第29話 出立:王都への白い封
朝の机は、いつもより静かだった。
父が置いた杯から、湯気が細くのぼる。白くて、まっすぐで、ゆっくり。見ているだけで、胸の奥のざわつきが少しだけ小さくなる。
私は両手で杯を包んだ。温かいのに、指先の冷たさはまだ残っている。
机の端には、目元を隠すための薄い布が、きれいに畳まれていた。外へ出るときだけ使うものだ。人が多い場所で視線が集まると、息が浅くなる日がある。そんなとき、私は布の力を借りる。
でも教室では外している。先生と約束した。私は私の顔で座る、と。
父は封書を開き、紙を一枚ずつ机に並べた。音が少ない。剣を扱うときみたいに、動きが落ち着いている。
「王都学府」
父が短く言う。
「面談と登録。日時。場所」
紙の上の言葉を、そのまま読んでいるのに、難しくない。父は、難しい言葉でも、分かるように言い直してくれる人だ。
「同席者は一名」
「剣の持ち込みは禁止」
「銀の瞳は、覆いを外すこと」
最後の一文で、喉が乾いた。
「……外す」
声にしただけで、胸がきゅっと縮む。外すのが嫌なんじゃない。外すことを、命令みたいに決められるのが怖い。私の目が、私のものじゃなくなる気がする。
父は私ではなく紙を見たまま言った。
「条件だ」
命令よりは柔らかい言い方。けれど、紙の中身は硬いままだ。
私はお湯を一口飲んだ。熱い。熱いのに、体の中の冷えはすぐには消えない。
「行くの?」
父はすぐに答えなかった。急かさない沈黙。私の言葉が形になるまで待つ沈黙。
それから短く言った。
「嫌なら、嫌だと言っていい」
胸の奥に、小さな灯りが置かれた。行け、じゃない。黙れ、でもない。言っていい、だ。
父は続ける。
「ただ、逃げても終わらない可能性がある」
私は頷いた。逃げたら終わりではなく、別の始まりになるかもしれない。もっと強い条件が、もっと狭い場所で待つかもしれない。
父は紙を重ねながら言う。
「だから、先に決める」
「道。時間。休憩」
「誰に連絡するか」
剣の代わりに、手順を並べている。父の守り方は、戦うことだけじゃない。迷う場面を減らすことも、守りだ。
「……分かった」
杯を机に戻す。湯気がゆらりと揺れた。
⸻
鏡の前で、私は薄い布を手に取った。
これは外へ出るときのもの。人が多い場所だと視線が集まって、息が浅くなるから。けれど教室では外している。先生の前で、読む係の子の前で、私は目を上げられる日が増えた。
布は柔らかい。柔らかいのに、今日は指先がひやっとする。
外す。外さない。
二つの言葉が頭の中でぶつかって、痛い。
私は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。口で数える。
「一、二、三」
布を首元にかけ、結び目を確かめる。外すタイミングは、自分で決める。そう思って、扉のほうを向いた。
背後で父の声。
「行くぞ」
励ましじゃない。押しつけでもない。ただの合図。だから足が出る。
⸻
学び舎の廊下は、朝から少しざわついていた。
教室に入る前から分かる。視線が集まるときの空気の変わり方。小さな声が隣へ移る速さ。
扉の前で、私は指を握り直した。
教室に入った瞬間、静かになった。
優しい静けさじゃない。様子を見る静けさだ。
「王都に行くんだって?」
「登録ってなに?」
「連れていかれるの?」
言葉が積み木みたいに積まれていく。勝手に積まれて、勝手に形になる。
机の周りに人が集まりかけた。半円。囲みの形。
胸がきゅっとなる。
でも、今日は止まった。
読む係の子が手を上げる。声は大きくない。けれど、その手だけで空気が変わる。
「囲まない」
「走らない」
「困ったら先生へ」
