第9話 すれ違い:謝る順番
朝の教室は、いつもより静かだった。
正確に言うと、音はある。
椅子が鳴る。紙がこすれる。誰かが笑う。
でも、その音が全部、少し遠い。
私の周りだけ、薄い膜が張っているみたいに。
私は席に座り、机の上に筆を置いた。
筆先を整える。整えると、気持ちが落ち着く。
……落ち着くはずだった。
セイラが私の横を通った。
いつもなら「おはよう」と言ってくれる。
なのに今日は、目が合っても、言葉がない。
そのまま通り過ぎた。
胸の奥が小さく冷える。
冷えると、息が浅くなる。
ミオも同じだった。
こちらを見て、何か言いかけて、言わずに戻る。
私は指先を机の端に置いた。
触れていると、体がここにいると分かる。
そのとき、前の席の方から小声が聞こえた。
「……返してないんだって」
返してない。
私は動けなかった。
聞き間違いだと思いたかった。
でも、次の声がはっきり続いた。
「貸した筆だよね?」
「そう。あの日の」
「何も言わないの、冷たいよね」
冷たい。
その言葉が胸に刺さる。
痛いのに、声が出ない。
借りた筆――。
頭の中で、数日前の朝が浮かんだ。
筆記具を忘れて、紙の前で動けなくなった私。
隣の子が黙って差し出してくれた筆。
私はその日の休み時間に、ちゃんと返した。
返したはずだ。
でも、今は「返してない」という話になっている。
私は立ち上がりかけた。
「返したよ」
その一言を言えばいい。
そう分かっているのに、喉が動かない。
セイラが振り向いた。
目が合う。
怒っている目だった。
怒りの目を見た瞬間、言葉が引っ込む。
心が小さく縮む。
私は立ち上がれなかった。
黙ったまま座っていると、誤解が形になる。
形になると、固くなる。
固くなると、ほどけなくなる。
分かっているのに、動けない。
⸻
授業が始まった。
先生の声。チョークの音。紙に筆が走る音。
いつもと同じ流れなのに、今日だけ違う。
私の筆が重い。
文字を書いているのに、胸の中がざわつく。
セイラは一度もこちらを見ない。
ミオも、いつもより遠い。
私は紙に文字を書きながら、何度も言葉を作った。
「返した」
「勘違いだよ」
「違うよ」
でも、どれも硬い。
硬い言葉は、相手を押す。
押すと、押し返される。
押し返されると、もっと怖い。
だから黙る。
……黙ると、周りが勝手に決める。
「冷たい」
「ずるい」
「謝らないんだ」
聞こえてしまう。
聞こえると、胸が痛む。
先生が一度、私の方を見た。
紙を見るふりをしながら、セイラの方も見ている。
先生の目が少しだけ細くなる。
気づいた顔だった。
⸻
休み時間。
いつもなら、セイラが一番に話しかけてくる。
今日は違う。
セイラは友だちの輪の中にいて、私を見ない。
輪の中から小声が出る。
「あの子、冷たいよね」
「言わないの、ずるい」
「返してないのに」
私は机の端を押さえた。
指先に力が入る。
力が入ると、心が逃げる場所ができる。
そのとき、先生が教室の前に立った。
「ルミシアさん。セイラさん。ちょっと来て」
声は普通。
でも、逃げられない呼び方だった。
教室の視線が集まる。
集まると、また体が固まりそうになる。
先生が先に歩き出した。
私はその後をついていく。
セイラも少し遅れてついてきた。
⸻
先生は廊下の端、窓のそばで止まった。
人の流れから外れた場所。
声が重ならない場所。
先生は私たちを交互に見て、落ち着いた声で言った。
「勘違いが起きているみたいだね」
勘違い。
その言葉だけで、少し息ができた。
怒られる場所じゃない。
整理する場所だ。
先生はセイラに聞いた。
「セイラさん、何が気になったの?」
セイラは唇を噛んで、視線を下に落とした。
「……筆。貸した筆。返ってないって思って……」
“思って”。
確定じゃない。
でも、気持ちは確かだった。
先生はうなずいて、私を見る。
「ルミシアさんは?」
私は口を開いた。
でも、声が細い。
「……返した」
それだけ言えた。
先生はすぐ続けた。
「いつ?」
「……休み時間。席で」
先生はうなずいて、近くにいた子を二人呼んだ。
ミオもいた。
ミオは少し緊張した顔で、でもはっきり言った。
「見ました。返してました」
もう一人の子も言う。
「受け取ってたよ。セイラ」
セイラの肩が小さく揺れた。
