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第8話 迎え波紋:父の背中

 授業の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間、教室が一斉に動き出した。


 椅子が鳴る。通い袋が揺れる。

 紙がぱらっと落ちて、誰かが笑う。


 私は通い袋の口を結んで、結び目を指で確かめた。

 確かめると落ち着く。落ち着いたまま、今日も帰れますように。


 そう思ったのに、先生が教室の入口に立った。


「ルミシアさん。今日、迎えが来てるよ」


 迎え。


 その言葉だけで胸の奥が跳ねる。

 父はいつも門の外で待っている。教室まで来ることはない。


 私は立ち上がった。

 視線が少し集まるのが分かる。


 先生は余計なことを言わず、静かに手を振った。


「廊下にいる。落ち着いて行こう」


「……はい」


 短く返して、私は教室を出た。



 廊下は、いつもよりざわついていた。


 放課後の廊下は子どもたちが流れる場所だ。

 笑い声と足音が重なって、壁に跳ね返る。


 その流れの中に、ひとつだけ“動かないもの”があった。


 廊下の先。壁際。

 まっすぐ立っている人。


 父だった。


 派手な服じゃない。声も出していない。

 なのに、そこだけ目が向く。


 父は目立つ。

 どうしても目立ってしまう。


「……あれ」


 誰かの小声が、すぐ次の小声を呼ぶ。


「勇者?」

「ほんとに?」

「学校まで迎えに来るの?」


 囁きが広がる。視線が集まる。

 集まると、胸がきゅっとなる。


 私は足が止まりそうになった。


 恥ずかしい。

 怖い。


 その二つが一緒に来ると、体が固まりそうになる。


 父に来てほしくなかったわけじゃない。

 来てくれたら安心する。

 でも、見られる。


 父も見られる。

 私も見られる。


 その視線が増えていく気配に、喉が乾いた。


「大丈夫だよ」


 先生が私の後ろから、短く言った。

 背中に手は置かない。ただ、そこにいる。

 それだけで、私は少しだけ動けた。


 父がこちらに気づいて、目が合う。

 父の目はいつも通り落ち着いていた。


 父は一歩だけ前に出て、先生へ頭を下げた。


「迎えに来た」


 それだけ。

 余計な説明も、余計な言い訳もない。


 先生も頭を下げ返す。


「ありがとうございます。今日は廊下が混みますから、ここでお待ちだったんですね」


 父はうなずいた。


「邪魔になる」


 短い言葉。

 でも、“目立ちたくない”気持ちが伝わる。


 その瞬間、子どもたちの中から一人が近づこうとした。


「ねえ、ほんとに勇者――」


 足が前に出た。

 一人が出ると、次が続く。

 続くと、囲みになる。


 先生がすぐ前へ出て、手を上げた。


「距離。近づきすぎない」


 短い言葉。

 短いから止まる。


 子どもたちの足が半歩止まる。

 それでも視線は父に集まったままだ。


 父は子どもたちを見て、はっきり言った。


「走るな」


 それだけ。


 叱る声じゃない。

 でも、廊下の空気がすっと整った。


 足音が消える。

 ざわざわが一段落ちる。


 父は続けて、少し声を落とした。


「道を空けてくれ」


 命令じゃなく、お願いの形だった。


 子どもたちは顔を見合わせて、自然に左右へ寄った。

 廊下の真ん中に、細い道ができる。


 先生が短く言う。


「ありがとう」


 誰かが照れたように笑った。

 その笑いは、悪いものじゃなかった。


 私はその道の入口に立った。

 足はまだ少し重い。

 でも、今なら動ける。


 父が手を伸ばす。

 手を取るわけじゃない。

 ただ「隣に来い」という合図。


 私は父の隣に立った。


 父の肩は高い。背中は広い。

 その隣に立つだけで、視線の波が少し弱くなる。


 父が前に立って受けてくれている。

 それが分かった。


 私は先生の方へ顔を向ける。

 言わないといけない。


 自分から言う。

 そうしないと、また止まる。


 息を吸って、短く言った。


「……帰ります」


 先生はすぐにうなずいた。


「はい。気をつけてね」


「……はい」


 それで、私は“帰っていい”人になった。


 父も先生へ小さく頭を下げた。


「世話になった」


 先生も頭を下げる。


「こちらこそ。お迎え、助かります」


 そのやり取りが静かで、私は少しだけ安心した。


 廊下の端に、ミオとセイラがいた。


 セイラが小さく手を振る。

 ミオも遠慮がちに、指先だけ動かす。


 私は迷った。

 迷うと、手が上がらない。


 でも今日は父の背中がある。

 私は自分の手を上げた。


 小さく。

 でも、ちゃんと。


 手を振り返す。


 セイラが嬉しそうに笑って、ミオも少しだけ口元をゆるめた。


 その表情が、胸の奥を温かくした。



 校門を出ると、外の光がまぶしかった。

 廊下にいたときより、息がしやすい。


 父は黙って歩く。

 歩く速さは、私に合わせてある。


 少し歩いたところで、私は小さく言った。


「……来たの、びっくりした」


 恥ずかしい。

 でも、言わないと胸が重いままだ。


 父は少し黙ってから答えた。


「廊下が混むと聞いた」


 理由はそれだけ。

 守るための動き。


 私はうなずいた。

 父は、必要なことだけをする。


 しばらく歩いて、町の音が戻ってくる。

 荷車の音。店の呼び声。遠い犬の鳴き声。


 父がぽつりと言った。


「視線は、風みたいなものだ」


「……風?」


 父は少し考えてから言う。


「当たると寒い。だが、ずっと同じ場所にはいない」


 風は吹く。

 でも、吹き続けない。通り過ぎる。


「正面で全部受け止めると疲れる。歩けば通り過ぎる」


 分かりやすい言い方だった。

 私は胸の中で、その言葉を転がした。


 見られるのは怖い。

 でも止まらなければいい。


 止まってしまうから、寒くなる。

 歩けば、風は通り過ぎる。


 私は父の背中を見た。

 父はいつも歩いている。

 視線の風の中でも歩き方が変わらない。


 だから風が通り過ぎる。


 私はその落ち着きを、少しだけ借りた。


「……私も、歩けた」


 小さく言うと、父は短く返した。


「うん」


 それだけで十分だった。



 夜。


 机の上に紙を広げて、今日の記録を書く。


 日付。天気。

 授業。廊下。迎え。


 書いていくと胸の中が整っていく。

 整うと眠れる。


 私は少しだけ迷ってから、今日いちばんのことを書いた。


『迎えに来た父が、廊下で目立った。こわくて、はずかしかった。』


 次の行。


『でも、父は落ち着いていた。先生に頭を下げて、短く話した。走るなと言った。』


 最後に、自分のことを書いた。


『私は父の隣に立って、自分から帰りますと言えた。友だちに手も振れた。』


 書き終えて、紙をそっと押さえる。

 文字がそこにあると、今日がちゃんと形になる。


 灯りを落とす前に、もう一行だけ足した。


『父の落ち着きを借りると、風の中でも歩ける。』


 その一行が、今日の終わりにちょうどよかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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