落ち着いた声。言葉が守りになることを、もう知っている声。
先生が黒板にチョークを走らせた。
「勝手に言い切らない」
「肩書きで決めない」
先生は私ではなく、みんなを見て言う。
「分からないことは、分からない。確かめる。これが約束です」
私は短く言った。
「分からないことは、分からない」
声が少し震えているのが分かった。恥ずかしい。でも言えた。言えたから守れた。
半円がほどけ、机の周りに隙間が戻る。隙間があるだけで、息が入る。
私は椅子に座った。ちゃんと座れた。
⸻
授業がひと段落したころ、先生が私を廊下の端へ呼んだ。人が少ない場所。声が反響しない場所。
「面談、練習しておく?」
先生は短く言う。押しつけない速さ。
私は頷いた。
先生は紙を一枚出し、項目を書いた。
「名前」
「年齢」
「困っていること」
「できないこと」
「助けてほしいこと」
「答えは短くていい。足りなければ、聞き返していい」
私は思わず聞き返した。
「聞き返して、いい?」
「いいよ。面談は試験じゃない。確認だから」
確認。その言葉で、少しだけ息が戻る。
「名前は?」
「ルミシア・ノクティエル」
「困っていることは?」
迷って、短く言う。
「囲まれるのが、怖い」
「できないことは?」
「占いは、できない」
先生は笑わない。ふざけない。真面目に書く。
「助けてほしいことは?」
私は息を吸って言った。
「勝手に決めないでほしい」
先生がペンを止めた。
「それ、いい答え」
胸の奥の硬いものが少し溶けた。
「聞き返しの言い方も決めよう」
「“それはどういう意味ですか”」
「“今すぐ決める必要がありますか”」
「“別の方法はありますか”」
「全部じゃなくていい。三つでいい」
最初から数を減らしてくれる。優しい。
私は紙を見て頷いた。
「……覚える」
⸻
休み時間。今度は善意が近づいてきた。
「王都ってすごいよね!」
「怖いなら一緒に行くよ!」
「ねえ、私もついていく!」
温かい言葉ほど、形が大きくなる。大きくなるほど、決まりが壊れる。
私は短く言った。
「一人だけ」
みんなが止まる。
キオがすぐに続けた。
「決まりがあるんだって。だから、みんなでできる形にしよう」
先生も頷く。
「渡すのは一つ。言葉は短く」
子どもたちが顔を見合わせた。短い相談が始まる。声が増えすぎない。長引かない。
星形の紙が一枚だけできた。名前はない。短い言葉だけ。
『無事に帰る』
それを持った子が、私にそっと見せた。
「これ、持ってく?」
私は頷く。
「……うん」
受け取るだけで、胸の重さが少し減った。同席できなくても、見送ってくれる形はある。
⸻
昼過ぎ、父は町の窓口へ向かった。私は先生の許可をもらい、少し離れた場所から見守った。
窓口の前で、父は用件を短く伝える。
「王都へ行く」
「通行の確認」
「必要な手続き」
窓口の大人は父を見るなり、声を明るくした。
「勇者様……!」
その呼び方で、周りの顔が上がる。視線が集まる。人が寄ってくる気配。背中がひやっとした。
でも父は顔を変えない。
「名で呼べ」
短い。強い。けれど刺さらない。
窓口の大人は一瞬固まって、すぐに頭を下げた。
「……失礼しました。アレイオス殿」
父は頷くだけで続ける。
「娘も一緒だ」
「騒ぎにしたくない」
「道を空けてくれ」
お願いの形。命令ではない。それでも通る。
周りの人がじわっと引き、道ができた。私は息を吐いた。
父が筆を取り、署名をする。迷いがない。剣を持っていない。でも守りはここにある。
帰り際、誰かが声をかけた。
「勇者様、王都でまた戦うのですか?」
父は振り返らず、足を止めずに答えた。
「戦いに行くんじゃない」
それだけで、質問が止まった。
⸻
