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第50話 最終確認、星の夜

 朝の光は薄くて冷たいのに、どこか澄んでいた。冬の終わりみたいな空気だ。息を吸うと胸の奥がきゅっと痛む。けれど、それは嫌な痛みじゃない。目が覚める痛さ。


 今日は――役所の「最終確認」。


 私は机に向かい、紙を広げた。炭の筆は、父がいつも同じ場所に置く。置き場所が決まっているだけで、心が揺れにくい。


 日付。天気。風の向き。朝の匂い。町の音。


 そこまで書いて、いったん筆が止まる。


 合格かどうかが決まる。そんな言い方は好きじゃないのに、頭の中は勝手に「試験の日」みたいに鳴っていた。


 台所から湯の沸く音がした。父が鍋に火を入れている。火は、うまく使えば温かい。うまく使わなければ怖い。


 昨日の煙の匂いが、一瞬だけ鼻の奥に戻ってきて、指先が固くなった。


「書け」


 父の声は低い。


 私は小さく頷いて、筆を動かした。止まった指が動くと、胸の中も動く。


 ――準備:縄の張り直し。木札の位置確認。当番表の確認。餌と水の器の確認。


 そして最後に、ひとつだけ書き足す。


 名前の木札。


 机の端に立てかけてある、新しい板。


『名前の木札 はる』


 それを見るたび、胸がきゅっとなる。名前は、近づく理由になりやすい。呼びたくなる。触りたくなる。だから怖い。


 でも同時に、名前は守りにもなる。勝手に「野良」と呼ばれなくなる。誰かの都合で「危ない犬」と決められにくくなる。名前があると、“ここにいる理由”ができる。


 私は木札を指で軽く押さえた。落ち着くために。声を大きくするためじゃない。



 戸を叩く音がした。軽い音。急ぎじゃない音。


「入るぞ」


 キオだ。


 父が戸を開けると、キオは板を二枚抱えて立っていた。炭の字で書かれた当番表――朝と夕方の見回り、餌の時間、器の片づけ、水の器を洗う係。


 キオは机に板を置き、私の紙をちらりと見た。


「今日、書くこと多いな」


「……多いです」


 正直に言うと、少しだけ息がしやすくなる。


 父が湯を注いだ杯をキオに渡す。キオがひと口飲んだ。


「役所は昼前だ。今のうちに縄を張り直す。木札も見やすくする」


 短い言葉。短い言葉は動きやすい。


 父が頷いた。


「子どもが走らない道の木札、もう一枚立てるか?」


 キオが言う。


 私は少し考えてから答えた。


「入口の反対側にもあると、戻るときも読めます」


 キオが目を丸くして、それから笑った。


「なるほど。賢いな」


 恥ずかしい。でも、こういう恥ずかしさは嫌いじゃない。


 父は私を見て、短く言った。


「よく見てる」


 その一言で、胸の奥が温かくなった。



 外へ出ると空気が冷たかった。頬を洗われるみたいで、眠気が抜ける。


 居場所へ向かう道は、昨日より人が多い――けれど、集まっている人じゃない。通り過ぎる人だ。通り過ぎるだけなら、視線はまとまらない。


 縄のところには当番が立っていた。今日は商人と若い女の人。ふたりとも声が大きくならない人だ。選ぶのも、やり方のひとつ。


 読む係の子どもも、母親の横にいる。木札を見上げて、小さく声を出していた。


「……ちかづかない」


 母親が頷く。


「そうそう。そこから」


 私が近づくと、子どもがぱっと顔を上げた。


「ルミシア!」


 胸が跳ねる。私は手を上げた。


「おはよう」


「おはよう!」


 子どもは走り出しかけて――自分で止まった。


 それが、すごい。


 止まれた、ということがすごい。


 当番の商人が笑って言った。


「ほらな。木札、効くんだよ」


 若い女の人も頷く。


「読む係がいると、子どもが止まりやすいね」


 止まれるのは、強い。


 板の影では、はるが伏せていた。耳は立っている。目は忙しい。でも、体は動かない。声が落ち着いているから。縄があるから。木札があるから。当番がいるから。


 父が縄の端へ行き、結び目を確かめた。強く引っ張らない。必要な分だけ整える。


「ここ」


 父が言う。


 私は木札の位置を少し動かした。子どもの目の高さ。入口から見える角度。日差しが反射しにくい場所。


 キオが当番表の板を、縄の外側に立てた。誰が見ても分かる位置。分かるものは、噂より強い。


 準備が終わると、みんなの動きがいったん止まる。


 待つ時間になる。


 待つ時間は、心が勝手に想像を始める。


 ――もし、だめだと言われたら。


 ――もし、ここからいなくなったら。


 喉が乾く。私は木札を見た。短い言葉。分かる言葉。守る言葉。


 父が私の肩の近くに立って、低い声で言った。


「見られるのは、犬じゃない」


 私は父の横顔を見た。


「……じゃあ、何ですか」


「人だ」


 その言葉が胸に残った。


 当番の人。読む係の子ども。声を下げる人。片づける人。近づかない人。


 はるだけの問題じゃない。町のやり方の問題。守り方の問題。



 硬い靴音が近づいた。規則正しい音。役所の人の音だ。


 縄の外の人たちが、自然に道を空ける。誰かが叫んで道を作ったわけじゃない。自分で動いた。


 役所の人が三人、通りに入ってきた。男が二人、女が一人。紙の筒と、袋と、棒。


