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第25話 体調異変:食べない朝

 朝の居場所は、音が少なかった。


 雨は止んだのに、地面はまだ濡れている。

 泥の匂いと、濡れた草の匂いが混ざって、鼻の奥にひんやり残った。


 入口が見えた瞬間、私は足を止めた。


 ……違う。


 それは、見た目の違いじゃない。

 空気の違いだった。


 いつもなら、はるは器の近くで起きている。

 起きていなくても、鼻先が動いている。匂いを確かめる、あの小さな仕草がある。


 でも今日は――その“いつも”がない。


 私は入口の外で立ったまま、視線だけを向けた。


 はるは器の前にいた。

 だけど、餌に近づかない。


 匂いを嗅ぐだけ。

 嗅いで、首を少し引く。


 水の器にも顔を寄せる。

 舐める。

 ほんの少し。


 それで、やめてしまう。


 伏せる。

 耳が下がる。

 目が細くなる。


 眠いのではない。

 力がない。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 ――怖い。


 そう言いたくなる。

 でも、口にすると、周りの不安を大きくする気がした。


 私は息を飲んで、手を握り直した。


 入口の横に、読む係の子がいた。

 板を見つめている。

 いつもなら、落ち着いた声で短く読める子だ。


 今日は、その声が揺れていた。


「……近づかない」

「……囲まない」


 声が震える。


 それを聞いた周りの子どもたちが、ざわっと動いた。

 視線がはるに集まる。


「食べないの?」

「どうしたの?」


 声が増えかける。


 不安は、速い。

 誰かが言葉にすると、次の人がその言葉を拾う。

 拾った言葉は、すぐ別の形になる。


「昨日の餌のせい?」

「誰か触ったのかな」

「病気?」


 言葉が小さく尖っていく。

 誰も悪く言いたいわけじゃない。

 ただ、怖いだけだ。


 怖いと、人は“理由”を探す。

 理由を探すと、“誰か”が必要になる。


 誰かを作ってしまう空気が、戻りそうだった。


 私は一歩だけ前に出て、短く言った。


「……近づかないで」


 読む係の子が私を見た。

 小さくうなずいて、もう一度板を読もうとする。

 でも、声がうまく出ない。


 そのとき、足音がした。


 石を踏む音。

 迷いのない、まっすぐな歩き方。


 父だ。


 父は入口の前で止まった。

 周りを一度だけ見て、低い声で言う。


「集まるな」


 怒鳴っていない。

 言葉は短い。


 それなのに、その一言で人の足が止まった。

 子どもたちも、大人も、自然に一歩下がる。


 空気が落ち着く。


 父は私を見た。

 目が合う。


 父の目は、安心でも希望でもない。

 “今やるべきこと”だけがある目だ。


 父は当番の大人に向けて言った。


「記録は」


 当番の大人がすぐに答えた。


「今朝、餌に近づきません。水も少しだけです。動きが少ない」


 父はうなずく。


「触れてないな」


「はい。距離は守っています。誰も触れていません」


 父はもう一度だけ、周りへ向けて言った。


「近づくな」


 同じ言葉。

 繰り返すだけ。


 でも、こういう時は、それが一番強い。


 “特別な言葉”じゃないから、誰でも守れる。


 その横で、キオが当番板を抱えて出てきた。

 顔が引きつっている。

 でも、声はちゃんと明るくする。


「役割わける! 今から!」


 キオは板を掲げて言った。


「見守りは二人! 入口の外からだけ!」

「水の交換は一人! ゆっくりね!」

「先生への連絡、私が行く!」


 言い終えるとすぐ、自分で走り出しそうになる。

 でも一瞬だけ父の顔を見る。

 父が小さくうなずいた。


 それでキオは走った。


 当番の大人が周りを見て言う。


「見守り、私と……」


 背の高い子が手を上げた。


「ぼくも!」


 その瞬間、キオが戻ってきたみたいに、読む係の子が板を指さした。


「……子どもは入口まで」


 震えはまだある。

 でも、言えた。


 大人がうなずく。


「そうだな。入口まででいい。ありがとう」


 拒まれた子は少し口を尖らせたが、板を見て黙った。

 決まりがあると、怒らなくても止まれる。


 私は入口のところで、足を止めたまま動かなかった。


 中が見たい。

 近づいて、名前を呼びたい。

