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第23話 雨対策:濡れた木札

 朝の空は低かった。


 雨は大きく降っていない。小雨。

 でも、小雨は静かに濡らす。気づかないうちに、じわじわと。


 傘の先から落ちる水が、石畳を小さく叩く。

 その音が、いつもより近く聞こえた。


 私は傘を少しだけ傾けて、居場所へ向かった。


 入口が見えた瞬間、胸が小さくざわつく。


 言葉の板が、濡れている。


 立ててある木の板。

 みんなが守り方を確認するための板。


 その字が、にじんでいた。


 黒い文字がぼやけて、輪郭が溶けている。

 読もうとすると、目が迷う。


 私は足を止めた。


 読めない。


 読めないと、守れない。


 入口のそばで、読む係の子が板をじっと見つめていた。

 困った顔のまま、声が出ない。


「……これ、なんて書いてあるの……?」


 ようやく出た声は小さい。

 でも焦りが混ざっている。


 その声につられて、子どもが二、三人、板へ近づきかけた。

 覗き込みたくなる。

 分からないと、近寄りたくなる。


 それは自然な動きだ。

 でも今は危ない。


 近づくと距離が崩れる。

 距離が崩れると輪になる。


 輪の向こうに、はるがいる。


 はるは雨が苦手だ。

 濡れるのも苦手。

 そして、人が集まるのも苦手。


 入口の内側で、はるは体を小さくしていた。

 耳が後ろに倒れて、目だけがこちらを見ている。


 当番の大人がその様子に気づいた。


「こら、近づくな……!」


 声が出かかった。

 強い声は止める力がある。


 でも、強い声は空気を固くする。

 固くなると動きがぎこちなくなる。

 ぎこちない動きは、余計に怖い。


 崩れる直前の感じがした。

 雨より冷たいものが入口に集まりそうだった。


 私は傘を閉じて、一歩前に出た。


 そして短く言った。


「……作り直す」


 読む係の子が私を見た。

 当番の大人も私を見た。

 子どもたちの足が止まる。


 私は板の下を持って、そっと持ち上げる。

 木が雨を吸っていて、少し重い。


 でも運べる。


 私は屋根の下を指さした。


「屋根の下で書く」


 当番の大人が息を吐いた。


「……助かる。頼む」


 読む係の子が小さくうなずいた。


「うん……」


 子どもたちはじっと見ている。

 でも、近づかない。

 止まれている。


 私は板を屋根の下へ運んだ。

 乾いた場所に置くと、少しだけ安心した。



 そのとき、キオがやってきた。


 雨で濡れた髪が額に張りついている。


「聞いた! 字が読めなくなったって!」


 キオは板を見て、すぐに眉を上げた。


「うわ、にじんでる。これじゃ読めないよね」


 私はうなずいた。


「読めないと危ない」


 キオは腕を組んで、少し考える。


「じゃあ、対策しよう。簡単なのあるよ」


「なに?」


「油を薄く塗る。水を弾く」

「それから、上に薄い板をかぶせる。小さい屋根」

「雨の日は外に出さない。屋根の下に移す」


 言い方は軽い。

 でも中身はちゃんとしている。


 キオは、重い空気の中に現実の答えを持ってくる。


 当番の大人がうなずいた。


「油なら家にある。板も切れ端があるな」


 読む係の子が不安そうに言った。


「でも……今、読めない……」


 私は板を見て、短く言った。


「今は、作る」


 言葉が短いと迷いが減る。

 迷いが減ると動ける。


 私はにじんだ板を脇に置いた。


「新しいの、作る」


 キオがすぐに動く。


「よし。板、持ってくる!」


 当番の大人も動く。


「炭と筆を用意する」


 読む係の子も、ゆっくり手を挙げた。


「……読むの、手伝う」


 その一言が、胸に残った。


 困っているだけじゃなく、

 “やる”が出た。


 仕組みは、誰かの“やる”で回る。



 学び舎でも、その話はすぐ広がった。


 雨の日の教室は窓が白く曇って、外の音が遠い。

 だから、いつもより声が目立つ。


「ねえ、居場所の板って雨で読めなくなるの?」

「困るじゃん!」


 別の子が言う。


「教室の板も濡れたら読めないよね」

「雨の日どうする?」


 先生がその声を聞いて黒板の前に立った。


「いいね。雨の日のことも決めておこう」


 先生は短く言った。


「困る前に決める」


 私は口を開いた。


「……屋根の下に移す」


 先生がうなずく。


「そうだね。雨の日は屋根の下へ」


 友だちが「じゃあ作り直そう!」と笑った。

 教室の空気が少し明るくなる。


 誰かが困る前に、みんなが動く空気。

 それは、いい。



 放課後。

 屋根の下に机みたいに板を並べた。


 炭。筆。木の板。

 濡れない場所。


 みんなで新しい板を作る。


 先生が最初に言った。


「言葉は短く。誰でも読める言葉だけ」


 子どもたちが頷く。


「走らない!」

「近づかない!」

「囲まない!」


 短い言葉は強い。

 短い言葉は迷わない。


 私はゆっくり書いた。


『走らない』

『近づかない』


 余計な言葉は足さない。

 これだけで守れる。


 キオは別の板に書いていた。


『入口まで』

『順番』


 当番の大人は油を布に取って、薄く塗る準備をしている。


 読む係の子が、書き終わった板を受け取って声に出した。


「……走らない」

「……近づかない」


 その声が出た瞬間、近づきかけていた子どもが自然に止まった。


 止まれる。


 止まれる空気ができている。


 先生が最後に言った。


「雨の日は、板を屋根の下へ移します。覚えておこう」


 先生は黒板にも書いた。


【雨の日:屋根の下へ】


 手順になると続けられる。

 続けられると守れる。



 雨はまだ降っていた。


 でも入口の空気は崩れなかった。


 新しい板が立っている。

 文字ははっきりしている。

 読む係の声も迷わない。


 はるは屋根の下の乾いた場所で体を丸めていた。

 濡れない場所。

 静かな場所。


 目を閉じて眠っている。


 私はその姿を見て、小さく息を吐いた。


 守りは雨に負けなかった。


 濡れたから終わりじゃない。

 読めなくなったら、作り直せる。

 守り方は、増やせる。


 私は記録の紙を思い浮かべて、心の中に短い言葉を置いた。


 守り方は、濡れても直せる。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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