第1話 入学初日:小さな通い袋
朝の空気は冷たいのに、変に澄んでいた。
窓の外の音が少ない。鳥が一羽だけ鳴いて、それで終わる。
私は鏡の前に立って、通い袋を両腕で抱えた。布が手のひらにこすれて、ふにゃりと形が変わる。
ぎゅっとすると、へこむ。離すと、戻る。
小さなことなのに、その動きがやけに頼りになる。
息を吸って、吐く。
もう一回。
吸って、吐く。
鏡の中の私は、いつもと同じ顔のはずなのに、目だけが落ち着かない。淡い銀色が朝の光を拾って、いつもより目立つ気がした。
私は目をそらして髪を整える。黒い髪が静かに肩へ落ちた。
――大丈夫。
そう言えたら楽なのに、口が動かない。
背中のほうで椅子が小さく鳴った。
「行くぞ」
父の声は短い。余計な飾りがない。
「緊張するな」とも「うまくやれ」とも言わない。
その短さが、私は好きだ。励ましが優しいほど、胸が苦しくなる日があるから。
「……うん」
返事は思ったより小さかった。通い袋を抱える腕に力が入って、布がきゅっと鳴る。
父が戸を開けて、先に外へ出る。
私はその背中を追いかける。背中は大きい。でも威張っていない。ただ、そこにいる。
門を出ると、町の朝が動き出していた。
店の戸が開く音、水を汲む音、焼きたての匂い。
それから――視線の気配。
私は、わかってしまう。
誰かの目が向く瞬間の、ほんの小さな間。空気が一度止まる感じ。
井戸のそばの人がこちらを見た。
隣の人も。
視線が増えるほど、胸の中が狭くなる。
父は歩調を変えなかった。いつもの速さで、いつもの間隔で歩く。
ただ、横に並ぶ私へ短く言う。
「道の端を歩け」
「……端?」
「真ん中は人が集まる。端は通るだけだ」
冷たい言い方ではない。
事実を、事実として置いただけの声だった。
私はうなずいて、父の言うとおり道の端へ寄った。
壁側は、視線が来ても逃げ道がある。
逃げ道があると思えるだけで、息が少し入りやすい。
歩く。
足の裏が石を踏む感覚が一つずつはっきりしている。
通い袋が腕に当たって、こつこつ鳴った。自分の音があると、迷子にならない。
やがて、学び舎が見えてきた。
高い門。木と鉄でできた門が、朝の光を受けて鈍く光っている。
その前に、子どもたちが集まっていた。
ざわざわ。
笑い声。走る足音。呼び合う声。
音の量が一気に増える。
私は、足が止まりそうになった。
門の前は広いのに、狭い。
人が多いと、空気がぶつかってくるみたいに感じる。
父は立ち止まらない。少しだけ横を見て言った。
「止まるなら、呼べ」
命令というより合図だ。
“ここにいる”と、背中で言われた気がする。
私は息を吸って、通い袋を抱え直した。
布が腕に食い込む。その小さな痛みが、目を覚ます。
「……行ける」
自分の声に、自分で驚いた。
父は何も言わず門へ向かう。私は背中の横に並んだ。
門をくぐると、子どもたちの視線がふっと寄った。
寄って、止まる。
止まるのが怖い。
小声が聞こえる。
「……目、銀だ」
「ほんとだ……」
聞こえる距離。聞こえないふりはできない。
できないけれど、顔には出さない。出したら負け、みたいに思ってしまう。
勝ち負けじゃないのに。
先生が門の近くに立っていた。柔らかい顔で、声が落ち着いている。
「ルミシアさん、来たね。こっちへ」
名前を呼ばれると、足元が少し定まる。
先生の後ろについて廊下を歩いた。木の床が、靴の音を軽く響かせる。
その音が私の心臓みたいで、落ち着かない。
教室に入る。
机が並ぶ。椅子。窓。黒板。
全部普通なのに、“初めて”が多すぎて、目が忙しい。
「ここが君の席だよ」
先生が指した席に座る。
通い袋を膝に置いた。手を離すのが怖くて、しばらく抱えたままにする。
周りの子が、ちらちらこちらを見る。
声は小さいけれど、言葉はちゃんと届く。
「……あの子、目が……」
「やっぱり、噂の……?」
噂。
その一言が胸に小さく刺さった。
私は紙と筆を見つめる。手を動かせば落ち着ける気がした。
机の縁に指を置く。角が少し丸い。木目がある。
指先が引っかかるところがあって、そこだけ現実に触れられる。
道具が配られた。紙、筆、墨。
私はそれを丁寧に並べた。
並べると、頭の中の散らかったものが少し片づく。
「今日は、まず名前を書いてみよう」
先生の声。
教室の中に、筆が紙をこする音が増えていく。かさ、かさ。
私は筆を握った。
手がわずかに震えている。
震えていてもいい。握れている。落としていない。
筆先が紙に触れる。黒い線がすっと伸びる。
線が引けるだけで、胸の奥が少し静かになった。
