第4話 初当番:ほうきの音
朝の教室は、机の足音がいつもより多かった。
椅子が少しずつずれて、木の床がきゅ、きゅ、と鳴く。
「はーい、みんな。今日は掃除当番の確認をします」
先生が黒板の横に立って、紙を一枚掲げた。
線で区切られた表。曜日と名前が並んでいる。
当番表。
先生はその紙を黒板の端に貼った。ぺたり、という音がした。
その音が、妙に大きく聞こえる。
「掃除はね、大事。教室はみんなの場所だから。じゃあ、読んでいくよ」
先生の指が表の上をゆっくり動く。
名前が呼ばれるたびに「はーい」と返事が返る。軽くて明るい返事。
私の胸は、少し忙しくなった。
当番。
やることは決まっているはずなのに、“みんなの前で役目を持つ”というだけで、身体がかたくなる。
失敗したら目立つ。目立つのは怖い。
「……木曜日。ルミシアさん」
呼ばれた。
反射で背筋が伸びる。
「……はい」
自分の声が思ったより小さくて、喉が乾く。
先生は続けて、隣の名前も読んだ。
「同じ木曜日は、ミオさん」
隣の席の子だ。髪をきっちり結んでいて、動きが丁寧な子。
ミオは一瞬だけ目を丸くして、すぐに小さく手を挙げた。
「……はい」
小さい返事。
その小ささが、私の胸の中の緊張を少しだけ薄くした。
先生はにこっと笑う。
「木曜日の二人、よろしくね。掃除は大変じゃないよ。やることは決まってるから」
“決まっている”。
その言葉は、私にとって助けになる。
でも、教室の空気は助けだけじゃない。
視線が、すっとこちらへ寄った。
「ルミシアが当番なんだ」
そんな気配が、机の間を通り抜ける。
私は黒板の当番表を見ないふりをして、ノートを開いた。
紙に線を引くと、心が少し整う。
⸻
昼の最後の鐘が鳴った。
子どもたちが通い袋をつかんで、わっと外へ出ていく。
教室が急に広くなる。音が減る。残る音がはっきりする。
「当番の人は残ってね。ほうきはそこ。ちり取りは棚の下。机は二人で動かしていいよ」
先生の声。
私は立ち上がって、通い袋の口を結んだ。結び目を指で確かめる。
確かめると落ち着く。
ミオも同じように、通い袋を机の横に置いた。
置く動きが丁寧で、少しだけ遅い。
私はほうきを取った。
柄は木で、手に触れるとひんやりする。
毛先を床に落とすと、さっ、という音がした。
その音が、思ったより優しかった。
ほうきの音。
机を動かす音。
黒板を拭く布の音。
掃除の音は、会話みたいに教室に広がる。
言葉がなくても、やることが伝わる。
それが、私にはありがたい。
「机、動かす?」
ミオが小さく言った。
声はまだ固い。でも逃げない声だった。
「……うん。二つ、ずらす」
私は短く答えて、机の端に手を置いた。
ミオも反対側に手を置く。
「せーの……」
机が床の上を少し滑る。ぎぎ、という音。
机の下は思ったより暗くて、ほこりと小さな紙くずが見えた。
私はほうきを動かす。
さっ、さっ。
床をなでる音が続く。
その途中で、入口のほうに気配を感じた。
見なくても分かる。誰かが見ている。
廊下の窓のところに数人の子がいて、こちらを覗いていた。
遠巻きの目。
口は動いているのに声は届かない。
でも、何を言っているかは想像できてしまう。
噂の目。
私は手を止めないようにした。
止めると、見られていることが大きくなる。
動かしていると、「掃除してるだけ」に戻れる。
机の脚に、小さな紙くずが引っかかっていた。
ほうきでは取れない。
私はしゃがんで、指でつまむ。
軽い紙くず。
軽いのに、指先に引っかかる感じがする。
私はそれをちり取りに入れて、何も言わずに捨てた。
ミオがそれを見て、目を瞬かせた。
「……ていねいだね」
「……普通」
私は短く返して、またほうきを動かす。
“普通”と言うと、心が少しだけ普通に近づく気がした。
二人のほうきの音が、少しずつそろっていく。
音がそろうと、呼吸もそろう。
そのうち、覗いていた子たちは飽きたのか、廊下の先へ走っていった。
