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第3話 噂騒ぎ:銀の瞳のうわさ

 教室に入った瞬間、音がひとつ消えた気がした。


 いつもなら、椅子を引く音がして、笑い声があって、誰かが先生に止められている。

 そういう“朝のうるささ”があるはずなのに、今日は違う。


 ざわざわが、ざわざわになりきらないまま止まっている。

 息をひそめたみたいな静けさ。


 私は通い袋を抱えたまま、入口で一度だけ足を止めた。

 見られている。

 気のせいじゃない。ちゃんと、見られている。


 視線が集まると、足音が自分の耳にだけ響く。

 床の木目がひとつひとつ見えるくらい、世界が細かくなる。


 私は窓側の席へ向かって歩いた。

 数歩なのに長い。

 背中がうすく熱い。


 席に着いて、通い袋を机の横に掛ける。

 布が木にこすれて「さ」と鳴った。


 その音が、今日の教室でいちばんはっきりした音に聞こえた。


 私は机の上に手を置いた。

 指先が少し冷たい。冷たいと、息が浅くなる。


「ねえ、ルミシア」


 名前が呼ばれた。

 顔を上げるのが遅れたせいで、視線がさらに集まった気がした。


 前の席の子が、身を乗り出している。

 目がきらきらしている。悪意というより、面白そうな顔。


「ほんと? 未来が見えるんだって?」


 直球だった。


 私は一瞬、返事の言葉が見つからなかった。

 未来。

 その言葉が大きすぎて、机の上で転がる感じがした。


 未来なんて見えない。

 自分の今日の呼吸だって、うまくできるか分からないのに。


「……見えない」


 短く言った。

 短くしないと、声が揺れる。揺れると、話が伸びる。


「えー、じゃあさ!」


 その子は引かなかった。机に手を置いて、さらに近づく。


「天気とか! 明日雨かどうかも分かんない?」


「……分かんない」


「でも目が銀だよ? 銀って特別っぽいじゃん!」


 周りの子が笑った。

 笑いは軽い。軽いから刺さる。


 別の声が飛ぶ。


「宝物の場所とか分かるんじゃないの?」

「魔物が出る前に分かるんだって!」

「嘘だって。見えるに決まってる!」


 質問が増える。

 増えるほど、教室の空気が私の席に寄ってくる。


 気づけば机の周りに子どもが集まり始めていた。

 半円。

 まだ完全に囲まれてはいない。

 でも、囲まれかけている。


 私は息を吸って、吐いた。

 胸の中が狭くなる。

 逃げ道だったはずの横が、少しずつ埋まっていく。


 父の声が、頭の中に浮かんだ。


 ――真ん中は人が集まる。

 ――端は通るだけ。

 ――止まるなら、呼べ。


 呼べる人はいる。先生。

 でも先生はまだ教室に入ってきていない。廊下のほうから声が聞こえるだけだ。


「ねえ、ほんとは見えるんでしょ?」


 さっきの子が声を少し落とした。

 “秘密を言え”みたいな声。


 私は首を横に振った。


「……見えない」


「でもさぁ!」


 引かない子が一人いると、周りも引けなくなる。

 引けないまま近づくと、半円は半円じゃなくなる。


 私は、強い声で言い返したくなった。

 「見えないって言ってるでしょ」と言えば、止まるかもしれない。


 でも強い声は、相手を押す。

 押すと、押し返される。

 押し返されると、私は負ける。


 だから――別のやり方を選ぶ。


 私は机の上の紙を一枚引いた。

 筆を取る。


 手が震えているのが分かる。

 震えていてもいい。書ければいい。


 黒い線で、短い言葉を書く。


 見えない。


 点も丸も、まっすぐ。

 余計な言葉はつけない。

 紙を、声の代わりにする。


 私はその紙をそっと持ち上げた。

 窓の光の中で、文字がはっきり見える。


 子どもたちの目が、紙へ向いた。

 押し合いの空気が、一瞬止まった。


「……書いた」

「え、ほんとに?」

「じゃあ何もできないの?」


 まだ納得しない声はある。

 でも、さっきより空気が薄い。

 薄くなったところに、別の声が入ってきた。


「ちょっと、何してるの?」


 先生だった。


 先生は怒鳴らない。

 でも教室の中心に立つだけで、子どもたちの体が自然に引く。

 “先生”という存在が、空気の向きを変える。


 先生は私と、机の周りの子たちを見て、黒板へ向き直った。


「みんな、約束、覚えてるよね」


 チョークを持って、黒板に書く。


 囲まない

 走らない

 困ったら先生


 それから、もう一つ。


 うわさで決めつけない


 チョークの音が、静かな教室に響いた。


「聞きたい気持ちは分かるよ。でもね、うわさで決めつけると相手は困る。囲まない。困ったら先生。いいね?」


 子どもたちが、ぱらぱらとうなずく。

 机の周りの半円がほどけていく。

 空気が戻ってくるだけで、胸が少し楽になった。


「……つまんない」


 さっきの子が小さく言って、むっとした顔で席に戻った。

 不満は残っている。

 でも距離が戻った。それだけで十分だ。


 みんなが散っていく中で、ひとりだけ残った子がいた。

 髪をきっちり結んだ、今日の隣の子。


 その子は一歩近づき、でも線を越えない距離で止まった。

 そして目を伏せて言う。


「……ごめん。止められなくて」


 小さい声。

 でも逃げない声。


 私は紙を机に戻し、筆を置いた。

 返事は短く。


「……いい」


 それだけだと冷たく聞こえるかもしれない。

 でも長くすると、私が崩れる。


 少しだけ言葉を足した。


「聞きたい気持ちは……分かる」


 本当に分かる。

 知らないものは気になる。目立つものは気になる。

 私だって、知らないものを見たら見てしまう。


 その子の肩が少し下がった。

 ほっとしたみたいに。


 先生が私の机のそばに来て、低い声で言った。


「ルミシアさん、あとで少し話せる?」


 私はうなずいた。

 相談するのは逃げじゃない。

 “困ったら先生”は、守るための約束だ。


 私は心の中で決めた。


 次に空気が押してきたら、先生に言う。

 早めに言う。

 小さくても、言う。



 夜。

 家の灯りの下で、私は記録帳を開いた。


 紙の匂いは落ち着く。

 今日の教室の匂いと同じで胸がきゅっとなるけれど、それでも書く。


 筆を持って、短く書いた。


 未来は見えない。


 その下に、もう一行。


 言葉を短くすると、守れる。


 今日は声で押し返さなかった。

 紙に書いて見せた。

 それで囲まれずにすんだ。


 私は記録帳を閉じて、通い袋をそっと撫でた。

 明日も何か言われるかもしれない。


 でも――短い言葉なら、持っていける。


 そう思えたのが、今日いちばんの収穫だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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