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第6話 湯気の朝は、帰り道

朝のことを思い出すと、最初に浮かぶのは光じゃなく匂いだ。


湯が沸く匂い。

濡れた布が温まる匂い。

火鉢の炭が、赤く小さく息をする匂い。


幼い頃の私は、朝が好きだった。


好きだった、というより――朝は「戻れる」と決まっていた。


夜は少しだけ遠くて、広い家は暗さを抱えやすい。

けれど朝は、父が必ず世界をこちらへ引き寄せてくれる。


音を増やして、匂いを増やして、温度を増やして。

それだけで胸の奥のざわつきは、薄い布みたいに落ち着いていった。


父は朝を作るのが上手だった。

剣を振るう英雄だからじゃない。


英雄なんて、朝にはいらない。


朝に必要なのは、湯気と、手のひらと、短い言葉だけ。



その日の朝も、私は先に目を覚ました。


天井がある。

星が直接見えない。それだけで安心する。


けれど天井は高い。広い家の天井は余白を持っていて、余白は夜の名残を溜めやすい。


私は動かず、まず匂いを探した。


――湯気の匂いは、まだない。


代わりに遠くで木がきしむ音がした。

廊下のどこかで風が戸を押したのだろう。


鋭い音じゃない。

それでも胸の奥が少しだけ縮む。


私は布を掴んだ。

端は昨夜のまま整えられている。布が整っていると、世界も整っている気がした。


そのとき足音がした。


父の足音。静かで、迷わない。


扉が少しだけ開く。

光が差し込むほどではない。ただ空気が動く。


父は私を見る。

見るだけで、そこにいることを確かめてくれる。


「……起きているのか」


低い声。短い声。問いかける声。


私は瞬きをした。

それが返事になることを、父は知っている。


父は一度だけ頷いた。


「よし」


その「よし」は、朝の合図だった。

湯気がなくても、父の「よし」があると世界が始まる。


父は私を抱き上げる。

抱き上げる前に必ず一拍置く。


私はその一拍が好きだった。

「これから動くよ」と体に教えてくれるから。


父の胸の温度は、眠りの残りを溶かす。

外套はいつも同じ匂いがした。布と火と風の匂い。


父は私を抱いたまま台所へ向かった。


台所は、家の中で一番「生活の匂い」が強い場所だ。

土鍋、椀、木の匙、乾いた薬草が、静かに並んでいる。


父は私を椅子に座らせた。

椅子の上には布が敷かれ、硬さが直接伝わらない。


「座れ」とは言わない。

落ちない形を、先に作る。


そして火を起こした。


火打ち石が小さく鳴り、火が生まれる。

火が生まれると空気の匂いが変わり、冷たさが少しだけ後ろへ退く。


父は鍋に水を張り、火にかけた。

水が熱を持つまで、急がない。


急がない朝は、私の胸の奥を落ち着かせる。


父はその間に、私の髪を結んだ。

夜の色の髪を手のひらで集め、後ろで結ぶ。


結び目は相変わらず不格好で、左右が少し違う。

でも私はその不格好が好きだった。父の手がここにある証拠だから。


父は結び終えると、私の額に指を当てた。

熱を確かめる、いつもの動き。


「……今日は、冷える」


父が窓の方を見る。

天気のことか、空気のことか分からない。けれど声が落ち着いていると、冷えも怖くなくなる。


鍋の底で小さな泡が弾け始める。

その音は、朝の始まりに似ている。


父は椀に少し湯を注いだ。

湯気が立つ。


その瞬間、胸の奥がふわりと緩んだ。


湯気。

白いのに、冷たくないもの。


湯気は目に見える温度だ。

触れられないのに、そこにある。


そこにあるだけで、怖いものを薄めてくれる。


父は湯気の向こうで、少しだけ目を伏せた。

湯気は父の顔を柔らかくする。


父は椀を置き、私へ言った。


「……見ていろ」


命令じゃない。

「一緒に朝を作る」ための言葉だった。


父は鍋に米を入れ、ゆっくりかき混ぜる。

湯気が増え、部屋が「今日」の匂いで満ちていく。


私は息を吸う。

深く吸える。


深く吸えると、胸の奥に空間ができる。

空間ができると、怖いものは居座れない。


父は匙で確かめ、火加減を調整した。

強すぎず、弱すぎず。


