第26話 診察:専門家の手
朝の居場所は、いつもより音が少なかった。
雨は止んだのに、地面はまだ冷たい。草と土の湿った匂いが、鼻の奥に残る。
入口が見えた瞬間、私は足を止めた。
はるが、器の前にいる。
いるのに、食べない。
鼻先を近づけて匂いを確かめる。
それだけで、首を引く。
水も、ちょっと舐めただけでやめてしまう。
伏せた体は丸く、小さく見えた。
私は入口の外で、手を握り直した。
近づきたい。呼びたい。撫でたい。
でも、動いたら場がざわつく気がする。
入口の横に立つ読む係の子が、注意書きの板を見つめていた。唇だけが動く。声が出ないみたいに。
「……今日は、静かに見る日」
小さく言って、また板を見る。
その声が震えるだけで、胸が苦しくなる。
周りの子どもたちが、そわそわし始めた。
視線がはるに集まる。
「大丈夫かな」
「ねえ、どうしたの」
「昨日のせい?」
声が増えかける。
不安は速い。
速いものは、すぐ形を変える。
「誰か、近づいたの?」
「触ったんじゃない?」
言葉が尖る。尖った言葉は、誰かを探す。
私は一歩だけ前に出て、短く言った。
「……近づかないで」
読む係の子が私を見て、うなずいた。
けれど、不安は止まりきらない。
そのとき、石を踏む足音がした。
迷いのない歩き方。
父だ。
父は入口の前で止まって、周りを一度だけ見た。
そして低い声で言う。
「集まるな」
怒鳴っていない。
でも、その一言で足が止まる。
子どもたちも大人も、自然に一歩下がった。
声が減る。動きが減る。
父は当番の大人を見た。
「記録は」
「朝から餌に近づきません。水も少しだけ。動きが少ないです」
父はうなずく。
「触れてないな」
「はい。距離は守っています。誰も触れていません」
父はもう一度、周りへ言った。
「近づくな」
同じ言葉を、同じ調子で。
それが今は一番強い。
その横で、キオが当番表を抱えて走ってきた。顔はこわばっているのに、声だけ明るくする。
「役割わける! 今から!」
キオは当番表を指でなぞりながら言った。
「見守りは二人! 入口の外からだけ!」
「水の交換は一人! ゆっくり!」
「記録は続ける!」
「先生への連絡、私が行く!」
決まると、人は動ける。
不安が、作業に変わる。
私は入口で止まったまま、はるを見る。
はるの耳がぴくりと動いた。
でも起き上がらない。
胸が重いまま、時間だけが進む。
⸻
少しして、先生が来た。息が少し上がっている。でも声は落ち着いていた。
「聞きました。今日は様子を見る日です」
先生は短く、はっきり言った。
「元気づけようとして近づかない」
「勝手に触らない」
「不安なことは当番の人か、私へ」
その言葉で、場が静かになる。
先生は父にも頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
父は短く返した。
「必要なことだ」
先生はうなずき、キオに目配せした。
キオが小さく親指を立てる。
――専門家は、もう呼んだ。来る。
そう聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が入った。
大きくはない。
でも、やることが決まるだけで、人は少し落ち着ける。
⸻
町の道のほうが、ざわっとする。
「来た」
「獣医の先生だ」
人が寄りかける。
私は背すじを伸ばして、道の先を見る。
白い布の袋を肩にかけた人が歩いてくる。背は高くない。動きが速すぎない。
獣医の先生は、近づく前に周りを見て足を止めた。
「……人が多いですね」
穏やかな声。けれど言い方ははっきりしている。
先生が前に出た。
「すみません。子どもが不安で……」
獣医の先生はうなずいて、父を見る。
「こちらの判断で距離を取らせてください。犬は、騒がしいと落ち着けません」
父は一言だけ返した。
「頼む」
その瞬間、後ろから大人の声が飛んだ。
「原因は何だ?」
