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第2話 席替え:窓辺の光

 朝の教室は、いつもより音が多かった。

 椅子が床をこする音。通い袋の口を結ぶ音。小さな笑い声。

 その全部が、ふわふわ浮いている。


「はーい、みんな席に着いてね。今日はね、席替えをします」


 先生の声が黒板の前で響いた瞬間、ざわめきが一段上がった。


「えー!」

「やった!」

「また隣になりたい!」

「前はやだ!」


 言葉が弾む。足がばたばたする。

 私はその中で、通い袋を膝に置いたまま机の縁を見ていた。


 席替え。

 みんなにとっては楽しい行事なのだと思う。

 でも私にとっては、“場所が変わる”というだけで胸が忙しくなる。


 先生は小さな箱を持ち上げた。


「くじ引きで決めます。紙を引いてね。取った番号の席が今日からの席です。はい、順番に」


 箱の中には、同じ大きさの紙がたくさん入っている。

 みんなが前へ前へと並び始めた。


 私は、並ぶのが遅くなる。

 急いで前に出るのが、まだうまくできない。押されたくないし、押したくもない。


 でも先生がこちらを見て、目だけで「大丈夫」と言ってくれた気がした。

 私は列の後ろに並ぶ。


 前の子が引く。

 後ろの子が覗く。

 「何番?」という声が飛ぶ。


 私の番が近づくほど、手のひらが汗ばんだ。

 たかが紙一枚。なのに心の中では「これで今日が決まる」みたいに感じる。


 私の順番になった。


 箱に手を入れる。

 紙は全部同じ感触で、指先が迷う。迷っている時間が長いほど、視線が刺さる気がする。


 私は一枚をつかんで引いた。

 開く。


 ……窓側。


 窓から光が入る席。

 明るい席。


 私はそれだけで、少し身構えた。


 窓側は目立つ。

 目立つ場所は視線が集まる。

 視線が集まると、胸が狭くなる。


 でも、決まった。戻せない。戻さない。

 私は紙を握ったまま席を探し、窓の近くの机に座った。


 朝の光が机の上に落ちる。木目が明るく見える。

 自分の手が少し白く見えた。


 そして、隣の席。


 昨日声をかけてくれた子ではない。別の子だ。

 背が少し高めで、髪をきっちり結んでいる。顔は前を向いているのに、肩がわずかに上がっていた。


 緊張している。

 それだけは、見ればわかる。


 隣の子は私を見ないまま、鉛筆をくるくる回していた。

 カタカタという小さな音が続く。


 周りの声が、急に小さくなる。


「……窓側、そこか」

「隣、やばくない?」

「近づくなって言ったほうが……」


 小声。

 でも、聞こえる距離。


 私は息を吸って吐いた。

 窓の光がまぶしくて、目が乾く。


 先生が手を叩いた。


「はい、決まったね。荷物を動かして、授業を始めましょう」


 机を動かす音が増える。通い袋を置く音が重なる。

 その雑音に紛れて、私の心臓の音も少し薄まった。


 通い袋を机の横に掛けた。布が木にこすれる音がする。

 その音があると、少し落ち着く。


 隣の子は、まだ黙っている。

 黙ること自体は悪くない。

 でも、周りの空気が「黙れ」と言っているときの黙り方は、少し怖い。


 私は先生の声だけを追った。



 授業が始まると、窓から光が差し込んだ。

 光は机の上を滑って、ノートを明るくした。


 明るいと字が見やすい。

 見やすいのは助かるのに、落ち着かない。


 理由はわかっている。


 光が私の目に入って、私の目の色が余計に目立つ。


 銀色。

 自分の目なのに、光が当たると別のものみたいに見えることがある。

 自分で自分の目が怖くなる瞬間がある。


 先生が板書をする。

 みんながノートを取る。

 私は筆を動かしながら、視線の気配を感じた。


 前の席の子がちらっと振り返る。

 その隣の子も。

 視線がそこに集まって、胸がぎゅっとなる。


 私は顔を上げない。

 先生の声だけ聞く。紙の上の線に集中する。


 線は引ける。文字も書ける。

 手が動くと、息が少し整う。


 隣の子の鉛筆の音が止まった。

 気配が強張る。


 私は横を見ない。

 見ると、相手の緊張まで受け取ってしまいそうで怖い。


 先生が問題を出す。

 教室の空気がいっせいに“授業”になる。

 その瞬間だけは、みんなの目が同じ方向を見る。

 その同じ方向が、少し助けだった。



 休み時間になった。


 椅子を引く音。笑い声。走る足音。

 一気に音が戻る。


 隣の子は席に座ったまま、ノートを閉じたり開いたりしていた。

 何か言いたいのかもしれない。言えないのかもしれない。


 周りの子たちはこちらを見て、目をそらして、ひそひそする。

