第28話 召喚状:星の家族会議
朝の居場所は、昨日より音が少なかった。
空は明るいのに、地面は冷たい。土の匂いが残っていて、入口の外に立つだけで胸の奥がきゅっと縮む。
はるは器の前にいた。
いる。ちゃんと、いる。
鼻先を寄せて匂いを確かめる。
それから、ゆっくり舌を出して水を舐めた。
ぺろ。
ぺろ。
たったそれだけで、私の中の何かがほどけそうになって、慌てて指を握り直した。嬉しい、と声にしたら、ここに集まる理由を増やしてしまう。今は、減らす日だ。
読む係の子が、注意書きの板の前に立っている。小さな背中。唇だけが動く。
「今日は、静かに見る日」
「触らない」
「困ったら、大人へ」
声は小さい。けれど、ちゃんと届く。子どもたちが止まる。止まれるだけで、守りは増える。
私は入口の外で、短く言った。
「……入口の外」
読む係の子がすぐ頷き、同じ言葉をもう一度読んでくれた。
「入口の外」
それで、みんなが一歩だけ下がった。
その一歩が、今日は宝物だった。
⸻
白い布の袋を肩にかけた専門家の先生が来たのは、その少しあとだ。
先生は入口の手前で止まり、周りを一度見た。目つきは強くないのに、場が静かになる。
「人が多いですね」
当番の大人が苦そうに頷く。
「心配で……すみません」
「距離を取らせてください。犬は音と動きが多いと、落ち着けません」
父が先生の横に立った。いつも通り、余計なことは言わない。
「頼む」
先生が頷き、入口の内側へ入る。補助の大人が一人、続く。父も入る。
私は外。見るだけ。
先生は、はるの目を見る。鼻先を見る。呼吸の速さを見る。体にそっと手を当てる。
はるの耳がぴくりと動いた。体が少しだけこわばる。
でも、逃げない。
父が低い声で短く言った。
「大丈夫。ここだ」
それだけで、はるの目が少しだけ細くなる。完全に安心しているわけじゃない。でも逃げない。父の声は、はるの足元にできる手すりみたいだった。
診察が終わると、先生は入口の外へ出てきた。みんなに届く距離で、落ち着いた声で言う。
「峠は越えました」
当番の大人が息を吸いかけて、すぐ止める。声を大きくしない。
もう、それができる人たちになっている。
「ただし、ここからが大事です。落ち着ける環境が必要です」
私はその言葉で、喜びの形が変わったのを感じた。
回復した。よかった。
でも、その先がある。ここで終わりじゃない。
先生が続ける。
「無理に食べさせない。水は少量ずつ、回数を増やす。冷やさない。触るのは必要なときだけ」
「そして……今夜を越えたら、居場所を決めてあげてください」
父が短く返す。
「分かった」
そのあと、ほんの少し間を置いて、父は言った。
「行き先を決める」
淡々としているほど、決めたのだと分かる。
⸻
学び舎では、嬉しい話ほど膨らみやすい。
教室に入ると、みんなの目が少し明るかった。
「ねえ、はる、元気になったんだって?」
「水飲んだって」
「ならさ、うちで飼ってもいいかも!」
声が重なる。善意は温かい。けれど、温かいほど形を間違えると危ない。
「うちがいい!」
「ぼくんちも!」
「先に言ったの、私だよ!」
言い合いになりかける。私は胸の奥がひやっとした。ここで揉めたら、また“見る”が“囲む”に変わる。
私は短く言う。
「決め方がいる」
先生がすぐ頷き、黒板に紙を貼った。
「飼う人を決める条件を作りましょう」
「家の人の同意」
「犬の寝る場所」
「世話の時間」
「専門家の確認」
先生は言い方が上手だ。誰かを責める声にならないように、最初から形にしてくれる。
「これは“勝ち負け”ではありません。犬のために決めます」
教室の空気が、すとん、と落ち着く。
