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第7話 外の刃と、名の線

外の匂いは、部屋の匂いと違った。


火鉢の赤が作る温度の匂いでも、湯気が作る白い匂いでもない。

土と石と、人の息と、乾いた布と――名もないざわめきの匂い。


私は幼かった。

幼いということは、世界の広さに勝てないということだ。


目に入るものが増えるほど胸の奥は忙しくなる。

音が重なるほど息は浅くなる。

視線が増えるほど、体は小さくなりたくなる。


私は外が怖かった。


怖い、と言える言葉はなかった。

喉の奥が固くなり、指先が布を探し、足の先が冷える。


そういう形で、私は外を拒んでいた。


父は、それを知っていた。


拒んでも叱らない。

「慣れろ」と言わない。


代わりに、外を小さくしてくれる。



その朝も父は朝を作った。


湯が沸く。湯気が立つ。

椀が温まり、布が整えられ、短い声が落ちる。


「……よし」


朝の合図。


私はその合図を胸の奥に入れてから、父の手を待った。

抱き上げられる前の一拍。父が必ず置く小さな間。


それがあると、世界は急に動かない。


父は私を抱き上げ、外套の内側に入れるようにして温度を作った。

硬い腕。でも壊さない腕。


それから台所の隅の小さな袋を手に取る。

乾いた布の袋。中から金属の小さな音。


父がそれを持つ日は、たいてい“外”が近い。


父は私を椅子に座らせ、髪を結ぶ。

夜の色の髪をゆっくり集め、後ろで束ねる。


結び目は今日も不格好で、左右の輪が少しだけ違う。

でもその不格好さは、私の安心だった。父の手が迷いながらもここにいる証拠だから。


父は額に指を当てた。

熱を確かめる、いつもの動き。


「……冷える。布を増やす」


厚めの布が一枚、肩に掛けられる。

布が増えると、世界との距離が一段できる。


父は玄関へ向かいながら言った。


「……少しだけだ」


少しだけ。

外の大きさを削る言葉。


私は父の外套の端を掴む。

掴むと父は、私の手の上からそっと包む。ほどくためじゃない。支えるための手。


扉が開く。

冷たい空気。匂いが変わる。


私は息を止めかけたが、父の胸の温度がそれを止めた。


外は明るかった。

星の冷たさとは違う明るさ。


でも明るさは別の怖さを運んでくる。

見られる怖さだ。


父は歩幅を少しだけ早め、人通りの多い道を避けた。

壁沿いの影へ寄る。影は視線を薄める。


石畳の靴音も周囲の音に溶け、目立たない。

父はいつでも、目立たない音の作り方を知っていた。



路地の奥の小さな店。


扉を押すと、乾いた鈴が鳴る。

その音に私はびくりと肩をすくめた。


父はすぐ背中へ手を置いた。押さえるんじゃない。温度を足す手。


店の中は、草と布と、少しだけ甘い匂いが混ざっている。

棚には薬草、籠には布、瓶には粉。


奥から年配の女性が出てきた。

視線が軽い人。噂を見る目じゃない。体温を見る目。


女性は私を見て柔らかく笑う。


「まあ。今日も静かな顔ね」


父は短く頷いた。


「……薬草と布を」


女性は棚を探りながら、当たり前みたいに尋ねた。


「お嬢ちゃん、今はどんなふうに呼ばれてるの?」


その瞬間、父の内側が少しだけ固くなる。

固いのに刺さらない。私を守る硬さ。


父は一拍置いた。

置き去りにしない沈黙。


それから私の輪郭に合わせるように、低い声で答える。


「……ルミシアだ」


外の空気に、名が混ざる。


私は胸の奥がふわりと熱くなるのを感じた。

名が、私の代わりに一歩踏み出した。


女性が目を細めた。


「ルミシア。いい名前ね」


柔らかい声は怖くない。

私は父の外套を掴んだまま、息を吸えた。


――そのとき、店の入口の鈴がまた鳴った。


別の客が入ってくる。

男の声。少し大きく、湿った声。


「おお……おお? おい、あれ、まさか――」


声の先に視線が生まれる。

視線は刃じゃないのに刺さる。


胸がきゅっと縮んだ。

指先が布を探す。息が浅くなる。


父の腕が、私を外套の内側へさらに寄せた。

布が増える。距離ができる。


男が笑う。


「やっぱりだ! 英雄様じゃねえか! 都の――」


肩書きの音。

名じゃなく、物語の形をした呼び声。


父は動かなかった。

剣を抜かない。


代わりに、目線だけを男へ向ける。


店の空気が一段、重くなる。

それは脅しじゃない。線が引かれる前の静けさだ。


父が低い声で言う。


「……呼び方が違う」


たった一言。

怒鳴らない。持ち上げない。けれど、その一言は刃より硬い。


男が笑いを止めた。

止めたのに、また言おうとする。


「いや、だってよ――この子は何だ? 星の――」


私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

星の糸が、また来る気がした。


父は、その言葉が形になる前に静かに遮った。


「……この子には名がある」


低い声。

硬さの中に、守りの温度が混ざっている。


父は私を一度だけ見下ろし、確かめるように言った。


「ルミシアだ」


外の空気に、もう一度名が落ちる。

名が落ちると、私の胸に火が入る。


男は口を開けたまま言葉を探し、酔いの匂いだけが残る。

無遠慮は、物語を押しつける。


父は近づかない。離れもしない。

適切な距離で、線だけを置く。


「……子どもに触れるな」


淡々としているのに、拒絶ははっきりしている。