先生が静かにまとめる。
「事実はこう。筆は返していた。見た人もいる」
そして、先生はもう一歩だけ言った。
「セイラさんは返ってないと思った。ルミシアさんは言えなかった。だからすれ違った」
責める言葉じゃない。
ただの説明。
説明は、刺さらない。
先生は私を見て言った。
「ルミシアさん。言えなかったのは、怖かったから?」
私は小さくうなずいた。
「……はい」
先生はセイラを見た。
「セイラさん。怒ったのは、筆が大事だったから? それとも……」
セイラは少し黙って、ぽつりと言った。
「……冷たいって思った」
冷たい。
その言葉は痛い。
でも今は、痛いだけじゃない。
やっと“中身”が出た気がした。
先生が言った。
「じゃあ、言葉を一つずつ出そう。短くでいい」
先生が私を見た。
「ルミシアさんから、言える?」
私は迷った。
本当なら、先に謝るのはセイラのほうかもしれない。
でも、セイラの顔は赤くて、動けなくなっている。
“ごめん”が出ない顔だった。
私は思った。
正しい順番と、うまくいく順番は違う。
息を吸って、短い言葉を選ぶ。
相手を押さない。
でも隠さない。
「……嫌だった」
セイラが少し顔を上げた。
私は続けた。
「……冷たいって言われるの、嫌だった」
胸が少し痛い。
でも、言わない痛みより軽い。
先生が小さくうなずく。
「うん。嫌だった。大事な言葉だね」
私はここで終わらせない。
終わらせると、ただ刺すだけになる。
私は短く、柔らかい方へつなぐ。
「……でも、話してくれてよかった」
声が少し震えた。
それでも言えた。
セイラは唇を動かして、やっと言った。
「……ごめん」
小さな声。
でも、ちゃんと届く声。
私はうなずく。
「……うん」
先生が少し笑った。
「よし。二人とも、よく言えた」
先生は最後に言った。
「仲直りのための小さい行動を一つ。大きいことは要らない」
セイラが迷ってから言う。
「……片づけ、一緒にやる?」
片づけ。
作業は会話の代わりになる。
それを私は知っている。
「……やる」
私は短く答えた。
セイラが少しだけ笑った。
⸻
教室に戻ると、視線が少しだけ柔らかくなっていた。
「返してたんだって」
「勘違いだったんだ」
その小声は聞こえた。
でも胸は痛まなかった。
私は言葉を出した。
先生が整理した。
だから、もう固まらない。
⸻
放課後。
机をそろえて、紙を集めて、ほうきを動かす。
セイラと私は黒板の近くを片づけた。
話さなくても、一緒に動ける。
それだけで、少し戻れる。
セイラがぽつりと言った。
「怒ってたの、筆だけじゃなかったかも」
私は紙くずを袋に入れながら答えた。
「……うん」
「言えばすぐ返してくれると思ってた」
その言い方は、少しだけ甘えだった。
でも、悪い甘えじゃない。
私は手を止めずに言った。
「……言えなかった。怖かった」
セイラが小さくうなずく。
「ごめん」
「……うん」
ミオがほうきを持ったまま近づいてきて、少し笑った。
「片づけ、早いね」
セイラが照れたように言う。
「一緒にやってるから」
私は小さくうなずいた。
それで十分だった。
⸻
帰り道。
門の外に父がいた。
私は父の隣に立つ。
父は私の顔を一度見て、短く言った。
「何かあったか」
私は迷って、でも今日の大事なところだけ言った。
「……すれ違った。話した。謝った」
父はうなずいた。
「そうか」
短い。
でも、それは「よくやった」に近い。
私は歩きながら思う。
筆は返していた。私は正しかった。
でも、順番を変えた。
先に「嫌だった」と言った。
先に「話してくれてよかった」と言った。
その順番が、相手の「ごめん」を出した。
正しさより、順番が大事な時がある。
謝る順番は、ただの礼儀じゃない。
心の扉を開ける順番でもある。
⸻
夜。
机の上に紙を広げて、今日の記録を書く。
『筆を返していないと勘違いされた。』
『黙ると、誤解が固くなる。』
『短い言葉で、ほどけた。』
最後に、今日いちばん大事なことを書く。
『謝る順番は、正しさより大事な時がある。』
書き終えたとき、胸の奥が静かになった。
明日もきっと、歩ける。
そう思って、私は灯りを落とした。
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