第27話 夜番決め:小さな明かり
朝の居場所は、昨日より音が少なかった。
空は明るいのに、地面はまだ冷たい。土の匂いが、雨のあとみたいに残っている。入口の外に立っただけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
はるが、器の前にいる。
いるのに、食べない。
鼻先を近づけて匂いを確かめて、それで首を引く。
水は、少しだけ舐めた。ぺろ、と舌が動いたのが見えた瞬間、私は息を止めそうになって、慌てて戻した。
喜びの声を出したら、何かが崩れそうだったから。
読む係の子が、注意書きの板の前に立っている。小さな背中。唇だけが動く。
「……今日は、静かに見る日」
「……触らない」
「……困ったら大人へ」
いつもの言葉を、今日も読む。
声は小さいのに、不思議と届く。周りの子どもたちが、ちゃんと止まる。止まれるだけで、ここは少し守られている。
でも、不安があると人は集まる。
集まると、声も増える。
「水、飲んだ?」
「食べた?」
「ねえ、大丈夫かな」
私は入口の外で、手を握り直した。
近づきたい。呼びたい。撫でたい。
でも、近づくことは守りじゃない時もある。
だから、短く言う。
「……入口の外」
読む係の子が、すぐ頷いた。
そしてもう一度、板を読む。
「入口の外」
その一言で、みんなが一歩下がる。
外のざわざわが減って、胸の中だけがまだ騒いでいた。
⸻
白い布の袋を肩にかけた専門家の先生が、静かに近づいてきた。
歩き方が落ち着いている人は、それだけで場を落ち着かせる。先生は入口の手前で止まり、周りを一度だけ見た。
「人が多いですね」
当番の大人が、苦そうに笑って頷く。
「不安で……すみません」
「距離を取らせてください。犬は音と動きが多いと、落ち着けません」
父が先生の横に立った。
余計なことを言わない、いつもの父の立ち方。
「頼む」
先生が頷き、入口の内側へ入る。
当番の大人が一人、補助で入る。父も入る。
私は入口の外。見るだけ。
先生は、はるの目を見る。鼻先を見る。呼吸の速さを見る。
それから、体にそっと手を当てた。
はるの耳がぴくりと動く。体が少しだけこわばる。
でも逃げない。逃げないで、目だけがこちらを見た。
胸が痛くなる。
怖いんだ、と分かるから。
父が低い声で短く言った。
「大丈夫。ここだ」
それだけで、はるの目が少しだけ細くなる。
完全に安心はしない。けれど、逃げない。
父の声は、はるにとっての手すりみたいだった。
診察が終わると、先生は入口の外へ出てきた。
みんなに届く距離で言う。
「今の時点で言えることを話します」
声は落ち着いている。
「体力が落ちています。少し脱水の気配があります」
「胃が弱っている可能性もあります」
誰かが言いかける。
「原因は――」
でも先生が先に切った。
「原因を決めつけない」
「今は休ませて、回復を助ける」
責める方向へ流れそうだった空気が、そこで止まる。
「今日は無理に食べさせない」
「水は少量ずつ、回数を増やす」
「冷やさない」
「声と動きを減らす」
「触るのは必要なときだけ」
父が短く返す。
「分かった」
先生が、少しだけ言い方を強くした。
「……今夜が山です」
「夜は冷えます。音も増えやすい」
「変化があったら、すぐ連絡を」
今夜。
その言葉が胸に落ちて、重く残った。
⸻
「夜、誰が見る?」
先生が帰ったあと、すぐその話になった。
当番の大人たちが集まる。キオもいる。学び舎の先生もいる。父もいる。私は少し離れたところで聞いていた。
「夜は仕事がある」
「家族がいる」
「暗いと危ない」
「一人だと不安だ」
全部ほんとうだ。
ほんとうの言葉は、簡単には動かない。
父が口を開く気配がした。
こういうとき父は、背負ってしまう。
「俺が――」
その瞬間、学び舎の先生が先に言った。
「一人にしません」
「続かなくなるから」
父の言葉が止まる。
眉が少しだけ動く。納得しきれてない顔。でも、反論もしない顔。
キオが当番表を抱えたまま言った。
「夜も、分けよう」
「短い時間で交代すれば、誰か一人にならない」
当番の大人が顔を上げる。
「でも、何かあった時……叫んだら人が集まるぞ」
その一言で、空気がまた重くなる。
叫ぶ。集まる。騒ぐ。
それは、いちばん避けたい。
私は口を開きかけて、止めた。
私が出ると、変な期待が混ざる時がある。
だから先生を見る。
先生が頷いた。
「叫ばない連絡の方法を、決めましょう」
道が一本、できた。
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でも、道は勝手に整わない。
学び舎の廊下で子どもたちが話しているのが耳に入った。
「夜、こっそり見に行けばいいじゃん」
「だって心配だし」
「ちょっとだけなら……」
善意の匂いがする。
善意はあたたかい。
でも、形を間違えると危ない。
読む係の子が困った顔で私を見る。
私も困る。止めたい。でも怒りたくない。
私は短く言った。
「夜はだめ」
「でも……心配なんだよ」
その言葉が胸に刺さる。
私も心配だから。
だから、続ける。
「代わりに」
「できること、考える」
読む係の子が小さく頷く。
そこへ先生が来て、子どもたちに言った。
「夜は大人の仕事」
