第20話 告白:父に言えたこと
夜の家は、音が少ない。
湯が沸く音。
木の床を踏む音。
布がこすれる音。
それだけで、今日が終わっていく。
私は机に向かった。
紙を広げて、筆を持つ。
記録を書く時間だ。
なのに、筆が止まった。
書くことはある。
たくさんある。
遠足の笑い声。
分かれ道。
地図。
「ありがとう」。
弁当の交換。
それから、町の入口。
あの輪。
近づいてくる足。
重なる声。
ミオの手。
読む係の子の声。
私の「やめて」。
書けないわけじゃない。
書きたくないわけでもない。
ただ、書こうとすると胸の奥がざわついて、指が固まる。
筆先が紙の上で止まり、黒い点だけが増えた。
……点は小さいのに、心は重い。
私は息を吐いた。
吐いても軽くならない。
その時、足音が近づいた。
父が、机の端に湯の杯を置いた。
湯気がふわりと上がって、紙の上を横切る。
白い揺れが、少しだけ私を戻してくれる。
父は椅子に座らない。
立ったまま、短く聞いた。
「どうした」
いつも通りの声。
大きくない。
でも、逃げ道を塞がない声。
私は杯の湯気を見つめた。
湯気は消えていく。
消えるのに、温かさは残る。
……言葉も、そうならいいのに。
私は口を開こうとして、閉じた。
言うべきことは分かっている。
でも言葉にすると尖りそうで怖い。
今日の輪。
今日の視線。
今日の期待。
それらが頭の中で絡まって、ひとつの形にならない。
私は杯を両手で包んだ。
温かさが指にしみる。
父は急かさない。
「言え」とも言わないし、
「大丈夫だ」とも言わない。
ただ待つ。
その待ち方が、私には一番ありがたい。
しばらく、湯気の揺れる音だけがあった。
私は小さく息を吸って、吐く。
短い言葉でいい。
短い言葉なら、刺さりにくい。
私はようやく言えた。
「……怖い」
声は小さかった。
自分の耳にやっと届くくらい。
でも父は、聞き返さなかった。
うなずきもしない。
ただ、目を向けたまま待つ。
“続きがあるなら言え”じゃない。
“続きがなくてもいい”という目。
だから、続きが出た。
「……みんなが」
私は杯の縁を指でなぞりながら言った。
「みんなが、私を……“何か”にしたがる」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
未来が見える子。
特別な子。
役目がある子。
勝手に決められた子。
私は、ただの私でいたいのに。
父は、少しだけ目を伏せた。
怒っているわけじゃない。
考えているだけ。
それから父は、短く言った。
「お前は、お前だ」
たったそれだけ。
でも、その言葉は重くない。
守りみたいに、静かに落ちてくる。
私は唇を噛みそうになって、やめた。
泣きたいわけじゃない。
でも、ほどけそうだった。
父は続けた。
「守るやり方を、増やそう」
“増やそう”。
一人で頑張れ、じゃない。
一緒にやる、だ。
父はいつも余計なことを言わない代わりに、必要なことだけを言う。
「教室の約束。見直せ」
私はうなずいた。
「……うん」
父は杯を見る。
湯気が少なくなっている。
「短い言葉を足せ」
私は思い浮かべた。
黒板の約束。
教室の隅に立つ木の板の言葉。
読む係の子の声。
“囲まない”
“走らない”
“困ったら先生へ”
“勝手に読まない”
“できないことはできない”
“肩書きで決めない”
それでも、今日の輪はできかけた。
だから、足すなら。
私は口に出してみた。
「……『近づきすぎない』」
父はうなずく。
「いい」
私は続けた。
「……『話しかける前に、止まる』」
自分で言って、少し変だと思った。
でも輪は、勢いでできる。
勢いを止める言葉があってもいい。
父は少し考えてから言った。
「短くするなら」
父は言葉を整える。
「『一歩止まる』」
短い。
分かりやすい。
覚えやすい。
私は小さく息を吐いた。
少しだけ笑いそうになる。
父はさらに言う。
「読む係。続けろ」
「……うん」
「先生に、伝える」
父が先に言うのは珍しい。
いつもなら、私が決めるのを待つ。
でも今日は、父が先に言ってくれた。
それは、私が今日、言えたからだ。
私は杯を握ったまま、もう一つだけ言った。
「……今日、ミオが前に立ってくれた」
父の目が、ほんの少し柔らかくなる。
「よかったな」
それだけ。
でも私は、その言葉で十分だった。
私はようやく筆を持った。
紙の上に、今日のことを短く並べる。
『遠足だった。』
『分かれ道があった。』
『地図を見た。』
『信頼で呼ばれた。』
『町の入口で人が増えた。』
『囲まれそうになった。』
『ミオが止めた。』
『読む係が言った。』
『私は「やめて」と言えた。』
『父に「怖い」と言えた。』
『守るやり方を増やす。』
『言葉を足す。』
『一歩止まる。』
最後に、書く。
『言えた。』
その一行を書いた瞬間、胸の奥の暗さが少しだけほどけた。
私は気づかないふりをして、小さく笑った。
父はそれを見ても、何も言わない。
ただ、杯が空になったのを見て短く言った。
「寝ろ」
「……うん」
私は紙をそっと閉じた。
言えた夜は、静かなまま温かい。
湯気が消えても、温かさだけが残っていた。
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