第7話 外の刃と、名の線
外の匂いは、部屋の匂いと違った。
火鉢の赤が作る温度の匂いでも、湯気が作る白い匂いでもない。
土と石と、人の息と、乾いた布と――名もないざわめきの匂い。
私は幼かった。
幼いということは、世界の広さに勝てないということだ。
目に入るものが増えるほど胸の奥は忙しくなる。
音が重なるほど息は浅くなる。
視線が増えるほど、体は小さくなりたくなる。
私は外が怖かった。
怖い、と言える言葉はなかった。
喉の奥が固くなり、指先が布を探し、足の先が冷える。
そういう形で、私は外を拒んでいた。
父は、それを知っていた。
拒んでも叱らない。
「慣れろ」と言わない。
代わりに、外を小さくしてくれる。
◇
その朝も父は朝を作った。
湯が沸く。湯気が立つ。
椀が温まり、布が整えられ、短い声が落ちる。
「……よし」
朝の合図。
私はその合図を胸の奥に入れてから、父の手を待った。
抱き上げられる前の一拍。父が必ず置く小さな間。
それがあると、世界は急に動かない。
父は私を抱き上げ、外套の内側に入れるようにして温度を作った。
硬い腕。でも壊さない腕。
それから台所の隅の小さな袋を手に取る。
乾いた布の袋。中から金属の小さな音。
父がそれを持つ日は、たいてい“外”が近い。
父は私を椅子に座らせ、髪を結ぶ。
夜の色の髪をゆっくり集め、後ろで束ねる。
結び目は今日も不格好で、左右の輪が少しだけ違う。
でもその不格好さは、私の安心だった。父の手が迷いながらもここにいる証拠だから。
父は額に指を当てた。
熱を確かめる、いつもの動き。
「……冷える。布を増やす」
厚めの布が一枚、肩に掛けられる。
布が増えると、世界との距離が一段できる。
父は玄関へ向かいながら言った。
「……少しだけだ」
少しだけ。
外の大きさを削る言葉。
私は父の外套の端を掴む。
掴むと父は、私の手の上からそっと包む。ほどくためじゃない。支えるための手。
扉が開く。
冷たい空気。匂いが変わる。
私は息を止めかけたが、父の胸の温度がそれを止めた。
外は明るかった。
星の冷たさとは違う明るさ。
でも明るさは別の怖さを運んでくる。
見られる怖さだ。
父は歩幅を少しだけ早め、人通りの多い道を避けた。
壁沿いの影へ寄る。影は視線を薄める。
石畳の靴音も周囲の音に溶け、目立たない。
父はいつでも、目立たない音の作り方を知っていた。
◇
路地の奥の小さな店。
扉を押すと、乾いた鈴が鳴る。
その音に私はびくりと肩をすくめた。
父はすぐ背中へ手を置いた。押さえるんじゃない。温度を足す手。
店の中は、草と布と、少しだけ甘い匂いが混ざっている。
棚には薬草、籠には布、瓶には粉。
奥から年配の女性が出てきた。
視線が軽い人。噂を見る目じゃない。体温を見る目。
女性は私を見て柔らかく笑う。
「まあ。今日も静かな顔ね」
父は短く頷いた。
「……薬草と布を」
女性は棚を探りながら、当たり前みたいに尋ねた。
「お嬢ちゃん、今はどんなふうに呼ばれてるの?」
その瞬間、父の内側が少しだけ固くなる。
固いのに刺さらない。私を守る硬さ。
父は一拍置いた。
置き去りにしない沈黙。
それから私の輪郭に合わせるように、低い声で答える。
「……ルミシアだ」
外の空気に、名が混ざる。
私は胸の奥がふわりと熱くなるのを感じた。
名が、私の代わりに一歩踏み出した。
女性が目を細めた。
「ルミシア。いい名前ね」
柔らかい声は怖くない。
私は父の外套を掴んだまま、息を吸えた。
――そのとき、店の入口の鈴がまた鳴った。
別の客が入ってくる。
男の声。少し大きく、湿った声。
「おお……おお? おい、あれ、まさか――」
声の先に視線が生まれる。
視線は刃じゃないのに刺さる。
胸がきゅっと縮んだ。
指先が布を探す。息が浅くなる。
父の腕が、私を外套の内側へさらに寄せた。
布が増える。距離ができる。
男が笑う。
「やっぱりだ! 英雄様じゃねえか! 都の――」
肩書きの音。
名じゃなく、物語の形をした呼び声。
父は動かなかった。
剣を抜かない。
代わりに、目線だけを男へ向ける。
店の空気が一段、重くなる。
それは脅しじゃない。線が引かれる前の静けさだ。
父が低い声で言う。
「……呼び方が違う」
たった一言。
怒鳴らない。持ち上げない。けれど、その一言は刃より硬い。
男が笑いを止めた。
止めたのに、また言おうとする。
「いや、だってよ――この子は何だ? 星の――」
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
星の糸が、また来る気がした。
父は、その言葉が形になる前に静かに遮った。
「……この子には名がある」
低い声。
硬さの中に、守りの温度が混ざっている。
父は私を一度だけ見下ろし、確かめるように言った。
「ルミシアだ」
外の空気に、もう一度名が落ちる。
名が落ちると、私の胸に火が入る。
男は口を開けたまま言葉を探し、酔いの匂いだけが残る。
無遠慮は、物語を押しつける。
父は近づかない。離れもしない。
適切な距離で、線だけを置く。
「……子どもに触れるな」
