第6話 湯気の朝は、帰り道
朝のことを思い出すと、最初に浮かぶのは光じゃなく匂いだ。
湯が沸く匂い。
濡れた布が温まる匂い。
火鉢の炭が、赤く小さく息をする匂い。
幼い頃の私は、朝が好きだった。
好きだった、というより――朝は「戻れる」と決まっていた。
夜は少しだけ遠くて、広い家は暗さを抱えやすい。
けれど朝は、父が必ず世界をこちらへ引き寄せてくれる。
音を増やして、匂いを増やして、温度を増やして。
それだけで胸の奥のざわつきは、薄い布みたいに落ち着いていった。
父は朝を作るのが上手だった。
剣を振るう英雄だからじゃない。
英雄なんて、朝にはいらない。
朝に必要なのは、湯気と、手のひらと、短い言葉だけ。
◇
その日の朝も、私は先に目を覚ました。
天井がある。
星が直接見えない。それだけで安心する。
けれど天井は高い。広い家の天井は余白を持っていて、余白は夜の名残を溜めやすい。
私は動かず、まず匂いを探した。
――湯気の匂いは、まだない。
代わりに遠くで木がきしむ音がした。
廊下のどこかで風が戸を押したのだろう。
鋭い音じゃない。
それでも胸の奥が少しだけ縮む。
私は布を掴んだ。
端は昨夜のまま整えられている。布が整っていると、世界も整っている気がした。
そのとき足音がした。
父の足音。静かで、迷わない。
扉が少しだけ開く。
光が差し込むほどではない。ただ空気が動く。
父は私を見る。
見るだけで、そこにいることを確かめてくれる。
「……起きているのか」
低い声。短い声。問いかける声。
私は瞬きをした。
それが返事になることを、父は知っている。
父は一度だけ頷いた。
「よし」
その「よし」は、朝の合図だった。
湯気がなくても、父の「よし」があると世界が始まる。
父は私を抱き上げる。
抱き上げる前に必ず一拍置く。
私はその一拍が好きだった。
「これから動くよ」と体に教えてくれるから。
父の胸の温度は、眠りの残りを溶かす。
外套はいつも同じ匂いがした。布と火と風の匂い。
父は私を抱いたまま台所へ向かった。
台所は、家の中で一番「生活の匂い」が強い場所だ。
土鍋、椀、木の匙、乾いた薬草が、静かに並んでいる。
父は私を椅子に座らせた。
椅子の上には布が敷かれ、硬さが直接伝わらない。
「座れ」とは言わない。
落ちない形を、先に作る。
そして火を起こした。
火打ち石が小さく鳴り、火が生まれる。
火が生まれると空気の匂いが変わり、冷たさが少しだけ後ろへ退く。
父は鍋に水を張り、火にかけた。
水が熱を持つまで、急がない。
急がない朝は、私の胸の奥を落ち着かせる。
父はその間に、私の髪を結んだ。
夜の色の髪を手のひらで集め、後ろで結ぶ。
結び目は相変わらず不格好で、左右が少し違う。
でも私はその不格好が好きだった。父の手がここにある証拠だから。
父は結び終えると、私の額に指を当てた。
熱を確かめる、いつもの動き。
「……今日は、冷える」
父が窓の方を見る。
天気のことか、空気のことか分からない。けれど声が落ち着いていると、冷えも怖くなくなる。
鍋の底で小さな泡が弾け始める。
その音は、朝の始まりに似ている。
父は椀に少し湯を注いだ。
湯気が立つ。
その瞬間、胸の奥がふわりと緩んだ。
湯気。
白いのに、冷たくないもの。
湯気は目に見える温度だ。
触れられないのに、そこにある。
そこにあるだけで、怖いものを薄めてくれる。
父は湯気の向こうで、少しだけ目を伏せた。
湯気は父の顔を柔らかくする。
父は椀を置き、私へ言った。
「……見ていろ」
命令じゃない。
「一緒に朝を作る」ための言葉だった。
父は鍋に米を入れ、ゆっくりかき混ぜる。
湯気が増え、部屋が「今日」の匂いで満ちていく。
私は息を吸う。
深く吸える。
深く吸えると、胸の奥に空間ができる。
空間ができると、怖いものは居座れない。
父は匙で確かめ、火加減を調整した。