……書ける。
私は私の手で、今ここに線を残せる。
休み時間になった瞬間、教室の音が一気に増えた。
椅子を引く音、笑い声、走る足音。
私は席に座ったまま、通い袋の口を閉じ直した。
何かをしていないと、視線に押しつぶされそうになる。
数人の子が、こちらへ近づいてきた。足音が少し速い。
「ねえ――」
声がかかる、と思った、そのとき。
「やめとけって」
別の子の小声が刺さった。
「……なんで?」
「……なんか、怖いじゃん」
怖い。
その言葉が耳の奥に残って、消えない。
理由がない怖さは、ほどけない。
近づいてきた子たちは止まった。視線が迷って、離れていく。
置き去りの空気だけが残った。
私は何も言えなかった。
言葉を出したら涙が出る気がした。
泣いたら、もっと「怖い」が本当になるみたいで。
先生が、その空気に気づくのは早かった。
強い声を出すわけじゃない。
でも教室の真ん中に立つだけで、子どもたちの動きが止まる。
「みんな、ちょっとこっち見て」
先生は黒板に短い言葉を三つ書いた。
囲まない
走らない
困ったら先生
「今日の約束。みんなが安心するための約束だよ」
先生は黒板を指でとん、と叩いた。
「誰かを囲むと、その人は逃げ道がなくなる。走るとぶつかる。困ったら先生が止める。いいね?」
子どもたちが、ぱらぱらとうなずく。
軽いうなずきは頼りない。けれど、ゼロよりずっといい。
「じゃあ、声に出して読もう。……読める人?」
教室が少し静かになる。
視線が黒板と先生に向いて、私から離れる。その離れ方が、少し救いだった。
前のほうの席の子が、そっと手を挙げた。
小柄で、短い髪。
目が合ってしまって、私は反射でそらしそうになる。
でもその子は、笑ってごまかすでもなく、ただ小さな声で言った。
「……いっしょに読もう」
先生じゃなく、私に言った。
心臓が一瞬だけ、変な跳ね方をした。
「……私?」
「うん。……読める?」
読める。
でも声が出るかは、別だ。喉が固くなる。口の中が乾く。
先生は急かさなかった。
ただ、黒板の横に立って、場を整えてくれた。
私はゆっくり立ち上がる。
ふらつかないように、机に指先を一度置いてから離す。
その手順が、私には必要だった。
黒板の前に立つ。
視線が寄る。寄るのが怖い。
でも――囲まれてはいない。先生が間にいる。
隣に立ったその子が黒板を見て、息を吸った。
私は、その息に合わせる。
「……囲まない」
その子が読んで、私は同じ言葉を繰り返す。
「……囲まない」
声は小さい。
でも、出た。ちゃんと出た。
「走らない」
「……走らない」
「困ったら先生」
「……困ったら、先生」
読み終えた瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
劇的じゃない。
でも、尖っていたところが、ほんの少し丸くなった気がした。
その子が、横を向いて言う。
「……できたね」
私はうまく返事ができなかった。
ただ、小さくうなずいた。
そのうなずきが、自分でも少し誇らしかった。
休み時間の残りは、静かに過ぎた。
誰かが急に近づいてくることはない。
でも、さっきほど息が苦しくない。
⸻
帰りの鐘が鳴った。
道具を通い袋に入れて教室を出る。門の外で父が待っていた。
父は私の顔をじっと見ない。
でも歩き方や呼吸の速さは見ているのだと思う。そういう見方をする人だ。
「帰るぞ」
「……うん」
道の端を歩く。朝より視線は少ない。
あるいは、私が少し慣れただけかもしれない。
しばらく歩いてから、私はぽつりと言った。
「……行けた」
それだけ。
胸いっぱいの怖さも、恥ずかしさも、言葉にできない。
できないから短くする。
父は小さくうなずく。
「十分だ」
その二言が、温かかった。
温かいのに、熱くない。
ちょうどいい。
⸻
夜。
家の灯りの下で、私は記録帳を開いた。紙の匂い、墨の匂い。
それが今日の教室と同じで、胸がきゅっとした。
筆を持つ。
最初に書いたのは、素直な言葉。
怖かった。
書いた瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
次に、もう一行。
でも、読んだ。
読めた。
声が出た。
私の声が、教室に落ちた。
記録帳を閉じる。
通い袋をそっと撫でた。柔らかい布に、今日一日の重さが残っている。
明日も、怖いかもしれない。
でも――行ける気がした。
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