夜。家の灯りは小さい。机の上は整っている。
父が杯を置く。湯気が上がって、部屋の角が少しだけ柔らかく見えた。
父が封書をまた開く。私は向かいに座った。
紙を重ね直したとき、内側から小さな紙片が落ちた。封書の本体より薄くて、文字がきつい。
父が読む。
「銀の瞳は、覆いを外した状態で入室」
「同席者は一名。途中交代不可」
「質問に答えられない場合、扱いを見直す」
父の指が紙片の端を強く押さえた。怒っている。でも怒りを外へ出さない。
父は息を吸って、ゆっくり吐いた。声を荒くしないための息。
「……ひどい」
私の声が勝手に出た。
父は私を見た。目が静かで、静かだから怒りが見えた。
「そうだな」
父はそれだけ言って、紙片を机の上に置く。
私は布に触れた。端が指に引っかかる。
「外すのが……怖い」
言った瞬間、泣きそうになる。怖いと言うと、目が熱くなる。声が細くなる。
父は急かさない。待つ。
それから言った。
「怖いと言っていい」
私は頷いた。それが守りだ。
父は手順を並べる。
「道中は人が少ない道を選ぶ」
「休憩する場所を決める」
「入室の前に、俺が先に話す」
「覆いを外すのは、部屋に入る直前」
順番があるだけで、怖さが形になる。形になると、触れられる。
私は息を吸って言った。
「……外すのは」
「私が決めたときにしたい」
父の眉が、ほんの少し動いた。受け取った動き。
「分かった」
父は短く言う。
「お前の合図で動く」
合図。その言葉は、私の手の中に小さな鍵を置いたみたいだった。
私は記録帳を開く。今日のことを書く。短く。
「王都へ行く」
「条件がある」
「怖い」
「でも、決める」
最後に、少しだけ迷って書いた。
「私の目は、私のもの」
書けた。それだけで胸の暗さが少し薄くなった。
⸻
翌朝。学び舎の門の内側。
先生が子どもたちを並ばせていた。大声で送り出したい子もいる。走って近づきたい子もいる。でも先生は短く言う。
「一列」
「距離」
「声は小さく」
読む係の子が、掲示板の言葉を読んだ。
「囲まない」
「走らない」
「困ったら先生へ」
子どもたちが止まる。止まれることが、優しさになる。
キオが私の前に来て、星形の紙をそっと差し出した。
「帰ってきたら、読んで」
私は受け取って頷いた。
「……うん」
先生が私に言う。
「聞き返していい」
「困ったら、困ったと言っていい」
頷く。先生の言葉は、背中に置かれた手みたいに温かい。
門の外で父が待っていた。剣は帯びていない。腰が軽い分、背中が大きく見えた。
私は一度だけ振り返った。一列に並んだ小さな顔。手を振る手。声を増やさないために口を結んでいる子。
私は小さく手を上げた。それで十分だった。
⸻
町の門の前。馬車の前で、父が荷を確認している。袋は小さい。多すぎない。迷いが増えるものは持たない。
「水」
「布」
「紙と筆」
「小さな薬」
父が指で数えていく。
私は門のほうを見た。人の気配がある。視線が集まりそうな場所だ。だから布の結び目を指で確かめた。
でも、外す合図は私が決める。
「行けるか」
父が聞く。
私は息を吸って、吐いた。
「……行ける」
父はそれ以上言わず、馬車の踏み台を押さえてくれた。
踏み台は少し高い。少し怖い。でも、支えがある。
私はもう一度だけ、口で数えた。
「一、二、三」
そして乗った。
馬車が動き出す。門が遠ざかる。学び舎も、町の匂いも少しずつ小さくなる。
でも、私の中に残るものがある。短い約束。止まれる形。先生の紙。父の手順。そして、私の合図。
私は星形の紙を握りしめた。まだ読まない。帰ってきたら読む。
怖いままでも歩ける。そう思って、私は前を向いた。
私の名前を、王都へ持っていく。