淡々としているのに、拒絶ははっきりしている。
男はようやく気づいた顔をした。
噂の英雄じゃない。目の前にいるのは“父”だと。
「……へえ。そうかよ。すまねえな」
男は視線を外し、店の奥へ引いた。
空気が少しだけ軽くなる。
女性が息を吐いて、小さく笑う。
「線の引き方が上手ね。剣よりずっと」
父は答えない。
答えないけれど、耳をそらさない。
沈黙の中に、肯定だけが置かれる。
父は荷物を受け取り、店を出た。
外の風が頬を撫でた。
父は歩きながら、私の手を上から包み直す。
「……息をしろ」
その言葉で、胸がほどける。
私は息を吸った。
外の匂いが入る。その中に、名の余韻が混ざっている気がした。
ルミシア。
外の匂いの中でも、冷たくならない音。
◇
帰り道、父は遠回りをした。
人の多い通りを避け、影の多い路地へ入る。
見られにくい暗さは、私の胸を守る。
路地の先に小さな広場があった。
石畳が少し開けているだけの場所。
そこで子どもが二人遊んでいた。
私より少し大きい。走って、笑う。
その笑い声は刺さらない。
軽いからだ。
父は立ち止まった。
迷いじゃない。私の反応を見る止まり方。
私は父の腕の中で、子どもたちを見た。
子どもたちは私を見つけ、近づいてきた。
足音が軽い。軽い足音は怖くない。
一人の子が、落ちていた小さな花を拾って差し出した。
「これ」
短い言葉。物語を連れてこない言葉。
花は白く、柔らかい匂いがした。
湯気の白とは違う白。でも冷たくない。
私は手を伸ばした。
指先が花びらに触れる。
薄くて折れそうで――でも折れなかった。
父の腕が少しだけ強くなる。支えるための強さ。
もう一人の子が父を見上げて言った。
「おじさん、だれ?」
肩書きの問いじゃない。
ただ、知りたい問い。
父は一拍置いて答えた。
「……父だ」
それで十分だったらしく、子どもたちは頷く。
「ふーん」
そして興味を引きずらず、また遊びに戻った。
子どもたちは、勝手に世界を軽くする。
私は花を握った。
強すぎて少しよれた。それでも嬉しかった。
外で触れたものが、手の中に残ったから。
父がほんの少しだけ口元を丸くする。
「……よし」
外での「よし」。
外の中でも、私が壊れなかった「よし」。
◇
家に戻ると、匂いが戻ってきた。
火鉢の匂い。
湯気の匂い。
布の匂い。
父は荷物を置き、湯を沸かした。
白い温度が部屋に満ちる。
私は父の膝の上で、よれた花を見つめた。
匂いはまだ残っている。
父が低く言った。
「……外は、全部が刃じゃない」
刃。意味は分からない。
でも声の温度で、父が外を敵として扱っていないことが分かった。
父はいつものように私の額へ指を当てる。
「ルミシア」
名が落ちる。
名が落ちると、私はここへ戻れる。
私は口を動かした。
舌が重い。喉が慣れていない。
でも胸の奥の音が、出たがっていた。
「……る」
父の体が、ぴたりと止まる。
大げさに喜ばない。
目を見開かない。
ただ、静かに待つ。
待つ沈黙。
置き去りにしない沈黙。
私はもう一度、口を動かした。
「……み」
音はまだつながらない。
でも中の火が、外へ出ようとしている。
父がほんの少し頷く。
その頷きで、私はもう一度息を吸えた。
そして息に音を乗せる。
「……るみ、あ」
完璧じゃない。
でも私の口から出た。
私の中の音が、外へ出た。
父はその余韻を受け取ってから、低い声で言う。
「……ルミシア」
正しい形の音。
でも否定じゃない。私の音に、帰り道を作るための音。
父が続ける。
「……よし」
今までで一番静かで、一番熱い「よし」。
私は父の外套の布を掴んだ。
掴む手が少しだけ震えている。
怖さじゃない。出せた音の震えだ。
父がその手を上から包む。
包む手の温度は、湯気と同じ種類の安心だった。
その日、私は知った。
外には肩書きで呼ぶ声がある。物語を押しつける声がある。
それは刺さる。息を浅くする。指先を冷たくする。
でも同じ外に、花を差し出す声もある。
「これ」とだけ言う声もある。
そして何より。
父が外で私の名を言った。
名が外へ出ても、冷たくならなかった。
私が名のかけらを口にしても、壊れなかった。
世界は大きい。
でも父は、世界を小さくする術を知っている。
布を増やす。距離を変える。湯気を立てる。名を置く。線を引く。
剣を抜かないまま。
私は父の胸の温度を感じながら、よれた花の匂いを吸った。
外の匂いと家の匂いが混ざっている。
混ざっているのに、怖くない。
父が最後にもう一度だけ呼ぶ。
「ルミシア」
私は小さく息を吐き、音を乗せる。
「……る」
父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。
「よし」
その二つの音で、今日の外は終わった。
終わって、家の湯気の中へ戻ってきた。
外の呼び声は少しだけ遠くなり、
代わりに名の声が、私の中で少しだけ大きくなった。
けれど、その日の夕方。
父のもとへ「英雄に命じる」封蝋つきの手紙が届いた。
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