第12話 押し付け:星の子の役目
休み時間になった瞬間、教室の空気が変わった。
授業の音が止まって、声が増える。
椅子が鳴って、紙がめくられて、足音が重なる。
みんなが動き出す。
その動きの中に、今日は“向き”があった。
私の方へ。
私は机の上を整えていた。
筆を揃えて、紙を重ねて、通い袋の口を結ぶ。
整えると落ち着く。
落ち着くと、余計なものに引っ張られない。
――そう思っていたのに、机の前に影が落ちた。
「ルミシア、ちょっといい?」
前の席の子が、小さな紙を持って立っていた。
「これ、先生に出すやつなんだけど……書き方、合ってる?」
私は紙を見た。
向きが少し違うだけ。直せる。
「……こっち」
指で示す。短く答える。
「ありがとう!」
その子はぱっと笑って戻っていった。
それだけなら、普通の休み時間だった。
でも次が来る。
次も来る。
「ルミシア、これ見て」
「ねえ、これ分かる?」
「お願い。あなたなら分かるでしょ」
“あなたなら分かるでしょ”。
言い方は軽い。
でも軽いほど、断りにくい。
私は胸の奥がじわっと重くなるのを感じた。
顔を上げると、机の前に二人。
横に一人。
少し後ろにも一人。
……列になりかけている。
私は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
声を出す前に、体のほうが固くなる。
「順番……」
言いかけて、止めた。
私が言うと、ただの“お願い”になる。
お願いは、押されると曲がる。
私は目の前の紙を見る。
「これは……」
「そのままでいい」
「先生に言う時は、短く」
ひとつずつ答える。
でもひとつ答えている間に、次が増える。
答えが追いつかない。
追いつかないと、焦る。
焦ると、声が増える。
「ちょっと待って」
「今見てる」
「次、誰?」
言葉が増える。
増えると、頭がぼんやりする。
その時、後ろから聞こえた。
「ねえ、ルミシアってさ。そういう役目なんじゃないの?」
役目。
その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
教室の音が一瞬、遠くなる。
「星の子なんだし」
「優しいし」
「助けてくれるの、当たり前じゃん」
当たり前。
当たり前の言葉は便利だ。
便利だから、人はすぐ使う。
でもその便利さは、誰かを縛る。
私は黙った。
黙ると誤解が固まる。
固まると、ほどくのが難しい。
分かっているのに、声が出ない。
出したら、泣きそうになる気がしたから。
机の上の紙が、少しだけぼやけた。
――困っている子を助けたい気持ちはある。
でも、ひとりで全部はできない。
できないのに、“役目”と言われると逃げ場がなくなる。
視線が集まる。
集まると、形になる。
囲みの形。
私は自分の机が急に小さくなったように感じた。
椅子の背もたれが遠い。
周りの声が壁になって、近づいてくる。
そのとき。
「はい、そこまで」
先生の声がした。
先生が教室に戻ってきていた。
手にチョークを持っている。
先生は私の机の前に集まった子たちを見て、落ち着いた声で言った。
「相談するのはいいこと。でも、相談には順番があります」
“順番”。
先生の口から出ると、教室の形が整う。
お願いじゃなくて、ルールになる。
「一人にまとめて押し寄せると、その子は困ります。困るのは当たり前です」
子どもたちが言い訳をしようと口を開きかけて、止まった。
先生の声は強くないのに、止まる。
先生は続ける。
「だから、列にするなら先生にします。困りごとは先生へ」
先生はそう言って、私の机の横に小さな厚紙を置いた。
手のひらサイズで、折り目がある。机に立てられる形。
「今日はこれを使います。案内カードです」
案内カード。
分かりやすい言葉。
分かりやすい言葉は、安心する。
先生は私を見て言った。
「ルミシアさん。書いていいよ。内容も自分で決めていい」
自分で決めていい。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
勝手に決められるのがつらい。
だから、“自分で決めていい”は救いになる。
私は筆を取った。
厚紙に、ゆっくり書く。
大きく。短く。読みやすく。
『相談は先生へ』
『囲まない』
書き終えた瞬間、胸の重さがすっと減った。
これは私のための言葉だ。
私が私を守るための道具だ。
先生はうなずき、黒板にも同じ言葉を書いた。
『相談は先生へ』
『囲まない』
黒板に書かれると、私のお願いじゃない。
教室の約束になる。
そのとき、セイラが手を挙げた。
「先生、その案内カード、立てる係やる!」
元気のある声。
でも今日は、浮ついていない。
ミオも続ける。
「列ができそうだったら、先生のところって言うの手伝う」
私は驚いて二人を見た。
二人は当たり前みたいに笑った。
先生が言う。
「ありがとう。セイラさんはカード係、ミオさんは案内係」
役目。
さっきの“役目”とは違う。
勝手に押しつけられる役目じゃない。
自分で引き受ける役目だ。
教室の形が変わっていく。
私の机の前にできかけていた列はほどけた。
子どもたちは先生の机へ向かう。
先生は「一人ずつね」と言って順番を作った。
私は机に戻り、案内カードをそっと立てた。
白い厚紙が立っただけで、見える景色が変わる。
“ここは相談窓口じゃない”。
目で分かる。
だから、声を増やさなくていい。
私はようやく、深く息を吸えた。
⸻
放課後。
教室の外が明るくて、人の声が多い時間。
私は通い袋を持ったまま、先生の机の前に立った。
先生はすぐに気づいて、声を落とした。
「ルミシアさん、どうした?」
私は言葉を探した。
今日のことを、そのまま飲み込んで帰ることもできた。
記録に書くだけでもいい。
でも胸の重さが残っていた。
残っているものは、置いていかないと眠れない。
私は小さく言った。
「……苦しいです」
たった一言。
でも、自分の口から出した。
先生は驚いた顔をしない。
ただ、ゆっくりうなずいた。
「うん。苦しかったね」
その言葉で、胸が少しほどけた。
先生が静かに言う。
「“役目だから”って言われた?」
私はうなずいた。
先生は、はっきり言った。
「役目は、勝手に決められないよ」
その一言が、私の胸の奥にまっすぐ落ちた。
落ちた言葉は、そこで支えになった。
「助けたい気持ちはすてき。でも、助け方は一つじゃない」
先生は案内カードを指で軽く叩いた。
「先生に渡すことも助けること。順番を作ることも助けること。ルミシアさんが全部背負う必要はない」
全部背負う必要はない。
私はその言葉で、やっと息が戻った気がした。
先生が最後に言う。
「つらい時は、言っていい。順番を作るのは大人の仕事だから」
私は小さくうなずいた。
「……はい」
⸻
門の外に父がいた。
父は私を見ると、短く言った。
「遅かったな」
私は歩きながら答えた。
「……先生と話した」
父はうなずく。
「そうか」
少しだけ間があって、父が言った。
「言えたか」
私は驚いて父を見た。
父の目はいつも通り静かで、でも私を見ている。
私は小さくうなずいた。
「……言えた」
父はそれだけで分かったみたいに言った。
「十分だ」
短い言葉。
でも、その短さが私を守る。
⸻
夜。
机に紙を広げて、今日の記録を書く。
『休み時間に相談が列になった。』
『胸が重くなった。』
『先生が順番を作ってくれた。』
『案内カードを作った。』
最後に、今日いちばん大事なことを書く。
『役目は、誰かに押し付けられるものじゃない。』
書き終えたとき、胸の奥の重さが少し減っていた。
私は灯りを落として、ゆっくり目を閉じた。
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