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第18話 遠足当日:迷い道の手

 遠足の朝は、家の中の音が少し違った。


 湯を沸かす音。布を整える音。

 いつもの生活の音に、今日は“出かける音”が混ざる。


 袋の口を結ぶ音。

 水筒のふたを閉める音。

 包みを重ねる音。


 私は鏡の前で肩ひもを直して、深呼吸した。


 胸が少し速い。

 遠足は楽しい。

 でも、楽しい日は声が増える。


 増えた声の中で、自分がどうなるか。

 それが少し怖い。


 父は余計な励ましをしない。

 今日も短く言っただけだった。


「忘れ物は」


 私は袋の口を押さえる。


「……ない」


 父は小さくうなずく。


「行くぞ」


 それだけで、十分だった。



 集合場所は学び舎の前の広場だった。


 朝の空気が澄んでいる。

 子どもたちが集まるほど、そこに色と声が足されていく。


「おはよー!」

「遠足だー!」

「お弁当持ってきた!」


 先生が手を叩いて、声をまとめる。


「班ごとに並んで。走らない。押さない。歩くよ」


 私は自分の班の列に入った。


 前にミオとセイラがいる。

 それだけで安心する。


 私は列の端の方を選んだ。

 端は、視線の当たり方が少し弱い。

 逃げ道がある気がする。


 先生が点呼をして、出発の合図を出す。


「じゃあ行きます。前の班についていくよ」


 広場が動き出す。

 足音がそろって、道が遠足になる。


 私は袋の肩ひもを握り直した。

 握り直すと、落ち着く。



 町を抜けて、丘の方へ向かう。


 畑の匂い。草の揺れる音。

 風が頬に当たって、目が覚める。


「先生、ほんとに林まで?」

「途中で休憩ある?」

「鳥いるかな!」


「休憩するよ。水飲む時間も作るからね」


 先生の返事は落ち着いていて、みんなの足が揃う。


 私は班の端で歩きながら、周りを静かに見た。


 靴ひもはほどけていない。

 石につまずきそうな子はいない。

 列は崩れていない。


 見てしまうのは癖みたいなものだ。

 気づけるなら、気づいていたい。


 でも、必要以上に前へ出たくない。


 “できるでしょ”と言われるのが怖い。

 勝手に役目を押しつけられるのも怖い。


 だから私は、自分の歩幅だけに集中した。


 足。

 息。

 袋の揺れ。


 その繰り返しで、道は森に近づく。



 林に入ると、空が細くなった。


 葉の影が道に落ちて、地面がまだらになる。

 風が通る音が、上から降りてくる。


「わあ……涼しい」

「冒険みたい!」


 子どもたちが少しはしゃぐ。


 先生がすぐに言う。


「冒険じゃないよ。遠足。列を崩さないでね」


 森道は細い。曲がる。

 見通しが悪い場所もある。


 私は前の班との距離を見た。

 離れすぎない。近づきすぎない。

 距離が保てると、迷いにくい。


 そのまま少し歩いたところで、道が分かれた。


 右に曲がる細い道。

 左に下る広めの道。


 先頭の先生が立ち止まる。

 後ろの班も止まる。

 私たちも止まった。


 列が詰まり、声が増え始める。


「え、どっち?」

「こっちじゃない?」

「左の方が歩きやすくない?」


 先生が地図を取り出した。

 でも木の影で見にくい。

 影が揺れて、地図の上を滑っていく。


「……ちょっと待ってね」


 先生の声は落ち着いている。

 それでも迷いが少し混ざる。


 その迷いはすぐに伝わる。


「迷ったの?」

「戻る?」

「大丈夫かな……」


 不安が言葉になって増えていく。


 増えた言葉は形になって寄ってくる。

 寄ってくる形は、いつも同じ。


 誰かが言った。


「ねえ、ルミシア、分かる?」


 胸の奥がきゅっと縮んだ。


 呼ばれるのが嫌なんじゃない。

 “分かる?”が怖い。


 そこに期待が混ざるから。


「ルミシアなら分かるんじゃない?」

「銀の目だし!」


 小さな声。

 でも、耳に残る。


 私は足元の土を見た。

 ここで黙ると、期待が固まる。


 でも言い返すと尖る。

 尖るのは嫌だ。


 短くて、尖らなくて、ちゃんと止める言葉。

 それを探す。


 私は顔を上げて言った。


「……地図を見る」


 “分かる”じゃない。

 “見る”。


 それだけで、少しだけ空気が止まった。


 私は先生の方へ一歩だけ近づいて、距離を保ったまま続けた。


「先生、確認していい?」


 先生がこちらを見る。

