第7話 見物熱:木札の話
朝の教室は、いつもよりざわざわしていた。
窓から光が入って、机の木目がはっきり見える。
いつもなら落ち着くはずの景色なのに、今日は声のほうが先に耳へ入ってくる。
「ねえ、犬の木札、見た?」
前の席の子が言うと、周りが一気に反応した。
「見た見た! 門の近くにあるやつ!」
「犬がつけてたって本当?」
「かわいくない? 犬に木札って!」
言葉が増える。
増えるたびに、教室の空気が少し熱くなる。
私は通い袋を机の横に掛けて、結び目を指で確かめた。
確かめると落ち着く。
それでも胸の奥が、静かにざわついた。
犬の木札。
木札は飾りじゃない。
見るためのものでもない。
大勢が「見に行こう」と言い出せば、それは見物になる。
見物は、いつの間にか囲みになる。
囲みは、相手の逃げ道を消す。
私はその形が苦手だった。
息がしにくくなる形。
「休み時間、見に行こうぜ!」
誰かが言った瞬間、椅子が鳴った。
机の間に小さな波が走る。
「行く行く!」
「近くで見たい!」
「木札、触ってもいいのかな!」
“触る”。
その一言で、背中が少し冷たくなった。
触られたら犬は嫌がる。
嫌がったら笑いが起きる。
笑いが起きたら、もっと近づく。
私は頭の中で、よくない流れを何度も見た。
見たくないのに勝手に浮かぶ。
隣のミオが、小さく言った。
「……やめたほうが、いいよ」
ミオの声は大きくない。
でも、ちゃんと止める声だった。
セイラも頷いて言う。
「先生に怒られるよ。犬もこわがるかもだし」
止める声が二つ。
でも、勢いはそれ以上だった。
「えー、見るだけじゃん」
「囲むつもりじゃないし」
「すぐ戻ればいいでしょ!」
“見るだけ”。
その言葉は軽い。
軽いから、止まりにくい。
私は言い返したくなった。
木札は大事なものだ。
犬は怖がる。
勝手に集まったら困る。
でも声を増やすと空気が荒れる。
荒れると、もっと見られる。
見られると、私は動けなくなる。
先生に言いに行くべきか。
でも「言いつけた」みたいに見えるのも怖い。
休み時間が近づく。
みんなの体が少しずつ前へ傾く。
始まる前の熱が、教室の中に溜まっていく。
私は息を吸って、短い言葉を探した。
強くなくていい。
でも止まるために必要な言葉。
見つけた。
「……見ていい距離がある」
ざわめきが、一瞬だけ止まった。
「距離?」
「なにそれ?」
何人かがこちらを見る。
私はその視線に飲まれそうになるけれど、短く続けた。
「近いと、困る」
それだけ。
詳しく言わない。言いすぎると、逆に熱が上がる。
「じゃあどれくらい?」
「決まりあるの?」
質問が出た。
質問が出るのは、まだ大丈夫。
“走ってない”。
私は木札に書いてある言葉を思い出して、短く言った。
「……近づきすぎない。触らない」
そのとき、教室の後ろから先生の声がした。
「どうしたの? にぎやかだね」
先生が入ってきた。
みんなが一斉に話し始める。
「先生! 犬の木札があるんだって!」
「見に行っていい?」
「何が書いてあるの?」
先生は少し驚いてから、すぐ落ち着いた顔になった。
「犬の木札ね。あるよ。門の近くで見られる」
「じゃあ行こう!」
「今行こう!」
声が跳ねた瞬間、先生が手を上げた。
「待って。勝手に行かない」
その一言で、空気が止まる。
先生の言葉は、強すぎず、弱すぎず。
止めるのにちょうどいい。
「休み時間は自由だけど、校内で動くときは約束があるでしょう?」
先生は教室の真ん中に立って続けた。
「それに、見物っていうのはね。人が集まると、すぐ“囲み”になるの。本人は見るつもりでも、相手からすると逃げ道がなくなる」
先生がその言葉を言ってくれて、私は少し楽になった。
私が言うと尖ってしまう言葉が、先生が言うと“ルール”になる。
先生は黒板に短く書いた。
「勝手に行かない」
「当番の人がいる時間だけ」
「近づきすぎない」
「触らない」
チョークの音がさらさらと鳴る。
「これが今日の約束。どうして当番の人がいる時間だけか、分かる?」
前の席の子が手を挙げた。
「犬が困ったら、助けられるから?」
「そう。犬も、木札も、守るためにあるから」
