第13話 先生相談:言葉の置き場所
朝の教室で、先生は最初に黒板へ向かった。
チョークが鳴る。
白い線が一本引かれる。
それから先生は、昨日の約束をもう一度、はっきり書いた。
『相談は先生へ』
『囲まない』
「おはよう。今日は最初に、これを確認します」
先生の声はいつも通りの落ち着いた声だった。
でも、その一言で教室の空気がすっと整った。
整うと、私の胸の奥も少しだけ楽になる。
私は机の下で指先を握って、ゆっくり開いた。
手が少し震えている。
震える理由は怖さだけじゃない。
今日、先生に相談すると決めていた。
決めているだけで、心は落ち着かない。
でも、迷いはもう少ない。
先生は黒板の文字を指でなぞった。
「相談するのは悪いことじゃない。むしろいいこと。でも、相談は“やり方”が大事です」
子どもたちがうなずく。
うなずきが増えると、約束は強くなる。
「囲まない。順番を守る。困ったら先生へ。これを守ろう」
私は小さくうなずいた。
――今日、言う。
そう思うと、胸がきゅっとなる。
でも、逃げない。
⸻
授業はいつも通りに進んだ。
筆が紙の上を走る。
先生の声が黒板に向かって続く。
教室の音が整っていく。
私は文字を書きながら、ずっと“授業の後”のことを考えていた。
先生に呼ばれる。
別の部屋に行く。
私は話す。
短く。
分かる言葉で。
言い訳を増やさない。
そうやって考えると、余計に緊張してしまう。
手の震えが、また戻りそうになる。
授業が終わると、先生が教室を見回して言った。
「ルミシアさん。少し話せる?」
私は息を整えて返事をした。
「……はい」
教室の端で、子どもたちがちらっと私を見る。
でも先生はいつも通りだ。
「みんなは先に帰っていいよ。日直さん、黒板消しだけお願いね」
子どもたちが通い袋を持って教室を出ていく。
声が遠ざかる。
机の上の音も少なくなる。
教室が空いていくのは寂しい。
でも今日は、空いている方がいい。
先生は私を廊下へ誘導し、隣の小さな部屋へ入った。
机が二つ。椅子が二つ。窓が一つ。
静かで、落ち着く。
先生は椅子に座って言った。
「ここなら、ゆっくり話せるね」
私は小さくうなずいた。
先生が、先に言葉を出してくれた。
「昨日、苦しかったでしょう」
胸がきゅっとなる。
でも先生の目は責めない。
聞く目だ。
私は短い言葉を探して、口を開いた。
「……囲まれるのが、怖いです」
声が少し震えた。
でも、言えた。
先生はすぐにうなずく。
「うん。怖いね」
その受け取り方が優しかった。
優しいと、次が言える。
私は続けた。
「……期待が、重いです」
重い。
それがいちばん近い言葉だった。
先生は机の上の紙を取り、筆を持った。
「じゃあ、“守り方”を整理しよう」
先生は紙に短い言葉を並べた。
『距離』
『順番』
『窓口』
それから先生は、その三つを指で示しながら説明した。
「距離は、近づきすぎないこと。囲まないこと」
指が『距離』を軽く叩く。
音が小さくて、でもはっきりしている。
「順番は、相談が重ならないようにすること。列を作るなら先生のところ」
「窓口は、“誰が受けるか”を決めること。困ったら先生。ここが一番大事」
私はその紙を見ながら、胸の奥が少しずつ整っていくのを感じた。
守り方が言葉になっている。
言葉になると形になる。
形になると怖さが小さくなる。
先生は紙にもう一つ書いた。
『見える形にする』
そして言った。
「約束は黒板でもいい。でも、もっと分かりやすくしてもいい」
私は昨日の案内カードを思い出した。
立てておくだけで、空気が変わった。
先生が言う。
「教室に置く“案内カード”を正式に作ろうか」
正式に。
それは今日だけじゃなく、これからずっと続く形。
先生は笑った。
「ルールは続けてこそ力になるからね」
私は小さくうなずいた。
「……はい」
その時、私はふと思った。
書いて置くだけじゃなくて、
声にして思い出す仕組みも必要かもしれない。
約束は見えるだけだと、慣れてしまう。
慣れると、忘れる。
私は迷ってから、短く言った。
「……読む係、作れますか」
先生が目を丸くする。
「読む係?」
私は言葉を増やさないように、ゆっくり続けた。
「……約束を、声にする人」
先生はすぐにうなずいた。
「それはいいね」
早い。
迷いがない。
そのうなずきだけで、胸が温かくなる。
「休み時間の始まりとか、集まりができそうな時に、短く読めばいい。先生がいない時にも役に立つ」
私は小さくうなずいた。
自分の困りごとが、教室の工夫になる。
それが少し不思議で、少し嬉しい。
先生は立ち上がった。
「じゃあ、教室で共有しよう」
私は背中が少し緊張した。
みんなの前はまだ怖い。
でも先生が前に立ってくれる。
私はそれだけで歩ける。
⸻
教室に戻ると、まだ数人が残っていた。
日直の子が黒板を消している。
セイラとミオも、荷物をまとめながら待っていた。
先生が教室の前に立った。
「少しだけ共有します。今日から教室の約束を“続ける形”にします」
残っていた子たちが先生を見る。
「相談は先生へ。囲まない。これは続けます」
先生は黒板の文字に丸をつけた。
「それに加えて、“読む係”を作ります」
その言葉で、教室の空気がぱっと動いた。
「読む係は、休み時間の始まりとか、集まりができそうな時に、短く約束を読む係です」
セイラがすぐ手を挙げた。
「やる!」
ミオも続ける。
「わたしも」
日直の子も控えめに手を挙げる。
「交代でもいいなら……」
先生が笑った。
「うん。交代でいい。数人いれば負担にならないから」
候補が増える。
手が上がるたび、教室の空気が軽くなる。
私はそれを見て、胸の奥が静かに変わるのを感じた。
困りごとが、工夫になっている。
私のためだけじゃなく、教室のための工夫になっている。
先生が私の方を見て言った。
「ルミシアさん、提案ありがとう。いい案だよ」
私は慌てて小さく首を振った。
「……いえ」
でも心の中では思った。
言ってよかった。
セイラが私を見て、にっと笑った。
「明日、読む係の練習しよう!」
私は少しだけ笑って、うなずいた。
「……うん」
⸻
門の外に父がいた。
私は父の隣に立つ。
父は私を見ると短く言った。
「話せたか」
私は小さくうなずいた。
「……話せた」
父はそれだけで分かったみたいに言う。
「十分だ」
短い言葉。
その短さが、今日の私にはちょうどいい。
⸻
夜。
机に紙を広げて、記録を書く。
『先生が約束を確認した。』
『囲まれるのが怖いと伝えた。』
『守り方を言葉にした。』
『読む係を作ることになった。』
最後に、今日いちばん大事なことを書く。
『言葉は、私を刺すものじゃなく、守る場所にもなる。』
書き終えると、胸の奥が少し明るかった。
私は灯りを落として、静かに目を閉じた。
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