「みんなは昼に参加できる形を増やす」
「心配は悪いことじゃない。形にしよう」
形にする。
その言葉が、私の胸を少しだけ軽くした。
⸻
夕方。日が落ちる前の空は、光が薄い。
居場所の前で、当番の大人が器を交換している。読む係の子が板を読み、子どもたちが止まる。
ここまでは、うまくいっていた。
でも急に、はるが体を丸め直した。
小さく鳴く。鼻を床に押しつけるみたいにして、落ち着かない。
「え、どうしたの」
「大丈夫?」
「見て――」
声が増えそうになる。
当番の大人が反射で叫びかけた。
「おい、誰か――」
その瞬間。
読む係の子が、震える声で板を読んだ。
「……今日は、静かに見る日」
その一言が、場を止めた。
止まれた。
止まれるって、すごい。
私は入口の外で、短く言った。
「……入口の外」
当番の大人がはっとして頷く。
子どもたちも一歩下がる。
声が減る。
そこへ父が来た。
父は走らない。早足でもない。落ち着いた歩き方で入口に立つ。
「集まるな」
それだけで、さらに止まる。
父は当番の大人に聞く。
「変化は」
「鳴きました。落ち着きがなくて」
父は頷き、入口の内側へ入る。補助の大人も入る。私は外。
父ははるの横でしゃがみ、声を落とした。
「水」
当番の大人が器を少しだけ近づける。
父ははるの目を見て、短く言う。
「少しでいい」
はるが舌を動かす。ぺろ。ぺろ。
飲んだ。少しだけ。
当番の大人が息をつきそうになって、すぐ飲み込んだ。
声を増やさない。動きを増やさない。
父が外へ出て、先生とキオに言った。
「今、必要だ」
「連絡の合図を決める」
夜の話が、やっと現実になる。
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キオが当番表を広げて、指で線を引いた。
「夜は三つに分ける」
「前半、後半、明け方」
当番の大人たちが顔を見合わせる。
短く区切るだけで、引き受けやすくなる。
先生が続ける。
「連絡の合図も決めます」
「叫ばない」
「走らない」
「じゃあ、どうやって呼ぶ?」と当番の大人。
キオがすぐ答えた。
「鈴」
「一回だけ鳴らす」
「鳴らすのは当番の人だけ」
父が短く言う。
「いい」
その一言で決まる。
決まると、場が落ち着く。
先生も頷いた。
「鈴は入口の外に掛けましょう」
「鳴ったら連絡役の家へ」
「ノックは二回。短く」
父が言う。
「二回」
必要な言葉だけ。
でも、それで守りが増える。
⸻
私は筆を持った。
注意書きの板に、短い言葉を書く。
長い文章は焦ると読めない。子どもは特に。だから短く。通る言葉だけ。
『夜は当番だけ』
『合図は鈴(1回)』
『走らない』
『困ったら先生へ』
『水は少しずつ』
書き終えると、読む係の子が板の前に立って声に出した。
「……夜は当番だけ」
「……合図は鈴、いっかい」
「……走らない」
「……困ったら先生へ」
「……水は少しずつ」
板の言葉が生きる。
周りが自然に止まる。
胸の奥のざわざわが、少しだけ薄くなる。
私は小さく言った。
「……ありがとう」
読む係の子が照れたみたいに顔をしかめて、でも言った。
「読むよ」
「だって、読むと止まるもん」
止まれるのは弱いからじゃない。
守り方なんだ。
その言葉が、私の中で座った。
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夜。
家の灯りは小さくて温かい。
私は机に向かったけれど、筆先が何度も止まった。
居場所へ行きたい。様子が見たい。
でも行かない。夜は当番だけ。自分で書いた言葉だ。
だから、別の“できること”をする。
父が戻ったときにすぐ渡せるように布を畳む。
連絡が来たら起きられるように靴をそろえる。
お湯を小さな杯に用意して、冷めにくい場所へ置く。
こういうことは目立たない。
でも、目立たないことが今日の守りだ。
窓の外は暗い。
遠くで犬が一度だけ鳴いた気がして、胸が跳ねた。
でもすぐ静かになる。
鈴の音は聞こえない。
聞こえないことは、良いことだ。
私は指先を握って、ほどいて、また握って。
やっと紙に一行書いた。
「行けない夜は、待つのが役目になる」
書きながら、少しだけ笑いそうになった。
“役目”は、押しつけられると重い。
でも今日は、違う。自分で選んだ形だから。
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戸が開く音がした。
父が帰ってきた。
外の冷たい空気を少しだけ連れてきて、靴をそろえ、声を落として言う。
「起きてたか」
「うん」
父は机の上のお湯を見て、ほんの少しだけ目を細くした。
何も言わない。けれど、それで伝わる。
父は短く報告した。
「水を飲んだ」
「落ち着いた」
「合図は要らなかった」
胸の奥がほどける。
大きく息をしたくなって、でも静かに息をした。
「……よかった」
父が頷き、最後に一言だけ言った。
「助かった」
私は居場所に行っていない。触ってもいない。
何もしていないように見える。
でも父は「助かった」と言った。
それだけで、今日の私の“できること”が、ちゃんと形になった気がした。
私は記録帳を開いて、最後に書く。
守る夜は、静かな人が増える夜だった。