私はその落ち着きが、少し誇らしかった。
友だちが小声で言う。
「ね、いいね。ちゃんと決めるって」
私はうなずいた。
うなずくだけで、胸の中が少し軽くなる。
⸻
昼休み。先生と当番の大人とキオと専門家の先生が話し合い、条件に合う家が名乗り出た。
家の人が同意していて、落ち着ける場所があり、世話の時間も確保できる。専門家の先生も頷く。
「ここなら大丈夫です」
私はその場で、嬉しい、と思った。
でも同時に、胸の奥が少し痛んだ。
はるが、ここからいなくなる。
“居場所”からいなくなる。私の毎日の目線から、消える。
寂しい、という言葉が喉の手前まで上がってきて、私は飲み込んだ。寂しいのは悪いことじゃない。でも今、その寂しさで場を揺らしたくない。
私は先生に短く聞く。
「……名前の木札も、渡す?」
先生が頷く。
「そうしましょう。あれは“帰る場所の目印”になっているから」
帰る場所。
その言い方に、私は少しだけ救われた。
⸻
夕方。居場所の前。
はるは少しだけ立ち上がって、歩いた。ふらつきはある。でも足が、ちゃんと前に出る。
当番の大人が水の器を静かに替える。読む係の子が板を読む。子どもたちは止まる。
やり方が、もう一つの空気になっていた。
引き取り先の家族が来た。母親と父親と、小さな弟。弟は目をきらきらさせている。けれど勝手に近づかない。母親が手を添えて止めた。
「触るのは、家に着いてからね」
その一言で、私はまた少し救われた。
この人たちは、決まりを守る人だ。
父が前に出て短く言う。
「よろしく頼む」
家族が深く頭を下げた。
「大切にします」
専門家の先生が、落ち着いた声で注意を伝える。
水は少量ずつ。食事は焦らない。夜は冷やさない。落ち着ける場所。
全部、守れる言い方だ。
そして、いよいよ。
私は両手で「名前の木札」を持って、家族の前に立った。
木の板に書かれた“はる”の文字は少しすり減っている。雨の日も読めるように上から薄い板をかぶせた。触れると、木の温度が残っていた。
私は、声を増やさないように短く言う。
「……これ」
「はるの、名前」
母親が両手で受け取った。
「ありがとう。預かります」
預かる。
その言葉が、いいと思った。奪うじゃない。持っていくじゃない。預かる。
帰る場所は変わる。けれど、なくならない。
父親が、はるを抱き上げた。
はるの体が一瞬だけこわばる。耳が立つ。目が、入口のこちらを見た。
私はその目に向かって、短く言う。
「……行って」
はるが小さく鼻を鳴らした。
それから、体の力が少し抜けた。
当番の大人が、ほっとした顔になる。
読む係の子が、小さな声で言った。
「……よかった」
うん、と私は心の中で返事をした。
居場所に残ったのは、当番表と注意書きの板だけだった。
犬はいない。
でも、“守り方”は残った。
⸻
その日の帰り道、学び舎の門の前がざわついた。
馬車が一台止まり、きれいな服の男が降りてくる。胸に紋章。赤い封のついた封書を持っている。見たことのない種類の“きれいさ”だった。
先生が一歩前へ出て、男と話す。
男は周りを見て、少し眉をひそめた。群れが好きじゃない人の顔。
「勇者アレイオス・フェルディア殿は、こちらに?」
その名前が廊下に落ちた瞬間、空気が変わった。
「勇者だ」
「本物?」
「娘もいるんだよね」
子どもたちの声が増える。
大人の視線も増える。
ルミシア。
勇者の娘。
肩書きが走る。
私の足が止まりそうになる。恥ずかしさと怖さが、同じ場所でぶつかる。
父は歩調を変えず、前に出た。
「俺だ」
男は封書を差し出し、形式の言葉を並べた。
「王都学府より。貴殿と、娘ルミシア・ノクティエル殿へ」
王都。