 その目は期待じゃない。助け合いの目だった。


「うん。見てくれる?」


 先生は地図を少し持ち上げた。

 私は近づきすぎない位置で覗き込む。


 地図には印がある。

 林の入口。分かれ道。丘の上の広場。


 私は地図の線と、目の前の道を交互に見た。


 目的地は丘の上。

 なら、上に向かう道。


 右の道は細いけれど上り。

 左の道は広いけれど下り。


 土の形も見た。

 右には踏まれた跡が多い。

 左は少し湿っている。


 私は落ち着いて言った。


「……右。上に向かう」


 先生がうなずく。


「そうだね。右だ。みんな、右に行くよ」


 先生の声がはっきりすると、不安が薄くなる。


「よかったー!」

「右だって!」

「迷ってないじゃん!」


 私は一歩下がって、班の端に戻った。


 戻るとき、ミオが小さく言った。


「ありがとう」


 セイラも続ける。


「助かった」


 その“ありがとう”は重くない。

 期待のありがとうじゃない。


 信頼のありがとうだった。


 私は小さくうなずいた。


「……うん」


 そして列が動き出す。

 足音がまた揃う。



 右の道は細いけれど、ちゃんと続いていた。


 木の間から光が落ちる。

 影が揺れて、地面に模様ができる。


「合ってたね」

「ルミシア、すごい」


 私は“すごい”を受け取りすぎないように短く言った。


「……見ただけ」


 それでいい。


 しばらく歩くと、林が途切れて空が広がった。


 丘の上の小さな広場。

 草が短く、風が通る場所。


「着いたー!」


 先生が笑う。


「到着。ここでお昼にしよう」


 袋を開ける音が重なって、今度は“お弁当の音”になる。


 私はミオとセイラの近くに座った。

 近すぎず、遠すぎず。


 父が作った包みはきれいに結ばれている。


 中身は派手じゃない。

 でも、ちょうどいい。


 塩むすび。

 卵焼き。

 小さなからあげ。

 きゅうりとミニトマト。


 分けやすいもの。


 父の短い言葉が、ここに入っている。


 私は卵焼きを一切れ取った。


 ミオが目を輝かせる。


「卵焼き、きれい!」


 セイラが笑う。


「交換する? うち、からあげ多め!」


 交換。

 その言葉が胸に温かく落ちた。


「……いい」


 短い言葉でも、ちゃんと混ざれる。


 卵焼きとからあげが行き来する。

 塩むすびが半分になる。

 ミニトマトが転がって、みんなで笑う。


「逃げた!」

「捕まえた!」


 笑い声が自然に出る。

 私の口元も、少しだけゆるんだ。


 “同じ弁当の話”より先に進めた気がした。

 “同じ弁当を分ける”まで来た。



 帰り道。


 先生が「列を作ってね」と声をかける。


 分かれ道を通るとき、私は少しだけ思った。


 できたのは特別な力じゃない。

 銀の目でもない。


 落ち着いて見た。

 先生に確認した。

 それだけ。


 それだけで、道は続いた。


 ミオが小さく言う。


「今日、楽しかったね」


「……うん」


 セイラが笑う。


「ルミシア、遠足の人だった」


「遠足の人って何」


 笑いが起きる。

 刺さらない笑い。


 私は歩きながら、胸の奥を確かめた。


 今日は、期待じゃなくて、信頼だった。

 その違いは、はっきり分かった。



 家に帰ると父が玄関にいた。


 迎えじゃなくても、戻る場所はここにある。


 父は私の顔を見て、短く言った。


「無事か」


「……うん」


「よかった」


 それだけ。


 私は遠足の袋を下ろして、少しだけ迷ってから言った。


「……分かれ道、迷った」


 父の目が少し動く。


「どうした」


「……地図を見た」


 父がうなずく。


「落ち着いて見たか」


「……うん」


 父はそれ以上言わなかった。

 でも、そのうなずきで十分だった。



 夜。


 机に紙を広げて記録を書く。


『遠足だった。』

『分かれ道があった。』

『期待されそうになった。』

『地図を見ると言った。』

『先生に確認した。』

『右に行けた。』

『ありがとうと言われた。』

『弁当を分けた。』

『笑えた。』


 最後に、今日いちばん大事なことを書く。


『期待じゃなく、信頼で呼ばれた気がした。』

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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