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第21話 仕組み拡張:水の器の列

 朝の居場所は、少しだけ変わっていた。


 変わったのは、派手な飾りじゃない。

 大きな出来事でもない。


 ただ、水の器が並んでいる。


 土の器が、同じ向きで。

 同じ間隔で。

 まっすぐに。


 器の中の水は、朝の光を少しだけ映していた。

 水面が揺れて、白い光が薄く踊る。


 私はその列を見て、胸の奥で小さくうなずいた。


 続いている。


 続いている、という事実は落ち着く。

 頑張って続けている、じゃない。

 仕組みが回っている、という感じ。


 器の端で、犬のはるが鼻を動かしていた。

 水の匂いを確かめるように、慎重に。


 はるは前ほど怯えない。

 でも、安心しきっているわけでもない。


 近づきすぎると体がこわばる。

 耳が後ろに倒れて、目が泳ぐ。


 私はその距離を覚えている。


 だから、器は入口の近くに置く。

 人が入りすぎない場所に置く。


 そこへ、新しい板が立った。


 キオが、両手で抱えるように運んできた板だ。

 板は小さい。

 でも立つと「ここに決まりがある」と分かる。


 キオは板を地面に差し、息を整えた。


「よし……できた」


 板には、太い文字で簡単に書いてある。


【朝:水を運ぶ】

【昼:器を洗う】

【夕:見回る】


 それだけ。

 短くて、迷わない。


 キオが私の方を見て、少しだけ笑った。


「これなら、誰でもできるよね」


 私はうなずいた。


「うん。続けやすい」


 続けるには、人が疲れない形が必要だ。

 誰か一人が頑張りすぎると、いずれ倒れる。


 役割を分ける。

 短くする。

 できることだけにする。


 その時、読む係の子が近くで小さく声を出した。


「……近づかない。走らない。囲まない」


 声は大きくない。

 でも、よく通る。


 子どもが一人、はるへ駆け出しそうになって止まった。

 止まる瞬間って、少しだけぎこちない。


 でも、止まれた。


 読む係の子は、もう一言だけ足した。


「……一歩止まる」


 それを聞いた子どもが、ぴたっと立ち止まった。


「……そうだった」


 そう言って、ゆっくり歩き直す。


 私はその様子を見て、肩の力が少し抜けた。


 守るのは大人だけじゃない。

 子どもも守りに参加できる。


 それが嬉しかった。



 学び舎に着くと、朝の教室はいつもよりざわついていた。


「ねえ、当番ってさ!」

「私もやりたい!」

「犬の世話、したい!」


 言葉が弾んでいる。

 善意の音だ。


 先生が黒板の前で手を上げた。


「はいはい、落ち着いて。今日はその話をしましょう」


 先生が笑うと、ざわつきが少し丸くなる。


 私は席に座りながら、胸の奥が小さくざわついた。


 善意はいい。

 優しい。


 でも、善意は膨らみすぎると危ない。


 人が集まる。

 声が増える。

 距離が近づく。


 それで、はるが怖がる。

 そして、また輪になる。


「私、撫でたい!」

「ごはんもあげたい!」

「名前も呼びたい!」


 言葉が重なるたび、教室の空気が少しずつ前に押す。


 私は指先を机の下で握った。


 このまま膨らむと、囲みになる。


 先生も笑っている。

 今はまだ危険じゃない。


 でも、危険になる前に止めたい。


 私は短く言った。


「……やり方が必要」


 声は小さかった。

 でも、自分にははっきり聞こえる。


 何人かが「え?」と私を見る。


 私は先生の方を見た。

 先生も気づいた。


 先生は一度、黒板を消して、白いところに大きく書いた。


【当番に参加したい人へ】


 そして、その下に続ける。


「気持ちはすごくいいです。だからこそ、決めます」


 先生の声は明るい。

 でも、線は引く。


「当番参加は、“見る係”と“運ぶ係”だけにします」


 教室が「えー」と少し揺れた。

 でも先生は笑ったまま言った。


「撫でる係は作りません。近づきすぎると犬が怖がるからです」


 それを聞いた子が、少しだけ黙った。

 黙るのは、納得しようとしている証拠だと思う。


 先生はさらに言う。


「それから、入口まで。ここが大事です。犬のそばには行きません」


 私は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 参加の道を残しつつ、安全も守る。

 その決め方が、優しい。


 先生が黒板の横に小さな板を出した。


「それと、分かりやすい言葉も作りましょう。短い言葉です」


 板と炭の筆が机に置かれる。

 子どもたちの目が輝いた。


「書いていいの?」

「私も?」

「ねえねえ!」


 興奮がまた膨らみそうになった時、読む係の子が小さく言った。


「……一歩止まる」


 声が落ちると、みんなの動きが一拍遅くなる。


 先生がうなずいた。


「そう。順番にね」


 私は手を上げない。

 でも先生が私を見て、短く言った。


「ルミシア、書ける?」


 私はうなずいた。


「……うん」


 板を受け取る手は少し震えた。

 でも、震えても書ける。


 私は短い言葉だけを選んだ。


『水は運ぶ』

『近づかない』


 それだけ。


 長いと読みにくい。

 短いと守りやすい。


 先生が板を見て、うなずいた。


「いいね。分かりやすい」


 子どもたちが覗き込みたくなる。

 でも先生が先に言う。


「囲まないよ。距離ね」


 距離。


 その一言で、前の空間が広くなる。


 私は板を机の端に置いて、ようやく息が戻った。



 放課後、居場所へ向かうと、大人の当番が入口に立っていた。


 水の桶を持っている。


 大人は板を見てうなずいた。


「水は運ぶ。近づかない。いい言葉だね」


 声は優しい。

 でも揺れない。


 キオが当番板を指さした。


「今日の運ぶ係、こっちです!」


 子どもが数人、手を挙げる。

 目がきらきらしている。


 でも、入口から先へは行かない。


 大人が確認した。


「子どもは入口までだよ」


「はーい!」


 返事が揃う。

 揃うと、強い。


 桶の水を器へ移す。

 こぼさないように、ゆっくり。


 器が満ちていく音は小さい。

 でも確かな音だ。


 はるが少し離れた場所から、それを見ていた。

 鼻をひくひくさせて、警戒している。


 でも前より怖がらない。


 読む係の子が入口で小さく言った。


「……近づかない」


 子どもたちが止まる。

 ちゃんと待つ。


 それだけで、はるの耳が少し起きた。


 はるは器へ近づいた。

 ゆっくり。

 一歩ずつ。


 そして、水を飲んだ。


 静かに。

 でも、確かに飲んだ。


 私はその瞬間、胸の奥がじんとした。


 水が飲める。

 それは、生きられるということだ。


 器がきれいに並ぶ。

 当番が回る。

 守る言葉が立つ。


 全部がつながって、やっと「安心」になる。


 夕方の光が、器の列をやわらかく照らした。


 私は心の中で、今日の言葉をまとめる。


 守り方が増えると、やさしさも増える。


 そういうことだと思った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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