 そのひそひそが、窓の光よりまぶしく感じる。


 私は机の上の消しゴムを持ち上げて、置いた。

 小さな動作で、手の居場所を作る。


 そのとき、隣の子の机の端から紙が一枚、ふわっと落ちた。


 白い紙が床に落ちる音は意外と大きい。

 ぺら、という音がして、教室の空気が一瞬止まった気がした。


 隣の子の肩がぴくっと動く。

 拾おうとする。

 でも、手が止まる。


 周りの視線が集まる。

 「拾っていいの?」

 「拾ったら何か言われる?」

 そんな空気。


 隣の子は顔を上げないまま固まっていた。

 指先だけが、小さく動いている。


 私は椅子を引いた。

 立って、しゃがんで、紙を拾う。

 それだけ。


 拾った紙を、机の端にそっと置いた。

 隣の子の手が届く位置。押しつけない位置。


 言葉は出さなかった。

 言葉が増えると、空気も増える。

 増えた空気は、だいたい痛い。


 私は座り直し、何もなかったふりをしてノートを開いた。


 隣から、かすれるような声が聞こえた。


「……ありがとう」


 小さい。

 でも、ちゃんと届く。


 私は返事をしようとして、やめた。

 返事のせいで、また視線が集まるかもしれない。

 返事のせいで、隣の子が困るかもしれない。


 だから、ほんの少しだけうなずいた。

 言葉じゃない返事。


 ――その瞬間。


「え、今、何話した?」


 別の子が、ずいっと割って入ってきた。

 声が近い。距離が近い。

 近い声は体にぶつかってくる。


「何? 『仲良し』?」


 目がきらきらしている。悪意というより面白がり。

 でも面白がりは、時々いちばん痛い。


 隣の子が息を止めたのがわかった。肩が縮む。


 私は短く答えた。


「紙」


「え?」


「落ちた紙。拾って置いた。それだけ」


 説明は短く。

 長いと、面白がりが続く。


「へー……ふーん?」


 まだ何か言いたそうな声。


 そのとき、先生の声が教室の真ん中から飛んだ。


「今の話は、それでいいよ」


 先生は怒鳴らない。

 でも、すぱっと切る。


「休み時間でも、今日の約束は守ろうね。囲まない、走らない、困ったら先生。覚えてる?」


 先生が言うと、周りの子たちは視線をそらした。

 空気が少し引いた。


 割って入ってきた子は「はーい」と軽く返して、別の場所へ行った。

 波が引いていく。


 私は息を吐いた。

 窓の光が机の上に落ちる。

 さっきより少し、やわらかく見えた。


 隣の子が、小さく肩を下ろした。

 それだけで、「助かった」が伝わった気がした。



 放課後。


 帰り支度の音が増える。通い袋を持つ音。椅子を机に入れる音。

 みんなが「また明日!」と言いながら飛び出していく。


 私は窓の外を見た。

 朝の光とは違う、少し傾いた光。

 明るいのに、まぶしすぎない。


 窓辺の席は目立つ。

 目立つのは怖い。

 でも、その光が悪いものに見えない瞬間が、ほんの少しだけあった。


 廊下を歩いて、門へ向かう。

 いつもなら、そのまま帰る。


 ……と思ったところで、後ろから足音が近づいた。


「ま、待って!」


 振り返ると、隣の席の子が駆け出しかけて、途中で歩く速さに戻した。

 “走らない”を守ろうとしたのだと思う。

 それが、少し嬉しい。


 その子は私の前で止まり、息を整える。

 一度だけ私の目を見て、すぐに視線を下げた。


「……きょう、ありがとう。あの……明日も」


 言葉がつまる。

 つまったまま、少しだけ顔を上げて続ける。


「……よろしく」


 私は返事の言葉を探した。

 うまい返しは思いつかない。


 でも、短くなら言える。


「……うん。よろしく」


 その子はほっとしたみたいに息を吐いて、口元を少しゆるめた。

 大きな笑顔じゃない。“安心した”だけの顔。

 それが、ちゃんと温かい。


 門の外で父が待っていた。

 父はいつものように私の顔をじっと見ない。

 でも近づくと、短く言う。


「帰るぞ」


「……うん」


 道の端を歩く。今日は朝より胸が少し軽い。


 窓辺の光が思い出される。

 銀の目が目立つ席。視線が集まって怖かった。

 でも、その光の中で「紙」と言っただけで場が終わったことも、

 「明日もよろしく」と言われたことも、ちゃんと残っている。


 目立つことは怖い。

 でも、目立つことがいつも悪いとは限らない。


 私は通い袋のひもを握り直しながら、心の中で小さく言った。


 ――明日も、行ける。たぶん。少しだけ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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