第5話 忘れ物:借りる勇気
朝、通い袋の口を結んだとき、指が一度だけ止まった。
結び目はいつも同じ形になる。
同じ形になると、胸の中も同じ形になって、落ち着く。
……そのはずだった。
袋の中を指で探って、気づいた。
いつもある感触がない。
筆記具が、ない。
机に置きっぱなし?
昨日の夜、記録帳に書いたあと……。
思い出そうとして、頭の中が白くなる。
私は袋を開けて、中を全部出した。
薄いノート。小さな布。消しゴム。
でも、筆記具だけがない。
息を吸うと、胸がきゅっと縮んだ。
時間を見る。
家に戻れば、間に合わない。
戻る、という選択が消えた瞬間、足の裏が少し冷たくなった。
忘れ物。
それだけで目立つ。
目立つと見られる。
見られると、言葉が止まる。
私は通い袋を持ち上げて、口を結び直した。
結び目を強く引きすぎて、指が痛い。
「どうした」
父の声が背中から来た。
父はいつも、必要以上に覗き込まない。
「……筆、ない」
私は顔を上げずに言った。
父は一瞬だけ黙った。
その沈黙は、怒る沈黙じゃない。考える沈黙だった。
「戻る時間はないな」
「……うん」
「学校で言え。借りろ」
短い。
でも重い。
借りろ。
言え。
その二つは、私にとって高い壁だった。
父はそれ以上言わずに、靴を履いた。
私はその背中を追いかける。
⸻
通学路はいつも通り。
道の端を歩く。石を踏まない。人の流れに逆らわない。
でも胸の中だけが、いつも通りにならない。
通い袋は軽いのに、気持ちは重い。
門が見えた。
子どもたちの声が、耳に刺さる。
「今日の算術、むずいかな」
「先生、黒板いっぱい書くよ」
「見て、これ新しい消しゴム!」
書く。
いっぱい。
その言葉だけで、心臓が少し早くなる。
父は門の手前で立ち止まった。
いつも通り、短く言う。
「帰りはここだ」
「……うん」
「困ったら、先生に言え」
同じ言い方。
同じ言い方は、私を少しだけまっすぐにする。
私はうなずいて、門をくぐった。
⸻
教室に入ると、いつもの朝の音があった。
椅子が鳴る。通い袋が机に当たる。笑い声が飛ぶ。
でも私の中には、別の音が鳴っている。
――書けない。
窓側の席に着いて、通い袋を机の横に掛ける。
布が木にこすれて「さ」と鳴った。
その音は落ち着くはずなのに、今日はすぐ消えた。
隣のミオが私の手元をちらっと見て、すぐ前を向いた。
気を使ってくれたのかもしれない。
その気遣いが、逆に胸に刺さった。
気づかれている、がはっきりしたから。
私は机の中をもう一度探った。
分かっているのに探る。
探らないと、現実になってしまう気がする。
もちろん、なかった。
先生が入ってくる足音。
教室が少し静かになる。朝の始まり。
「はーい、席について。今日はまず、書き取りからね」
先生の声はいつも通り。
いつも通りがあると助かる。
でも今日の私は、そのいつも通りに乗れない。
先生が黒板に文字を書き始める。
白いチョークが黒い板を走る。さらさら、と気持ちいい音。
「じゃあ、写して。ゆっくりでいいよ」
ゆっくりでいい。
その言葉に救われそうになって、すぐ苦しくなった。
私は写せない。
ゆっくりでも、速くても。
手に持つものがない。
私は鉛筆を持つふりをして、指だけを動かした。
書いているふり。
ふりをすると、自分が嫌になる。
嫌になると、もっと動けなくなる。
先生が教室を見回す。
机の間を歩く。足音が近づくたびに背中が固くなる。
先生が私の机の近くで止まった。
「ルミシアさん、書けてる?」
声は優しい。
優しいのに、胸がぎゅっとなる。
言えばいいだけだ。
「忘れました」と。
でも言うと、視線が集まる。
視線が集まると、また噂が増える。
噂が増えると、今日が長くなる。
そんな考えが一瞬で頭を走って、口が閉じたままになる。
「……」
先生は私の手元を見て、すぐ分かったはずだ。
筆記具がない。紙が白いまま。
先生は責める顔をしない。
でも、次の言葉を待っている。
私は言えない。
指先が冷たくなっていく。冷たいと、さらに言葉が出ない。
後ろの席の子が小さくささやいた。
「書いてない」
「なんで?」
「忘れたんじゃない?」
