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第22話 噂の修正:言い直す勇気

 朝の教室は、静かだった。


 静かなのに、落ち着かない。

 誰も大きな声を出していないのに、目だけが忙しい。

 ひそひそが机の下を走って、足元から冷える。


 扉を開けて一歩入った瞬間、私は分かった。


 今日は、噂の日だ。


「昨日さ……犬に触った子がいるらしいよ」


 小さな声。

 でも、針みたいに刺さる声。


「え、うそ。だって『近づかない』って決めたのに」

「見たって言ってた」

「当番の大人がいるのに?」


 言葉は軽いのに、広がるのは速い。

 広がる先が悪い。


 犬のはる。

 水の器の列。

 当番板。

 読む係。

 短い約束。


 せっかく作った仕組みが、噂ひとつで壊れる。


 噂は、人を疑わせる。

 疑いは、距離を作る。

 距離は、優しさを減らす。


 最後に残るのは、怒りか怖さだ。


 私は席に着いて、机の端を指で押さえた。

 指先が冷たい。


 胸が重くなる。

 重いのに、放っておけない。


 友だちが顔を寄せてきた。


「ルミシア、聞いた?」

「触った子がいるって……」


 友だちの目は怖がっていた。

 噂が怖いんじゃない。

 噂のせいで、また壊れるのが怖い。


 私は短く答えた。


「……聞いた」


 教室の後ろで、別の子が声を上げた。


「誰が見たの?」

「見た人いる?」

「本当に?」


 確認しようとしている。

 それはいい。


 でも、その確認が大きな声になった瞬間、騒ぎになる。

 騒ぎになったら、噂はもっと強くなる。


 私は息を吸って、短く言った。


「……確かめる」


 友だちが「どうやって?」という顔をした。


 私は立ち上がって、先生のところへ歩いた。

 急がない。

 急ぐと空気が走る。


 先生は黒板の文字を書き終えて、私に気づいた。


「どうしたの?」


 私は小声で言った。

 短く、必要なことだけ。


「犬に触った子がいる、って噂が」


 先生の目が少し細くなる。

 困る目じゃない。

 決める目だ。


「分かった」


 先生はすぐに教室の前に立ち、手を上げた。


「みんな、聞いて」


 ざわつきが、ふっと止まる。


「噂が出ているね。でも、噂は事実で止めます」


 その言葉だけで、教室の空気が少し落ち着いた。

 “止め方がある”というだけで、人は安心する。


 先生は黒板に短く書いた。


【噂は事実で止める】


「今日はこれ。覚えておいて」


 先生は続けた。


「今は、誰が見たのかも、何が起きたのかも分からない。だから――疑わない。騒がない。確認してから」


 先生の声は明るい。

 でも線は引く。


 私は席に戻って、胸の奥で小さく息をした。


 先生が道を作ってくれた。

 それなら、私はついていける。



 放課後。

 教室の窓から入る光が、机の上の紙を白く照らす。


 いつもなら落ち着く光なのに、今日は少し落ち着かない。

 みんなが帰り支度をしながら、ちらちらと前を見る。


 “確認”が始まるのを待っている。


 先生が扉の方を見た。


「来たよ」


 扉が開く。


 当番の大人が入ってきた。

 その後ろに、キオもいる。


 当番の大人は、小さな帳面を手にしていた。

 薄い帳面。

 でも、薄いのに強い。


 当番の大人が先生に頭を下げた。


「お時間いただきます。昨日の当番の記録です」


 先生がうなずく。


「お願いします」


 当番の大人は帳面を開き、短く説明した。


「昨日、運ぶ係は二人。子どもは入口まで。器の補充は三回。犬に触れた子はいません」


 キオも頷いた。


「うん。入口に立ってた。中には入ってない」


 帳面と、目で見たことが揃った。


 それだけで、噂は弱くなる。


 教室の中で、誰かが小さく言った。


「……触ってないんだ」

「そうなんだ……」


 先生が黒板を指さした。


「噂は事実で止める。今、それをしました」


 先生の言葉は短い。

 でも、教室を守る言葉だ。


 私は立ち上がった。

 前に出るわけじゃない。

 でも、みんなに届くくらいの声で言う。


「……見たことだけ言う」


 耳がこちらを向く。

 視線が集まる。


 私は短く続けた。


「私は、入口で止まってる子を見た。はるが水を飲んだのも見た」


 それだけ。

 誰かを責めない。

 余計な気持ちを足さない。


 先生が小さくうなずいた。


「うん。それで十分」


 教室の空気が、少しほどけた。


 でも、その中でひとりだけ黙り込んでいる子がいた。

 噂を言い出した子だ。


 目を伏せて、机の端を指でなぞっている。

 謝りたいのかもしれない。

 でも、言葉が出ない。


 “間違えた”と言うのは、勇気がいる。


 私も知っている。

 短い言葉でも、言えない時はある。


 だから、ここで責めたらだめだ。

 責めたら、次は誰も言い直せなくなる。


 その時、友だちが一歩前に出た。

 声は大きくない。

 優しい声だ。


「次からは、確かめてからにしよう」


 友だちは笑っていた。

 責める笑いじゃない。

 “戻れる”笑い。


 噂を言った子が、ゆっくり顔を上げた。

 目が少し赤い。


 その子は、小さくうなずいた。


「……うん」


 たった一音。

 でも、それは言い直しの始まりだった。


 先生が最後に言った。


「間違えてもいい。でも、直せる教室にしよう」


 教室の空気が、少しあたたかくなる。


 私はその温度を胸に入れた。


 噂は速い。

 でも、言い直す勇気は、もっと強い。


 仕組みは人が守る。

 人は言葉で守る。


 だから――今日の一歩は、ちゃんと意味がある。


 私は席に戻り、紙を広げた。


 記録の一番最後に、短く書く。


『事実で止めた。』

『言い直せる教室。』


 書けた。


 今日は、それで十分だ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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