第24話 善意暴走:優しさの勘違い
朝の居場所は、雨上がりの匂いがした。
土が湿っていて、草が少しだけ甘い。
空気は冷たいのに、どこかやわらかい。
入口が見えた瞬間、私は足を止めた。
……いつもと違う。
先に分かったのは匂いだった。
餌の匂いが強い。
器の前に近づくと、目でもすぐに分かった。
餌が多い。いつもより明らかに多い。
誰かが勝手に足したらしい。
良かれと思って。
たぶん、善意で。
でも、善意はときどき危ない。
守るつもりで、壊してしまうことがある。
当番の大人が器を見て、眉をひそめた。
「……多いな」
声が低くなる。
その声だけで、周りの空気が少し硬くなる。
大人は周囲を見回した。
「誰がやった?」
言い方はまだ強くない。
でも、次の一言が“詰める声”になりそうだった。
その瞬間、はるが動いた。
入口の内側で丸くなっていたはずなのに、体を起こしている。
耳がぴん、と立って、鼻先が小さく震えていた。
匂いに反応している。
はるは敏感だ。
匂いが強いと落ち着かなくなる。
落ち着かないと動きが急になる。
急な動きは、人の声を増やす。
声が増えると、はるはもっと怖がる。
悪い流れが見えた。
私は傘を閉じて、一歩前に出た。
「……止めよう」
当番の大人が私を見る。
「ルミシア、これ……」
私は器を指して、短く言った。
「決めた量じゃない」
そして当番板を指さした。
板には、いつもの量と回数が書いてある。短く、分かりやすく。
当番の大人は板を見て、唇を結んだ。
「……そうだな」
でも、周りの子どもたちは落ち着かなかった。
ひとりの子が前に出る。
「だって、かわいそうじゃん!」
声が少し大きい。
正しさの声だ。
「お腹すいてたらどうするの?」
「多いほうがいいじゃん!」
その子の顔は真剣だった。
ふざけている顔じゃない。悪いことをした顔でもない。
優しさだ。
でも、その優しさが“押し切る力”になると危ない。
当番の大人の眉がさらに寄った。
「……だから勝手に――」
言い返しそうになった瞬間、横からキオが入った。
「ちょっと待って!」
キオの声は明るい。
でも、ちゃんと止める声だった。
「多すぎるとね、余るでしょ?」
「余ったら虫が来るんだよ」
「虫が来ると、病気になることもある」
「それに、急に量が増えると、お腹こわす」
言い方が分かりやすい。
難しい言葉が一つもない。
子どもたちの目が揺れる。
「……病気?」
「虫……?」
正しさの声が、少しだけ小さくなった。
私はその隙に、もう一言だけ足した。
「決まりは、守るため」
正しさと決まりがぶつかっている。
でも、どちらも“守りたい”からだ。
形が違うだけ。
当番の大人が深く息を吐いた。
「……責めたいわけじゃない」
その言葉で、空気が少し戻った。
はるはまだ耳を立てている。
でも吠えてはいない。
私は器の前にしゃがんで、餌を見た。
匂いが強すぎる。
はるが落ち着かないのは、たぶんそれもある。
当番の大人が言った。
「足した子、名乗ってくれ。怒らないから」
怒らないから。
その言葉は優しい。
でも、名乗るのは怖い。
怖いと、人は黙る。
沈黙が落ちた。
誰も動かない。目も合わせない。
空気がまた硬くなりかける。
私は立ち上がり、短く言った。
「……責めない」
当番の大人がこちらを見る。
子どもたちも見る。
私は続けた。
「直す」
責めるより先に、直す。
それを置くと、名乗る道ができる。
少しして、ひとりの子がゆっくり手を上げた。
小さな子。
目が潤んでいる。
「……わたし……」
声が震えていた。
「昨日……少し……足した……」
「はる、寒そうで……お腹すいてると思って……」
言葉が途中で詰まる。
泣きそうだ。
その子は小さく、最後に言った。
「……ごめんなさい……」
“ごめん”が出た。
それだけで、十分だった。
当番の大人はしゃがみ込んで、その子と同じ目線になった。
「言ってくれてありがとう」
その一言で、胸の奥が少しほどけた。
善意は悪じゃない。
ただ、やり方が必要なだけだ。
キオが手を叩く。
「じゃあ、みんなで片づけよう!」
「片づけるの?」と誰かが聞く。
「うん! 余ったら虫が来るもん!」
キオの軽さは、動きやすさになる。
重い空気を、持ち上げてくれる。
子どもたちが動き出した。
当番の大人が餌を少し取り分け、別の入れ物に移す。
捨てない。無駄にしない。
できるだけ静かに、きれいに。
行動が始まると、空気が変わる。
誰かを責めるためじゃない。
問題を直すための動きだから。
匂いが少し薄くなったのか、はるの耳が少し下がった。
体の力も抜ける。
落ち着いてきた。
⸻
片づけが終わったころ、先生が来た。
先生は状況を見て、当番板の前に立った。
「今日のことで、言葉を一つ増やそう」
そう言って、新しい板を出す。
雨でにじまないように、薄く油が塗ってある。
私に筆が渡された。
私は短く書いた。
『勝手に足さない』
『当番に言う』
簡単な字。
短い言葉。
誰でも読める。
読む係の子が、声に出した。
「……勝手に足さない」
「……当番に言う」
子どもたちが、うなずく。
足した子はまだ少し涙目だった。
でも、目は逃げていない。
当番の大人がその子に言った。
「かわいそうだと思ったんだろう。分かる」
「でも、やり方がある」
「次は、言ってくれ」
その子が小さく頷いた。
「……うん……」
はるは器の前で座り直し、静かに匂いを嗅いだ。
それから、ゆっくり伏せる。
耳が下がって、目が半分閉じる。
落ち着いた。
当番の大人が、最後にもう一度だけ言った。
「言ってくれてよかった」
その言葉は、優しさだった。
でも今度の優しさは、決まりと一緒にある優しさだった。
私は記録の紙を思い浮かべて、心の中に短い言葉を置いた。
やさしさは、決まりと一緒に育つ。
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