「見せてくれ、ちょっとだけでも」
「誰がやったんだ」
言葉がまた尖りそうになる。
父は振り向かず、声だけ落とした。
「下がれ」
それだけで、足音が止まった。
獣医の先生が淡々と言う。
「見物が増えると、犬の心は落ち着きません。今日は診る日です。騒ぐ日ではありません」
冷たいわけじゃない。
必要なことだけ、まっすぐ言っている。
先生も続ける。
「皆さん、距離をお願いします」
キオが当番表を掲げた。
「入口の外! 決まりどおり!」
決まりがあると、人は止まりやすい。
不安なときほど。
⸻
獣医の先生は、はるに触る前に周りを見た。
「まず、音を減らしましょう」
「動きをゆっくり。声は小さく。近づくのは二人まで」
当番の大人がうなずく。
父も短くうなずく。
私は、一歩踏み出しそうになった足を止めた。
近づきたい。
でも、二人まで。
父がこちらを見ないまま、短く言った。
「止まれ」
「……うん」
止まる。
それが今日の私にできる守り方だ。
獣医の先生は入口の内側へ入った。
当番の大人が一人、補助で入る。
父も入る。
私は入口の外。
見るだけ。
獣医の先生は、まずはるの目を見る。鼻先を見る。呼吸の速さを見る。
それから、手をゆっくり近づけた。
はるの体が、一瞬ぴくっと動いた。
耳が立つ。目が少し開く。
怖い。
そう言っているように見えた。
父は押さえつけない。
ただ、低い声で短く言う。
「大丈夫。ここだ」
それだけで、はるの目が少しだけ細くなる。
完全に安心はしない。
でも、逃げない。
獣医の先生は首のあたりに触れ、背中に触れ、腹にそっと手を当てた。
手の動きが静かだ。急がない。
「体温は、少し低め」
「口が乾いていますね」
声に出すのは必要なことだけ。
当番の大人が頷き、記録係へ合図を送る。
獣医の先生は器を見る。餌の匂いを見る。水の器を見る。
そして周りの匂いも確かめるように、ゆっくり顔を上げた。
「においが強いものはありませんか」
「薬の匂いとか、香りの強いもの」
当番の大人が首を振る。
「ありません。決まりどおりです」
父も短く言う。
「勝手なことはしてない」
獣医の先生はうなずき、はるの体をもう一度見た。
目の動き。耳の動き。息の深さ。
「怖がっているのもあります」
「体力が落ちていると、周りの音もつらい」
その言葉が胸に刺さる。
つらい。はるは、つらい。
私は入口で手を握りしめた。
泣きそうになる。
でも泣いたら声が出る。声が出たら場が揺れる。
私は、板の言葉を心の中で読む。
今日は静かに見る日。
⸻
入口の外では、別の揺れが起きていた。
「誰かが余計な餌を足したんじゃないのか」
「子どもが触ったのかもしれない」
「だからこうなるんだ」
不安が、責める形になる。
誰かを決めつける形になる。
先生が、はっきり止めた。
「今は責める話をしません」
「事実が分からないのに、誰かを決めつけない」
大人が「でも」と言いかける。
キオが当番表を指さした。
「記録を見れば分かる!」
「見たことだけ言う。聞いた話は増やさない!」
その言い方に、子どもたちが頷く。
大人も言葉を飲み込んだ。
私も、小さく言った。
「……確かめる」
先生が私を見て、うなずいた。
私が前に出るより、先生に任せたほうが安全だと分かる。
⸻
しばらくして、獣医の先生が入口の外へ出た。
父も出る。当番の大人も出る。
獣医の先生は、皆に届く距離で言った。
「今の時点で言えることを話します」
言い方は落ち着いている。
「体力が落ちています」
「少し脱水の気配があります」
「胃が弱っている可能性もあります」
誰かが「原因は?」と聞きそうになる。
でも獣医の先生が先に言った。
「原因を決めつけない」
「今は、休ませて回復を助ける」
獣医の先生は続けた。
「今日は無理に食べさせない」
「水は少量ずつ、回数を増やす」
「冷えないように、体を温かくする」
「声と動きを減らす」
「触るのは必要なときだけ」
父が短く返した。
