第14話 仕組み化:お願いの木札
朝、教室に入った瞬間、机の形が違うのが分かった。
いつもは前を向いて並んでいる机が、今日は横に広く置かれている。
真ん中に空間ができて、作業台みたいになっていた。
机の上には、板が並んでいる。
小さな木の板。手のひらより少し大きい。
その横に、黒い炭の棒と、布切れ。
工作の日。
そう分かっただけで、教室の声が少しだけ軽くなる。
先生が教室の前で手を叩いた。
「今日は“お願いの木札”を作ります」
その言葉で、みんなが一斉に前を見る。
木札。
教室の約束を置くための、木の板。
先生は続けた。
「大事なのは、短い言葉です。短いほど、みんなが思い出せる」
先生は指を一本立てた。
「ルールは二つ」
指が二本になる。
「一つ。短い言葉だけ」
「二つ。誰かを傷つけない言葉だけ」
教室が「はーい」と揃う。
揃うと、もう半分できたみたいな気がする。
私は自分の机の上の木札を見た。
木の色はあたたかい。
触ると少しだけざらざらしている。
このざらざらは、記録の紙とは違う。
紙より強い。
紙より残る。
残るものに書く言葉だから、短くしたい。
⸻
先生が黒板に大きく書いた。
『候補』
「じゃあ、案を出してみよう」
すぐに手が上がった。
「走らない!」
「囲まない!」
「勝手に触らない!」
先生が黒板に書く。
『走らない』
『囲まない』
『勝手に触らない』
字が増えるたび、教室の空気が少しずつ整っていく。
言葉が見えると、同じ方向に向ける。
別の子が言う。
「順番を守る!」
「困ったら先生!」
先生はうなずいて書き足す。
『順番を守る』
『困ったら先生へ』
私はその黒板を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
“困ったら先生へ”。
この言葉が教室にあるだけで、守られる。
守られると、歩ける。
先生が黒板の方を向いたまま言った。
「いいね。他にもある?」
私は小さく息を吸って、口を開いた。
「……困ったら先生へ、を入れてほしいです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
今、私はみんなの前で言えた。
先生がすぐに振り返って笑った。
「もちろん。採用です」
黒板の文字の横に、大きく丸がつく。
その丸が、胸の奥に落ち着きをくれた。
⸻
候補が揃って、教室の空気がいい方向に流れ始めた。
その時だった。
後ろの席の方から、軽い声が飛んできた。
「じゃあさ、“占いして”も書けば?」
くすっと笑いが起きる。
ほんの少し。
でも、その少しが教室を揺らす。
視線が私の方へ寄りかける。
胸がきゅっとなる。
またそこに戻るのか、と思った。
でも、戻らなかった。
セイラがすぐ言った。
「それは違うでしょ」
はっきりした声。
怒鳴らない。
でも止める。
ミオも続ける。
「できないって言ってるのに、ふざけるのはよくない」
その二人の言葉で、笑いはすっと消えた。
教室が元に戻る。
戻るのが早い。
先生もすぐに言った。
「今の二人の言葉も、木札にしたいくらい大事だね」
先生は少し考えてから言った。
「短くすると、どうなるかな」
私は木札を見た。
短い言葉は守りになる。
守りは、形にして置いておきたい。
私は炭を手に取った。
木札の上に、ゆっくり書く。
大きく。読みやすく。短く。
『できないことは、できない』
書き終えると、胸の奥が静かになった。
先生がそれを見て、目を細める。
「いい言葉だね」
先生はうなずいて言った。
「これも、教室の隅に立てよう。見える場所に」
隅、というのがちょうどよかった。
真ん中に置くと、強くなりすぎる。
でも隅なら、いつでも目に入る。
私は小さくうなずいた。
⸻
木札づくりが始まった。
先生が言う。
「黒板の候補から一つ選んで、木札に書きます。みんな違っていい」
違っていい。
それは安心する言葉だった。
子どもたちはそれぞれ木札を取り、炭で文字を書き始める。
炭の音。
木をなぞる小さな音。
布で拭く音。
机を動かす音。
会話が少なくても、音がある。
作業は会話の代わりになる。
「わ、手が黒い」
「服についた!」
「布で拭けば落ちるよ!」
笑い声は軽い。
軽い声は、今日は怖くない。
先生が机の間を歩きながら見て回る。
「読みやすいね」
「字が大きくていい」
「短くて覚えやすい」
褒められると、みんな少し照れる。
照れると、ふざけが減る。
ふざけが減ると、教室が優しくなる。
私の木札は、『できないことは、できない』。
私は布でそっと余分な炭を落として、字の形を整えた。
これは、誰かを止めるためじゃない。
私を守るための言葉だ。
⸻
完成した木札は、教室の隅の棚に並べられた。
『走らない』
『囲まない』
『勝手に触らない』
『順番を守る』
『困ったら先生へ』
『できないことは、できない』
木札が並んだ瞬間、教室の景色が変わった気がした。
黒板の文字より、少しあたたかい。
木の色があるだけで、硬さが減る。
先生が言う。
「これで終わりじゃないよ。困ったら増やしていい。変えてもいい」
増やせる。変えられる。
それは、教室が成長できるということだ。
私は棚を見つめながら思った。
仕組みがあると、人は優しくなれる。
優しくなれると、私も息がしやすい。
⸻
放課後、私はもう一度棚を見た。
木札は小さい。
ただ立っているだけ。
でも、そこに“守り方”がある。
門の外で父が待っていた。
「今日はどうだった」
父の問いは短い。
「……木札を作った」
「何を書いた」
「……できないことは、できない」
父は一度だけ目を細めた。
笑ったわけじゃない。
でも、少しだけ柔らかい。
「いい」
短い言葉が胸に落ちる。
それで十分だった。
⸻
夜。
机に紙を広げて、記録を書く。
『お願いの木札を作った。』
『短い言葉だけにした。』
『困ったら先生へ、が採用された。』
『できないことは、できない、と書いた。』
最後に、今日の気持ちを書く。
『仕組みがあると、みんな優しくなれる。』
書き終えると、棚の木札が思い浮かんだ。
木札が立っただけで、教室の風がやわらかくなった。
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