先生はうなずいて、少しだけ声を柔らかくした。
「見るのはいい。でも、守る形で見る。分かった?」
「はーい……」
返事は少し残念そう。
でも止まれている。
止まれているなら、それでいい。
先生が黒板を指さす。
「それでね。木札の言葉が気になる人がいるなら……」
先生は少し間を置いて言った。
「読む練習、教室でしてみようか」
みんなが「え?」と顔を上げる。
でも興味は消えていない。
そのとき、セイラが手を挙げた。
「先生! 読む係やろうよ! 当番の人の手伝い!」
セイラの声は明るくて、前向きだ。
その一言で、空気が違う方向へ動いた。
「読む係って何?」
「いいじゃん!」
「声そろえて読むやつ?」
先生が笑った。
「そう。読む係は当番の人と一緒に、木札の言葉を読む人。声をそろえると、ふざけにくいし、走りにくい」
教室のざわざわが、見に行く熱から“やってみたい”熱に変わっていく。
私は胸の中で、そっと息を吐いた。
見物が、学びに変わった。
⸻
休み時間。
先生が黒板の前で言った。
「短く、はっきり読んでみよう。いくよ」
「勝手に行かない」
みんなが続ける。
「勝手に行かない」
「当番の人がいる時間だけ」
「当番の人がいる時間だけ」
「近づきすぎない」
「近づきすぎない」
「触らない」
「触らない」
声がそろうと、不思議と落ち着く。
ばらばらより静かに聞こえる。
先生が言った。
「いいね。もう一つだけ足そう。見るときはね、“一歩下がる”」
先生は黒板に書き足した。
「一歩下がる」
短い言葉。
短いから守りやすい。
「犬が下がれる場所を残す。逃げ道を残す。これが一番大事」
逃げ道。
犬の話なのに、私は自分の胸が少し軽くなるのを感じた。
逃げ道があると、息ができる。
セイラが元気よく言った。
「じゃあ今日、代表でやってみよう! 読む係!」
先生はうなずいた。
「じゃあ当番の先生と一緒に、三人だけ。代表ね」
手がたくさん上がった。
代表はセイラ、前の席の男の子、ミオになった。
先生が私にも目を向けた。
「ルミシアさんはどうする?」
私は短く答えた。
「……ここ」
先生はうなずく。
「分かった。戻ってきたら、報告してもらおう」
三人は先生と一緒に教室を出ていった。
教室が少し静かになる。
私はその静かさの中で、肩の力が抜けた。
⸻
数分後。
代表の三人が戻ってきた。
セイラの目はきらきらしている。
「見た! ほんとにあった!」
男の子が言う。
「犬、でかかった。でもおとなしかった」
ミオが落ち着いた声で言った。
「近づきすぎないって、大事。犬がちょっと下がった」
先生が頷く。
「だから“一歩下がる”。ね」
セイラが胸を張った。
「読む係、やった! 声そろえたら、変な感じにならなかった!」
「何が書いてあったの?」
教室の子たちが一斉に聞く。
「“触らない”“近づきすぎない”“走らない”って感じ!」
みんなが「へえー」と声を上げる。
そしてすぐ、次の声が出る。
「明日は私が読む係!」
「俺も!」
勝手に行く熱が、“順番”の熱に変わっている。
その変わり方が、今日は嬉しかった。
先生が言った。
「順番、名前を書こう。読みたい人、並んで」
列ができる。
列は、囲みじゃない。
順番を守る形だ。
私は列を見ながら思った。
見たい気持ちは悪くない。
でも集まると、形が強くなる。
強くなると、誰かが困る。
だから形を変える。
守れる形に変える。
それが今日できた。
⸻
帰りの時間。
私は通い袋の結び目を確かめて、教室を出た。
門の外に父がいる。
父の姿を見つけた瞬間、胸の奥が少し落ち着いた。
私は近づいて短く言った。
「……今日は、木札の話が出た」
父はうなずく。
「何があった」
「みんな、見に行きたがった」
「行ったか」
「……先生が止めた。読む練習した」
父は小さくうなずいた。
「それでいい」
その一言で、私は安心した。
今日は、大きなことはしていない。
叫んでもいない。走ってもいない。
でも、止まれた。
形を守る形に変えられた。
見せない優しさも、守りになる。
私はそのことを、今日ちゃんと覚えた。
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