足音が遠ざかる。
教室に残るのは、ほうきの音だけになった。
音が少ないと、息がしやすい。
「……ねえ」
ミオがぽつりと声を出した。
「なに」
「えっと……」
ミオはほうきを止めて、柄を握り直した。
迷っている手つき。
私は急かさない。
急かすと、言葉は逃げる。
「……目」
その一言で、胸がきゅっとなる。
私が触れられたくない話題。
でも、ミオの声には面白がりがない。
怖がる匂いもない。
ただ、言っていいのか迷っている匂いがした。
「……目、きれいだと思う」
言った瞬間、ミオは自分で驚いたみたいに手を振った。
「ち、ちがっ……! 変って言いたいんじゃなくて……その……!」
言い直そうとして、言葉がぐちゃぐちゃになる。
耳まで赤い。
私は返し方が分からなかった。
「ありがとう」と言えば、目の話が続く。
「そんなことない」と言えば、ミオが困る。
黙れば、もっと気まずくなる。
私は一度、ほうきを床に置いた。
置く動作を挟むと、頭が少し落ち着く。
そして、話題を“作業”へ戻した。
「……ほこり、舞う。窓、開ける?」
作業の言葉。
逃げるためじゃない。
今やることを言うだけ。
ミオは一瞬きょとんとして、それからふっと息を吐いた。
「……うん。開けよう」
二人で窓へ行く。
木枠に手をかける。少し固い。
でも二人で押すと、すっと動いた。
窓が開いた瞬間、風が入ってきた。
冷たすぎない風。
外の匂いが混ざる。土の匂いと、どこかの家の焼き菓子みたいな匂い。
光の中で、ほこりがふわっと舞って、すぐに流れていった。
教室の空気が軽くなる。
「……風、気持ちいいね」
ミオが言った。
「……うん」
それだけで十分だった。
私たちはまた床に戻って、掃除を続ける。
ほうきの音が、さっきより軽く聞こえた。
風のせいかもしれない。
それとも、ミオの言葉が“刺さる言葉”じゃなかったからかもしれない。
机を元に戻す。
黒板を拭く。
ちり取りの中のほこりを外のごみ箱に捨てる。
作業は、ちゃんと終わる。
終わると、胸の中のざわざわも少し静かになる。
片づけの途中で、ミオが小さく言った。
「……さっきの、変なこと言ってごめん」
顔は私を見ていない。窓の外を見ている。
でも逃げている感じはしなかった。
恥ずかしいだけ。
私は少し考えてから、短く言った。
「……言い方、困っただけ」
「……うん」
「……でも、悪くない」
自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。
ミオの肩が少し下がった。
「……よかった」
その声は、ほうきの音みたいに小さかった。
でも、ちゃんと届いた。
⸻
「終わったかな?」
先生が教室に戻ってきた。
床を見て、黒板を見て、机の並びを見て、先生は満足そうにうなずいた。
「うん、きれいになってる。二人ともありがとう」
先生の声はいつもより少し明るい。
「掃除当番ってね、目立たないけどすごく大事。こういうのができる人は、教室を守れる人だよ」
守れる。
その言葉が胸の中にふわっと落ちた。
目立つのは怖い。
でも、守る役目は怖くないかもしれない。
ミオが小さく笑った。
大きな笑いじゃない。ほっとしたときの笑い。
私もほんの少しだけ、口元をゆるめた。
教室を出ると、廊下の向こうから子どもたちの声が聞こえてきた。
いつもの放課後の音。
私は通い袋を持ち上げて、ひもを握り直す。
布の感触が手の中に戻る。戻ると落ち着く。
今日は掃除をしただけ。
ほうきを動かして、ほこりを集めて、窓を開けて、机を戻しただけ。
でも、私は一つ覚えた。
作業は、言葉の代わりになる。
作業は、人の距離を少しだけ近づける。
話すのが難しい日でも。
目立つのが怖い日でも。
ほうきの音があると、前へ進める。
そんな気がした。
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