男はようやく気づいた顔をした。

噂の英雄じゃない。目の前にいるのは“父”だと。


「……へえ。そうかよ。すまねえな」


男は視線を外し、店の奥へ引いた。


空気が少しだけ軽くなる。


女性が息を吐いて、小さく笑う。


「線の引き方が上手ね。剣よりずっと」


父は答えない。

答えないけれど、耳をそらさない。


沈黙の中に、肯定だけが置かれる。


父は荷物を受け取り、店を出た。


外の風が頬を撫でた。

父は歩きながら、私の手を上から包み直す。


「……息をしろ」


その言葉で、胸がほどける。


私は息を吸った。

外の匂いが入る。その中に、名の余韻が混ざっている気がした。


ルミシア。

外の匂いの中でも、冷たくならない音。



帰り道、父は遠回りをした。


人の多い通りを避け、影の多い路地へ入る。

見られにくい暗さは、私の胸を守る。


路地の先に小さな広場があった。

石畳が少し開けているだけの場所。


そこで子どもが二人遊んでいた。

私より少し大きい。走って、笑う。


その笑い声は刺さらない。

軽いからだ。


父は立ち止まった。

迷いじゃない。私の反応を見る止まり方。


私は父の腕の中で、子どもたちを見た。


子どもたちは私を見つけ、近づいてきた。

足音が軽い。軽い足音は怖くない。


一人の子が、落ちていた小さな花を拾って差し出した。


「これ」


短い言葉。物語を連れてこない言葉。


花は白く、柔らかい匂いがした。

湯気の白とは違う白。でも冷たくない。


私は手を伸ばした。

指先が花びらに触れる。


薄くて折れそうで――でも折れなかった。


父の腕が少しだけ強くなる。支えるための強さ。


もう一人の子が父を見上げて言った。


「おじさん、だれ?」


肩書きの問いじゃない。

ただ、知りたい問い。


父は一拍置いて答えた。


「……父だ」


それで十分だったらしく、子どもたちは頷く。


「ふーん」


そして興味を引きずらず、また遊びに戻った。

子どもたちは、勝手に世界を軽くする。


私は花を握った。

強すぎて少しよれた。それでも嬉しかった。


外で触れたものが、手の中に残ったから。


父がほんの少しだけ口元を丸くする。


「……よし」


外での「よし」。

外の中でも、私が壊れなかった「よし」。



家に戻ると、匂いが戻ってきた。


火鉢の匂い。

湯気の匂い。

布の匂い。


父は荷物を置き、湯を沸かした。

白い温度が部屋に満ちる。


私は父の膝の上で、よれた花を見つめた。

匂いはまだ残っている。


父が低く言った。


「……外は、全部が刃じゃない」


刃。意味は分からない。

でも声の温度で、父が外を敵として扱っていないことが分かった。


父はいつものように私の額へ指を当てる。


「ルミシア」


名が落ちる。

名が落ちると、私はここへ戻れる。


私は口を動かした。


舌が重い。喉が慣れていない。

でも胸の奥の音が、出たがっていた。


「……る」


父の体が、ぴたりと止まる。


大げさに喜ばない。

目を見開かない。


ただ、静かに待つ。


待つ沈黙。

置き去りにしない沈黙。


私はもう一度、口を動かした。


「……み」


音はまだつながらない。

でも中の火が、外へ出ようとしている。


父がほんの少し頷く。

その頷きで、私はもう一度息を吸えた。


そして息に音を乗せる。


「……るみ、あ」


完璧じゃない。

でも私の口から出た。


私の中の音が、外へ出た。


父はその余韻を受け取ってから、低い声で言う。


「……ルミシア」


正しい形の音。

でも否定じゃない。私の音に、帰り道を作るための音。


父が続ける。


「……よし」


今までで一番静かで、一番熱い「よし」。


私は父の外套の布を掴んだ。

掴む手が少しだけ震えている。


怖さじゃない。出せた音の震えだ。


父がその手を上から包む。

包む手の温度は、湯気と同じ種類の安心だった。


その日、私は知った。


外には肩書きで呼ぶ声がある。物語を押しつける声がある。

それは刺さる。息を浅くする。指先を冷たくする。


でも同じ外に、花を差し出す声もある。

「これ」とだけ言う声もある。


そして何より。


父が外で私の名を言った。

名が外へ出ても、冷たくならなかった。


私が名のかけらを口にしても、壊れなかった。


世界は大きい。

でも父は、世界を小さくする術を知っている。


布を増やす。距離を変える。湯気を立てる。名を置く。線を引く。

剣を抜かないまま。


私は父の胸の温度を感じながら、よれた花の匂いを吸った。

外の匂いと家の匂いが混ざっている。


混ざっているのに、怖くない。


父が最後にもう一度だけ呼ぶ。


「ルミシア」


私は小さく息を吐き、音を乗せる。


「……る」


父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。


「よし」


その二つの音で、今日の外は終わった。

終わって、家の湯気の中へ戻ってきた。


外の呼び声は少しだけ遠くなり、

代わりに名の声が、私の中で少しだけ大きくなった。


けれど、その日の夕方。

父のもとへ「英雄に命じる」封蝋つきの手紙が届いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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