遠いはずの言葉が、急に近くなる。
父が受け取る。指先が、ほんの少しだけ硬い。
でも顔は変えない。
男は続けた。
「内容は、面談と登録の件です。期限があります」
先生が子どもたちを止める。
「距離を取ってください。囲まない」
読む係の子が、いつの間にか板の言葉を口にしていた。
「囲まない」
「困ったら先生へ」
小さな声が、場を止める。
止まれる。今日も止まれた。
父は封書を開いた。
紙の音が、やけに大きく聞こえた。
一拍。
父の目が紙を追う。
父は封書を閉じ、男に短く言った。
「分かった」
男は頭を下げるだけで、すぐ背を向けた。
仕事の人の動きだ。終わったら立ち止まらない。
残るのは、ざわざわだ。
⸻
教室に戻ると、噂が走った。
「王都に連れていかれるんだって」
「銀の目だから、調べられるんだよ」
「占いさせられるんじゃない?」
言葉は速い。勝手に増える。勝手に決まる。
机の周りに人が集まりかけて、半円ができる。囲みの形。
胸がきゅっとなる。
でも、今日は違う。
読む係の子が手を上げて、板の言葉を読む。
「囲まない」
「勝手に触らない」
「困ったら先生へ」
先生が黒板に、新しい言葉を足した。
「勝手に言い切らない」
「肩書きで決めない」
先生は私ではなく、みんなを見る。
「分からないことは、分からない。確かめる。これが約束です」
私は短く言った。
「分からないことは、分からない」
自分の声が少し震えているのが分かった。
でも、言えた。
言えたから、守れた。
半円がほどけて、机の周りに隙間ができた。
私はその隙間に、空気が戻るのを感じた。
⸻
夜。家の灯りは小さくて、いつも通り温かい。
父が机にお湯の杯を置いた。
白い蒸気がふわっと上がる。その白を見て、胸の中のざわざわが少しだけ落ち着いた。
父は短く言う。
「話す」
私は頷く。
父は封書を机に置き、内容をそのまま読んだ。
長い言葉を、難しく言い換えない。父はそういう人だ。
「王都学府で、面談と登録」
「日時と場所」
「同席者は一名」
「剣の持ち込み禁止」
「銀の瞳の者は、覆いを外すこと」
最後の一文で、父の指が紙を少し強く押さえた。
でも、声は乱れない。
私は喉が乾く。
「……覆いを外す」
父が頷く。
「隠すな、という命令だ」
命令。
その言葉が、胸の奥を冷やした。
私の目は、私のものなのに。
私はお湯を一口飲んだ。熱くて、少しだけ落ち着く。
「行く、の?」
父はすぐには答えない。
急がない。私の言葉を待つ。そういう沈黙だ。
それから短く言った。
「嫌なら、嫌だと言っていい」
“行け”じゃない。
“決めろ”でもない。
“言っていい”だった。
父は続ける。
「ただ、逃げても終わらない可能性はある」
「だから、行くなら」
「俺が前に立つ」
前に立つ。
父らしい言い方だ。
剣の持ち込み禁止。
父の強さを、いつもの形で使わせない命令。
私は父の顔を見る。父は静かだ。
でも静かだからこそ分かる。腹の底で、何かが燃えている。
「……私は」
言葉が途切れる。
私は私の名前で立ちたい。
でも王都は肩書きで引っぱる。
そのぶつかり方が怖い。
父が言った。
「お前を“役目”にしない」
その一言が、胸の真ん中に落ちた。
温かい。重い。守るための重さ。
私は小さく頷いて言う。
「……決める」
「どう行くか、考える」
父はそれだけで十分だというように頷いた。
私は記録帳を開く。
犬のこと。別れ。手紙。王都。噂。約束。
筆が止まりそうになる。
でも私は書く。
「別れは終わりじゃない」
「守り方が残った」
「そして、外が来た」
最後に、白い蒸気の消える杯を見て、小さく書き足した。
守り方を覚えた手で、今度は未来を選ぶ。