「分かった」
その一言で、場の不安が少し下がった。
やることが決まると、人は立てる。
獣医の先生が当番の大人に言う。
「記録を増やしましょう」
「水を飲んだ量、歩いた回数、呼吸の様子」
「できれば、便の有無も」
当番の大人が頷く。
「はい。書きます」
キオが当番表を見て、言った。
「体調が悪い日の役割も、追加する!」
「見守り、交換、連絡、記録!」
「子どもは読む係で参加!」
読む係の子が、少しだけ胸を張った。
震えが、ほんの少し減っている。
⸻
先生が板を指さして言った。
「今日の言葉も追加しましょう」
「短くて、守れる言葉」
私は筆を受け取った。
木の板の表面に、ゆっくり書く。
短い言葉だけにする。
『今日は静かに見る日』
『触らない』
『困ったら大人へ』
『水は少しずつ』
書き終えると、読む係の子が声に出した。
「……今日は静かに見る日」
「……触らない」
「……困ったら大人へ」
「……水は少しずつ」
その声は小さい。
でも、ちゃんと届く。
子どもたちが自然に止まる。
大人も自然に一歩引く。
守り方が、形になる。
私は筆を置いて、胸の奥が少し楽になるのを感じた。
言葉は刺すだけじゃない。守る場所にもなる。
⸻
昼前、少しだけ人のいない道端へ移動した。
ここなら、声が届きにくい。心の中がうるさくなっても、外に漏れにくい。
私は空を見上げた。
雲は薄い。光は弱い。でも、ある。
何もできない気がする。
守りたいのに、触れない。
近づきたいのに、止まる。
足元の小石を蹴りそうになって、やめた。
音が出るから。
後ろから足音がした。父だ。
父は横に立って、私の顔を見ずに言った。
「どうする」
短い問い。
でも、逃げ道のある問い。
私は小さく答えた。
「……止まる」
「……守る」
父は一度だけうなずいた。
「それでいい」
それだけ。
英雄の話をしない。
今の私の話だけを、受け止める。
私は少しだけ息を吐いた。
喉の奥の固さが、ほんの少しほどける。
⸻
夕方。
居場所は、朝より静かだった。
人の数が減った。読む係の子が板を読み、みんなが止まれるようになった。
はるは伏せたままだった。
でも、首を上げる回数が増えた。
水の器に顔を寄せて、舐める。
ぺろ。
ぺろ。
少しだけ。
でも、飲む。
当番の大人が言う。
「水、少量。変化あり」
記録係が書く。
「夕方、水、少量。呼吸、落ち着き」
獣医の先生が頷いた。
「良いです」
「焦らないで、この調子」
誰かが「よかった」と言いそうになって、止まった。
読む係の子が板を読む。
「……今日は静かに見る日」
その一言が、みんなの動きを止める。
喜びまで、静かにできる。
私は入口の外で、胸の中だけで言った。
よかった。
声にしなくても、胸の中なら増えない。
胸の中の言葉なら、はるを驚かせない。
⸻
獣医の先生は帰り支度をしながら、父に言った。
「夜に急に悪くなることもあります」
「もし立てない、水も飲まない、呼吸が荒い。そういう時はすぐ呼んでください」
父は短く返した。
「分かった」
獣医の先生は続ける。
「明日も来ます」
「今日は休ませるのが一番の薬です」
父が一言だけ言った。
「明日も頼む」
獣医の先生はうなずいた。
「はい」
余計な言葉がない。
でも、安心が残る。
⸻
夜。家の灯りは小さく、温かい。
父が机に紙を置いた。
それから杯を置く。お湯から上がる白い蒸気が、ふわっと揺れた。
「書くか」
父はそう言って、急かさず座った。
私は筆を持った。今日の記録を書く。
怖かった。
人が集まりかけた。
責める言葉が出かけた。
でも――。
止められた。
決まりに戻せた。
板に言葉を増やせた。
水を、少し飲んだ。
私は最後の一行を、ゆっくり書いた。
守り方が増えると、やさしさも増える。
書き終えると、胸の暗さが少しだけ薄くなった。
父は何も言わない。
でも、そこにいる。
それだけで、私はまた明日も止まれる気がした。