少し味を見て、眉をわずかに寄せる。


「……濃い」


独り言みたいな一言。

失敗を隠さない一言。


父は当たり前みたいに水を足した。

直すことを恥だと思わない世界。


その世界の中なら、私は失敗しても壊れない。



そのとき、外で音がした。


金属がぶつかる乾いた音。

短い笑い声。


都の朝が始まっただけ。普通のこと。

それでも私は一瞬で体が固くなる。


音が増えると、視線が増える気がする。

視線が増えると、物語が増える気がする。


私は椅子の端を握った。指先が白くなる。


父はすぐ気づいた。


父は音を立てずに近づき、私の手を上から包んだ。

ほどくためじゃない。白くなる指先に温度を足すための手。


父は窓の布を一瞬見た。

隙間はない。揺れてもいない。


確認を終えると、短く言う。


「……ここは、家だ」


家。


その言葉が空気に置かれると、強い。


父は続けた。


「……外は外。今は、湯だ」


今は湯だ。

たったそれだけで、私は湯気に戻れた。


父の言葉は世界を大きくしない。

だから胸が潰れない。


父は鍋の蓋を少しずらし、湯気の逃げ道を作った。

逃げ道があると、部屋は苦しくならない。


父は粥を椀によそい、少し冷ましてから私の前に置いた。

そして匙で少しすくい、息を吹きかける。


ふっ、と小さな音。

私はその音が好きだった。


その瞬間の父は、英雄の世界じゃない。

生活の世界にいる。


「……熱いぞ」


父がそう言って、私の口元へ匙を運ぶ。

私は口を開いた。


温かいものが内側に入ると、体の中にも朝ができる。

私はそのことを、初めて知った。


父が頷く。


「よし」


食べた「よし」。

生きている「よし」。今日が続く「よし」。


父は布で私の口元を拭いた。

乱暴に拭かない。


汚れを取るんじゃない。

不快を取る拭き方。


それが終わると、また息ができた。



食事の後、父は椀を片づけた。

布を敷いて、音が尖らないようにする。


父は私を抱き上げ、窓の布を少しだけめくった。

見せすぎない。少しだけ。


空は白い。雲が薄く流れている。


父はすぐ布を戻し、私の髪の結び目に指を当てた。

緩んでいないか確かめる。結び目は、今日の輪郭だ。


父が低く言った。


「……湯気の朝は、いい」


いい。


その一言が、私の中で丸くなる。


外でまた声が跳ねた。

私は一瞬だけ固くなる。


父は抱いたまま台所の奥へ一歩移動した。

窓から少し離れる。外の音が薄くなる位置へ。


大げさに言わない。

「怖がるな」とも「気にするな」とも言わない。


代わりに、現実を動かす。


父はもう一度湯を沸かし直し、湯気を立てた。

湯気がまた、世界を柔らかくする。


父が私の耳元で言う。


「……ほら」


それだけで、私は戻れた。


私は湯気を見て息を吸った。

深く吸える。外の声はただの声になる。物語の入口にならない。


父が短く言う。


「よし」


朝の最後の「よし」。

その「よし」で、私は一日を受け取る。



後になって思う。


父は湯気をただの料理の副産物だとは思っていなかったのだろう。


湯気は温度の形。

温度は心の支え。


支えがあると、怖さは小さくできる。


父は剣を抜かない。

怖さは切れないと知っているからだ。


布を掛ける。結び目を作る。湯を沸かす。

湯気を立て、息を吹きかけ、短く「よし」と言う。


それだけで、私の世界は今日を続けられた。


朝が来るから安心だったんじゃない。

父が朝を作ってくれるから、安心できたのだ。


湯気は消える。

消えても温度は残る。


今でも朝に湯気を見ると、胸の奥が少しだけ緩む。


――戻れる、と。


湯気のある朝は、私の帰り道だ。

名で呼ばれるのと同じくらい、確かな帰り道。


そして私は知っている。


父は今日もきっと、どこかで湯を沸かしている。

物語のためじゃない。


ただ、今日を続けるために。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


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