりまして。“星の――”」


物語が形になりかける。

その形が胸の奥に触れる前に、父の声が落ちた。


「……名を言え」


短い。

でも、刃より鋭く線を引く。


役人は瞬きをし、慌てて言い直す。


「お、お名前を……」


父は扉の内側から一歩も出ないまま、私の方を一瞬だけ振り返った。

確認の視線。私がここにいることを確かめる視線。


そして外へ向けて言う。


「……ルミシア」


名が外の空気に落ちた。


その音は冷たくならなかった。

むしろ湯気の匂いが少し近づくのを感じた。名は、私の中の火鉢みたいだ。


役人は紙に書く。


「ルミシア……姓は?」


父は短い沈黙を置いた。

置き去りにしない沈黙。考える沈黙。


「……ノクティエル」


その音が、私は好きだった。

夜の色の髪に似た音。星よりも静けさの音。


役人はさらに尋ねる。


「父上は?」


父の声が迷いなく落ちた。


「……俺だ」


役人が顔を上げる。


「よろしいのですか。その……養子という形に――」


父は淡々と言った。


「……父だ」


同じ言葉をもう一度。

同じ言葉だから、揺れない。


役人は言葉を飲み込み、封書を抱え直した。


「では表札の件だけでも、せめて“フェルディア邸”――」


父は静かに首を振る。


「……外に札はいらない」


「外に札がないと、訪問者が――」


父の声が少しだけ低くなる。


「……訪問者は、いらない」


その一言が、扉の木に染みるように落ちた。

役人はそれ以上言えなくなる。


役人は形式的に頭を下げる。


「では王命の写しだけ置いて参ります。何かありましたら役所へ――」


父は頷いただけだった。


役人は最後に、扉の奥――私のいる部屋へちらりと視線を向けた。


見られる。

その感覚が喉を固くする。


父は気づいた。

気づいて、扉をさらに狭める。


怒鳴らない。

けれど、視線が入る隙間は消える。


「……帰れ」


役人は慌てて頭を下げた。


「失礼いたしました!」


扉が閉まる。

外の冷たい線が消える。家の匂いが戻る。


湯気。火鉢。布。

戻る匂いで、私はやっと深く息を吸えた。


父は扉の内側でしばらく動かなかった。

足音が遠ざかるのを確かめ、境目がもう揺れないことを確かめる。


静かになると、父は台所へ戻り、鍋を確かめた。

湯気の立ち方を整える。焦げる前に、蓋をずらし直す。


外の出来事を、生活の作業で包み直す。


そして私の前に膝をつく。


父は私の手を包んだ。

指先が白いのを見つけ、温度を足す。


「……大丈夫だ」


私は父の外套の端を掴む。

父は上から軽く手を重ねた。


父が低く呼ぶ。


「ルミシア」


名が落ちる。

名が落ちると、胸の奥の火が少し強くなる。


私は口を動かした。

舌がまだうまく回らない。それでも出したい音がある。


「……る」


かすれた音。音のかけら。


父は動かずに待った。

待つ沈黙。置き去りにしない沈黙。


私はもう一度、息に音を乗せる。


「……み」


父が頷く。

その頷きで、音がつながりそうになる。


「……あ」


完璧じゃない。

でも私の口から出た。私の音が、私の輪郭を外へ押し出した。


父の喉が小さく動いた。

驚きと、喜びと、怖さが混ざった動き。

でも父は大げさに喜ばない。大げさにすると、音が逃げる気がするから。


父は低い声で、正しい形を置く。


「……ルミシア」


否定じゃない。

帰り道を作るための音。


そして短く。


「よし」


その「よし」は、外の正しさより強かった。

肩書きよりも、札よりも、封蝋よりも。



食事のあと、父は木片をひとつ持ってきた。


小さな、薄い板。

削りたての木の匂い。


父はそれを机に置き、木炭を取った。

白い紙じゃない、木。


木は白ほど正しさを押しつけない。

木は生活の匂いがする。


父は木炭で、ゆっくり文字を書いた。

線を引く速度は慎重で、でも迷いが少ない。


剣を握ってきた指が、今は木炭を持っている。

黒い粉が指に付く。父は気にしない。汚れじゃない。輪郭だと知っている。


父の口が、そっと動く。


「ルミシア」


木に、名が置かれる。


父は書き終えると木片を軽く息で払って粉を落とし、紐を通した。

そしてその木片を――家の外じゃなく、台所の内側の壁に掛けた。


扉の外じゃない。

外の視線のためでもない。


中のための札。


父は木片を確かめるように指で触れ、低く言った。


「……ここは、お前の家だ」


私の家。


外に札がないのは隠すためじゃない。

外の物語の圧を、家に入れないためだ。


その代わり、家の中には名の札がある。


名で呼ばれる場所。

名で戻れる場所。


私は椅子の上で、木片を見上げた。

小さい。けれど、その小ささが嬉しかった。


大きいものは肩書きになる。

大きいものは息を浅くする。


父は私を抱き上げ、木片の前へ連れて行った。

近くで見ると木の目が見え、線が生きている。


父はもう一度呼ぶ。


「ルミシア」


私は息を吸って、口を動かした。


「……る」


父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。


「……み」


父が頷く。


「……あ」


つながりそうで、つながらない。

でも父は笑わない。音を拾う。


父は私の音のすぐあとに、正しい形を置いた。


「ルミシア」


そして短く。


「よし」


その二つの音で、私は札を“怖くないもの”として覚えた。


札は外のためにあると怖い。

でも中のためにある札は、帰り道になる。


窓の布が揺れ、湯気が立ち、火鉢の赤が小さく息をする。

その中で、壁に小さな札が揺れている。


名が揺れている。


私はその揺れを見ながら、胸の奥に小さな火を抱えた。


外の正しさは、扉の外に置く。

中の名前は、壁に掛ける。


父の選び方は、いつも静かだ。

静かなのに、私を守るには十分だった。


その夜。台所の壁の札が揺れた――風じゃない揺れ方で。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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