 撫でたい。温かい布をかけたい。


 でも、それは私の“したい”だ。

 はるのための動きかどうかは、分からない。


 私は両手をぎゅっと握る。

 爪が指に食い込んで、少し痛い。


 痛いと、現実になる。

 現実になると、余計な想像が減る。


 父が、私の隣に立った。


「見るなとは言わない」


 父は小さく言った。


「止まれ」


「……うん」


 短い返事しか出せなかった。

 でも、止まる。

 それが、今日の私にできる守り方だった。



 しばらくして、先生が来た。


 息を少し上げている。

 でも顔は落ち着いていて、声も大きくない。


「聞きました。今日は――様子を見る日です」


 先生はそう宣言した。


「元気づけようとして近づかない」

「勝手に触らない」

「不安なことは、当番の人か私へ」


 短い言葉で、はっきり。


 周囲がうなずく。

 ざわめきが止まる。


 先生は父にも頭を下げた。


「ありがとうございます。落ち着いています」


 父は短く返した。


「必要なことだ」


 それだけで、先生も安心した顔になる。


 先生は板を見て、私へ向けて言った。


「ルミシア、ひとつ言葉を増やせる?」


 私は筆を受け取った。


 板は乾いている。

 にじまない。

 書く場所が、ちゃんとある。


 私は短く書いた。


『今日は静かに見る日』


 余計な言葉は足さない。

 これだけで、やることが分かる。


 読む係の子が声に出す。


「……今日は静かに見る日」


 今度は、震えが少なかった。


 みんながその言葉を聞いて、自然に一歩下がる。

 距離が守られる。

 声が減る。


 空気が戻っていく。



 時間が、ゆっくり流れた。


 見守りの大人が、入口の外から静かに様子を見る。

 水の器だけ、ゆっくり交換する。

 器が置かれる音すら、小さくなるように。


 はるは伏せたままだった。


 餌は食べない。

 水も、ほとんど飲まない。


 心が落ちていく。


 その落ち方が、怖かった。


 ――もし、このまま。


 考えそうになるたび、私は板を見る。

 そこにある言葉を目で読む。


 今日は静かに見る日。


 静かに。

 見る。


 それだけをやる。


 そのとき、はるが首を少しだけ上げた。


 水の器へ、顔を向ける。

 鼻先で水面を触って、舐めた。


 ぺろ。

 ぺろ。


 ほんの少し。


 でも、飲んだ。


 当番の大人がすぐに言った。


「水、飲んだ。変化あり」


 記録係が頷いて、紙に書く。


「水、少量。昼前」


 騒がない。

 でも、希望は拾う。


 私は胸の奥で、少しだけ息を吐いた。


 ……よかった。


 たったそれだけで、世界が少し軽くなる。


 読む係の子が、板をもう一度読んだ。


「……今日は静かに見る日」


 自分に言い聞かせるみたいに。

 それがまた、周りの子どもたちを落ち着かせた。


 誰も近づかない。

 誰も騒がない。


 静かに守る。


 その時間が、ちゃんと続いた。



 夕方。

 空が少し赤くなって、雨上がりの道が光った。


 はるは餌を食べなかった。

 でも、水は昼より少し多く飲んだ。


 歩く回数も少しだけ増えた。

 入口側へ移動して、伏せ直す。


 当番の大人が記録を読み上げる。


「水、少量から増加。移動、少しあり。餌はなし」


 父はそれを聞いて、短く言った。


「明日、専門家を呼ぶ」


 その一言で、周りの肩が少し下がった。

 “やること”が決まると、人は落ち着ける。


 先生も頷く。


「ええ。早いほうがいいです」


 キオが、私の袖を軽く引いた。


「ルミシア、大丈夫?」


 私は少し考えてから、短く答えた。


「……怖い」


 キオはうなずいた。


「うん。でも、今日は守れたよ」

「騒がずに、ちゃんと」


 守れた。


 その言葉が、胸の奥に残る。


 私は父の背中を見た。

 父はまだ、はるを見ている。


 大きな背中は動かない。

 でも、そこにいるだけで守りになる。


 私も、少しだけ背すじを伸ばした。


 記録の紙に、書く言葉を決めた。


 怖かった。

 でも、止まれた。

 静かに守れた。


 それが今日の私の全部だ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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