第10話 秘密の願い:星の紙切れ
朝の教室は、音が多い。
椅子を引く音。通い袋の布がこすれる音。
紙がめくれる音。小さな笑い声。
みんなが動いているのに、先生はまだ来ていない。
この時間は少しだけ自由で、少しだけ危ない。
自由は、気持ちを軽くする。
でも軽くなると、勢いで踏み込みやすくなる。
私は席に着き、机の上を整えた。
筆を置いて、紙をまっすぐにして、通い袋を足元に寄せる。
整えると落ち着く。
落ち着くと、余計なことをしなくて済む。
そう思っていたのに、机の下に何かが見えた。
床に落ちている、小さな紙切れ。
白い紙。
……星の形をしていた。
五つの尖り。
指先くらいの大きさ。
私はしばらく、それを見つめた。
星はかわいい。かわいいものは、人の目を集める。
集まると、見物になる。
見物は、本人がいないときほど危ない。
私はそっと手を伸ばして、星を拾った。
紙は軽い。
軽いのに、胸の奥が少しだけ重くなる。
表に、薄い鉛筆の字があった。
『ほんとうに ともだちが ほしい』
一行だけ。
名前はない。
読んだ瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
――これは、落とした人が困る。
困るだけじゃない。
恥ずかしくて、顔が熱くなって、泣きたくなる。
私は星を握りつぶしそうになって、すぐ力を抜いた。
くしゃっとなったら戻らない。
願い事は、壊れやすい。
私は周りを見た。
今なら誰も気づいていない。
このまま先生に渡せばいい。
そう思った時、背中から声がした。
「ねえ、それ何?」
セイラだった。
覗き込もうとする勢いがある。
私は反射で星を引いた。
「……紙」
短く答える。
短い言葉は、余計な穴を開けない。
「紙って、星じゃん。かわいい」
セイラの目がきらっとする。
その視線につられて、ミオもこちらを見る。
さらに、その視線を見た別の子が近づく。
「なになに?」
「何書いてあるの?」
視線が集まりかける。
集まりかけると、輪ができる。
私はすぐ星を裏返した。
文字が見えないように。
「落ちてた。先生に渡す」
それだけ言った。
「えー、見たい」
セイラが言いかける。
周りの子も「見せてよ」と口を開きかける。
私は星を胸の前で持ち直した。
「見ない」
短く。
でも、はっきり。
セイラが口をすぼめた。
「だってさ、誰のか分かんないし……」
私は言葉を選んだ。
強く言うと押してしまう。
弱いと止まらない。
「落とした人が困る」
それだけ。
“困る”は、みんなが分かる言葉だ。
分かる言葉は、人を止めやすい。
ミオが小さくうなずいた。
「それは……困るね」
輪になりかけた視線が、少しだけゆるむ。
私は席を立って、教室の入口の近くへ移動した。
先生が入ってきたら、すぐ渡せる位置。
星を裏返したまま、両手でそっと挟む。
落としたくない。
見せたくない。
背中で小声が続く。
「絶対、願い事じゃない?」
「星だし」
願い事。
私は心の中で、もう一度だけ読んだ。
『ほんとうに ともだちが ほしい』
誰にも聞かれないように。
誰にも触られないように。
願い事は、声にすると壊れる時がある。
見られると隠したくなる時がある。
守るべき願い事もある。
私は、それを知っている気がした。
⸻
先生が教室に入ってきた。
「おはようございます」
先生の声で、みんなが席へ戻る。
ざわざわが引いて、机の上が整う。
私は先生の机の前へ行き、星を差し出した。
「先生。落ちてました」
先生は星を受け取った。
表を見ない。裏のまま。
その受け取り方だけで、胸が少し軽くなる。
「ありがとう。よく気づいたね」
先生は星を机の引き出しの上に置いた。
置き方が丁寧だった。
乱暴じゃない。
それから先生は黒板の前へ立ち、チョークを持った。
「今日は、約束をひとつ増やします」
先生は短い言葉を書いた。
『勝手に読まない』
教室が静かになる。
「落とし物は、持ち主のものです。拾っても勝手に中身を見ない。からかわない」
先生の声は普通なのに、よく通った。
普通の言葉は、守りになる。
「気になる気持ちは分かる。でもね、気になる気持ちより大事なものがある」
先生は少し間を置いた。
「誰かの恥ずかしさを守ること」
誰かの恥ずかしさ。