ささやきは小さい。
小さいのに刺さる。
私は目を伏せた。
伏せると黒板が見えない。
でも今は、見えないほうが楽だった。
先生が何か言いかけた、そのとき。
隣から、静かな動きが来た。
ミオが、自分の筆記具を持つ手を机の端まで動かした。
半分、差し出すみたいに。
言葉はない。
顔もこちらを見ていない。
ただ手だけが「使って」と言っている。
私は一瞬、動けなかった。
借りる。
借りるということは、受け取るということ。
受け取るということは、関わるということ。
関わると、また何かが起きるかもしれない。
また見られるかもしれない。
でも、今の私は書けない。
書けないと、もっと見られる。
どちらにしても見られるなら。
私は、書けるほうを選びたい。
私はミオの手のほうへ、そっと自分の手を伸ばした。
指先が震える。震えながら、受け取った。
「……ありがとう」
声が思ったより小さかった。
でも、ちゃんと出た。
ミオは一瞬だけこちらを見て、すぐ前を向いた。
小さくうなずいたのが分かった。
それだけで十分だった。
先生がその動きに気づいて、目を細めた。
「ありがとうって言えたね」
先生は私ではなく、教室全体に向けて話した。
「今日は借りられたから大丈夫。でも次からは、前の日に確認しよう。通い袋に入れるもの、決めておくと忘れにくいよ」
責める言い方じゃない。
怒る言い方でもない。
教える言い方。
胸の中の固いものが、少しだけほどけた。
先生が“事件”にしなかった。
それだけで、今日が続けられる。
私は借りた筆で、黒板の文字を写し始めた。
紙に線ができる。
線ができると、呼吸が戻る。
手が動く。
動くと、心もついてくる。
周りのささやきは、だんだん減っていった。
子どもたちは、いつも次へ行く。
私はその“次へ行く”に、今日だけは救われた。
⸻
休み時間。
教室がまた賑やかになる。
椅子が鳴る。笑い声が飛ぶ。足音が走る。
その中で、私は借りた筆を見つめた。
助けてくれたものなのに、少し怖い。
返さなきゃいけない。
返すときに、また言葉が必要になる。
私は口の中で言葉を作った。
ありがとう。
返すね。
助かった。
短い言葉。
短い言葉なら、持てるはず。
私はミオのほうを見た。
ミオはノートを閉じて、通い袋の中を整えていた。
慌てない動き。見ているだけで落ち着く。
私は立ち上がって、借りた筆を両手で持った。
両手で持つと落とさない。落とさないと、心も落ちない気がする。
「ミオ」
名前を呼ぶ声が、自分の耳に響いた。
呼べた。
それだけで、胸の奥が少しあたたかい。
ミオがこちらを向く。
「……なに?」
私の手の中を見て、すぐ分かったみたいに目を瞬かせた。
「返す。……ありがとう」
言えた。
声は小さい。でも言えた。
ミオは受け取って、ふっと笑った。
大きな笑いじゃない。ほっとしたときの小さな笑い。
「うん。いいよ」
それから、軽い声で言った。
「また貸すよ」
その言い方が、軽かった。
“貸すこと”を大きなことにしない言い方。
私はその軽さに救われた。
「……うん」
ミオは筆を自分の箱に戻して、もう一度笑いかけた。
「忘れ物って、あるよ。私もある」
その言葉が胸にすっと入った。
あるよ。
私だけじゃない。
私は小さくうなずいた。
⸻
放課後、校舎を出ると光が眩しかった。
門の外で、父が待っている。いつも通り、まっすぐ立っている。
私は近づいて、短く言った。
「……借りた」
父は一度だけこちらを見て、うなずいた。
「言えたか」
「……言えた」
「それでいい」
父の言葉は短い。
短いから、私は持てる。
帰り道、通い袋のひもを握り直した。
今日は忘れ物をした。
胸が重くなった。
指先が冷たくなった。
でも、借りた。
ありがとうと言った。
返した。
また貸すよ、と言われた。
勇気は、大きい声じゃない。
走ることでもない。
ただ、手を伸ばすこと。受け取ること。
その小さな勇気を、今日ひとつ増やせた。
通い袋は朝より少し軽いはずなのに、
歩く足は、朝より少しだけ軽かった。
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