強すぎず、弱すぎず。
少し味を見て、眉をわずかに寄せる。
「……濃い」
独り言みたいな一言。
失敗を隠さない一言。
父は当たり前みたいに水を足した。
直すことを恥だと思わない世界。
その世界の中なら、私は失敗しても壊れない。
◇
そのとき、外で音がした。
金属がぶつかる乾いた音。
短い笑い声。
都の朝が始まっただけ。普通のこと。
それでも私は一瞬で体が固くなる。
音が増えると、視線が増える気がする。
視線が増えると、物語が増える気がする。
私は椅子の端を握った。指先が白くなる。
父はすぐ気づいた。
父は音を立てずに近づき、私の手を上から包んだ。
ほどくためじゃない。白くなる指先に温度を足すための手。
父は窓の布を一瞬見た。
隙間はない。揺れてもいない。
確認を終えると、短く言う。
「……ここは、家だ」
家。
その言葉が空気に置かれると、強い。
父は続けた。
「……外は外。今は、湯だ」
今は湯だ。
たったそれだけで、私は湯気に戻れた。
父の言葉は世界を大きくしない。
だから胸が潰れない。
父は鍋の蓋を少しずらし、湯気の逃げ道を作った。
逃げ道があると、部屋は苦しくならない。
父は粥を椀によそい、少し冷ましてから私の前に置いた。
そして匙で少しすくい、息を吹きかける。
ふっ、と小さな音。
私はその音が好きだった。
その瞬間の父は、英雄の世界じゃない。
生活の世界にいる。
「……熱いぞ」
父がそう言って、私の口元へ匙を運ぶ。
私は口を開いた。
温かいものが内側に入ると、体の中にも朝ができる。
私はそのことを、初めて知った。
父が頷く。
「よし」
食べた「よし」。
生きている「よし」。今日が続く「よし」。
父は布で私の口元を拭いた。
乱暴に拭かない。
汚れを取るんじゃない。
不快を取る拭き方。
それが終わると、また息ができた。
◇
食事の後、父は椀を片づけた。
布を敷いて、音が尖らないようにする。
父は私を抱き上げ、窓の布を少しだけめくった。
見せすぎない。少しだけ。
空は白い。雲が薄く流れている。
父はすぐ布を戻し、私の髪の結び目に指を当てた。
緩んでいないか確かめる。結び目は、今日の輪郭だ。
父が低く言った。
「……湯気の朝は、いい」
いい。
その一言が、私の中で丸くなる。
外でまた声が跳ねた。
私は一瞬だけ固くなる。
父は抱いたまま台所の奥へ一歩移動した。
窓から少し離れる。外の音が薄くなる位置へ。
大げさに言わない。
「怖がるな」とも「気にするな」とも言わない。
代わりに、現実を動かす。
父はもう一度湯を沸かし直し、湯気を立てた。
湯気がまた、世界を柔らかくする。
父が私の耳元で言う。
「……ほら」
それだけで、私は戻れた。
私は湯気を見て息を吸った。
深く吸える。外の声はただの声になる。物語の入口にならない。
父が短く言う。
「よし」
朝の最後の「よし」。
その「よし」で、私は一日を受け取る。
◇
後になって思う。
父は湯気をただの料理の副産物だとは思っていなかったのだろう。
湯気は温度の形。
温度は心の支え。
支えがあると、怖さは小さくできる。
父は剣を抜かない。
怖さは切れないと知っているからだ。
布を掛ける。結び目を作る。湯を沸かす。
湯気を立て、息を吹きかけ、短く「よし」と言う。
それだけで、私の世界は今日を続けられた。
朝が来るから安心だったんじゃない。
父が朝を作ってくれるから、安心できたのだ。
湯気は消える。
消えても温度は残る。
今でも朝に湯気を見ると、胸の奥が少しだけ緩む。
――戻れる、と。
湯気のある朝は、私の帰り道だ。
名で呼ばれるのと同じくらい、確かな帰り道。
そして私は知っている。
父は今日もきっと、どこかで湯を沸かしている。
物語のためじゃない。
ただ、今日を続けるために。
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