私はその言葉を胸の中に置いた。
分かりやすい言葉は、支えになる。
セイラが小さく手を挙げた。
「先生、落とした人が泣きそうだったら?」
先生は少し笑って言った。
「探してたら、そっと返す。大勢で渡さない。見せない。『あったよ』だけでいい」
“だけでいい”。
その一言が、教室の空気を少し柔らかくした。
私は席に戻りながら思った。
今日は守れる。
先生が一緒に守ってくれる。
⸻
放課後。
帰り支度の時間。
教室がまた自由になって、人の声が増える。
その中で、ひとりだけ静かな子がいた。
教室の隅。
小さな子が、床を見ている。
机の下を覗いて、また床を見る。
手のひらを握っては開いて、落ち着かない。
目がうるうるしている。
泣きそうな顔。
星を探している。
私は立ち上がりかけて、すぐ止まった。
ここで声をかけたら、目立つ。
目立ったら、視線が集まる。
集まったら、守れない。
私は先生の机へ行き、小さな声で言った。
「先生……たぶん、落とした人……」
先生は私の視線の先を見て、すぐにうなずいた。
「ありがとう。静かに返そう」
先生は引き出しから星を取り出し、白い封筒に入れた。
封筒に入れると文字が見えない。
見えないと守れる。
先生はその封筒を私に渡した。
「お願いできる? あの子が一人になった時に、そっと渡してあげて」
私は驚いた。
でも先生の目は落ち着いていた。
“できるよ”という目。
私は小さくうなずいた。
「……はい」
封筒は軽い。
でも中にあるものは重い。
誰かの願い事。
見せたくない願い事。
私はそれを落とさないように、胸の前に持ったまま廊下へ出た。
⸻
廊下は人が多い。
声が跳ねて、足音が重なる。
そこで渡したら見られる。
見られたら、願い事が傷つく。
私は少し遅れて歩いた。
距離を取りながら、持ち主の子の後を追う。
校舎の外。
門へ向かう途中。
物置の影に、少しだけ人の通らない場所がある。
持ち主の子はそこで立ち止まって、顔を伏せた。
肩が小さく震えている。
今だ。
私は足音を小さくして近づいた。
「……これ」
声も小さく。
封筒を差し出す。
持ち主の子が顔を上げた。
涙が落ちそうな目。
「……え?」
私は短く言った。
「落ちてた。先生に渡した。返す」
余計な説明はしない。
説明が増えると恥ずかしさも増えるから。
持ち主の子は封筒を受け取った。
指が少し震えている。
その子は封筒を胸に抱えた。
抱えると、守っている感じがした。
私は短く言った。
「……大丈夫」
大丈夫。
その一言は、私もよく欲しくなる言葉だ。
だから、今はこれが一番いい。
持ち主の子は、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
小さい声。
でも、ちゃんと届く声。
私はうなずいた。
「……うん」
それで終わり。
それが一番、やさしい終わり方。
持ち主の子は封筒を抱えたまま、急ぎ足で門へ向かった。
背中が少し軽く見えた。
私はその背中を見送って、胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰にも見せない優しさ。
誰にも見せない守り方。
それでも、ちゃんと届く。
⸻
帰り道。
門の外に父がいた。
父は私を見ると、短く言った。
「遅かったな」
責める声じゃない。確認の声。
私は短く答えた。
「……少し、用事」
父はうなずいた。
「そうか」
理由を聞かない。
必要なことだけ受け取る。
私はその隣を歩きながら、今日のことを胸の中でまとめた。
大きなことはしていない。
声も大きく出していない。
誰にも見せていない。
でも、守れた。
それだけで、町は少し良くなる気がした。
⸻
夜。
机の上に紙を広げて、記録を書く。
『星の形の紙切れを拾った。』
『願い事が書いてあった。名前はなかった。』
『勝手に読まない、という約束が増えた。』
最後に、今日いちばん大事なことを書く。
『誰にも見せない優しさも、町を良くする。』
書き終えると、胸の奥が静かになった。
明日も、守れる人でいたい。
私はそう思って、灯りを落とした。
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