 背中が少し冷える。今日に限って――でも、今日だからこそ見せられる。


 役所の女がまず縄を見る。木札を見る。目線が速い。慣れている目線だ。


「縄の位置は良いですね」


 それだけで、胸のざわつきが少し落ちる。


 役所の男が当番表の板を見る。


「当番は回っていますか」


 キオが板を指さした。


「回っています。朝と夕方。餌の時間は短く。器は持ち帰って洗います。水の器も洗います」


 役所の男が頷いて、紙に何かを書いた。


 もう一人の男が周りを見る。子どもの位置。大人の位置。声の大きさ。


「今日は人が集まっていませんね」


 商人が言い訳しそうになって、口を閉じた。言い訳は増える。増えると場が揺れる。


 代わりに、読む係の子どもが小さく読んだ。


「……ちかづかない」


 役所の女がその子を見て目を細める。


「読む係ですか」


 母親が少し緊張した声で答えた。


「ええ……この子が、自分からやりたいって」


 役所の女が頷く。


「良いですね。子どもが自分で止まれるのが一番です」


 母親の肩が、少し下がった。


 役所の男が板の影へ視線を向ける。


「犬は」


 父がすぐ言った。


「近づけない。呼ばない」


 役所の男が頷く。


「確認します。見える位置に出てきますか」


 喉が乾く。見るために犬が動けば、視線が集まる。視線が集まれば警戒する。


 父が低い声で返した。


「無理に出さない。落ち着いているのが条件だ」


 役所の男は一瞬迷い、それから頷いた。


「それでいい。こちらが距離を守ります」


 その言葉が胸に落ちた。役所の人が「距離を守る」と言った。


 役所の女が縄の外側を歩き、板の影が見える位置で止まった。近づきすぎない。手を出さない。


 はるは伏せたままこちらを見た。目は忙しくなる。でも、吠えない。立たない。


 役所の女が小さく頷く。


「落ち着いていますね」


 役所の男が続けた。


「次は識別です。首輪は?」


 首輪、という言葉に胸がまたきゅっとなる。触る動作は距離を縮める。


 父が短く答えた。


「ない」


 役所の男が紙の筒を開く。


「木札でもいい。名前と管理者を示せるもの。人が勝手に触らないように、近づく理由にしない形で」


 私は布袋の中の板を思い出した。


 父が私を見る。目だけで確かめる。


 私は頷く。ここまで来たら、やるしかない。


 布袋から木札を取り出した。


『名前の木札 はる』


 役所の男が木札を見て頷く。


「名前は」


 私が答えた。


「はる、です」


 役所の女が、ほんの少しだけ微笑んだ。


「春。良い名前ですね」


 その一言で、名前が怖さだけじゃなくなる。


 役所の男が言った。


「取り付けるなら、犬が落ち着いているときに。無理はしない。管理者が行う。周囲は近づかない」


 キオが即答した。


「当番が縄の外を守ります」


 商人も頷く。


「子どもは止めます」


 読む係の子どもが小さく言った。


「……はしらない」


 その一言で場がそろう。そろうけれど、近づかない。


 父が私に言った。


「俺がやる。お前は木札を渡せ」


 私は頷いた。自分でやりたい気持ちはある。でも父の手は落ち着いている。落ち着いている手は、犬に刺さりにくい。


 父は縄の内側へ入らない。縄のぎりぎりで膝をつき、体を低くした。動きを小さくする。


 はるは伏せたまま鼻を動かす。父の匂いを知っている。でも今日は、いつもと違う動きがあるから耳が立つ。


 父が低い声で言った。


「はる」


 初めて、父が名前を口にした。


 呼びつける声じゃない。確かめる声だ。


 はるの耳が少しだけ動く。目が父の手を見る。


 父はそこで止まった。止まるのは、怖さを減らす。


 私は木札を父へ渡した。父は紐の輪を確かめる。首に負担がかからない長さ。引っかかりにくい形。


 父がもう一度、低い声で言った。


「大丈夫だ」


 誰に向けた言葉か分からない。犬にも、人にも、自分にも。


 はるがゆっくり頭を上げた。立ち上がらない。頭だけ。


 父はその瞬間に、紐をそっと首に回した。急がない。慌てない。


 紐が触れたとき、はるの体が一瞬だけ固くなる。私の息も止まりそうになる。


 でも父は、そこで止めた。無理に通さない。


 触れているだけにする。


「嫌ならやめる」


 低い声。正直な声。


 はるが父の指を一度だけ嗅いだ。嗅いで、止まって、もう一度嗅ぐ。


 それから、ゆっくり息を吐いた。白い息。落ち着いたときの息だ。


 父が紐を最後まで通す。木札が胸元に落ちた。


 からん、と乾いた音。


 名前が、形になった音。


 役所の女が小さく頷いた。


「……よくできました」


 当番の商人が、息を吐く。


「……おお」


 誰かが拍手しそうになって――やめた。やめられたのがいい。大きな音は犬に刺さる。


 読む係の子どもが、嬉しそうに小さく読んだ。


「……はる」


 はるは動かない。耳が少し揺れる。木札が胸元で揺れる。揺れても、吠えない。立たない。


 役所の男が紙に何かを書き、父とキオを見て言った。


「条件を満たしています。距離が守られ、当番が回り、餌と水の管理ができています。――このまま続けてください」


 胸の奥のざわつきが、すっと引いた。


 終わった。


 泣きは出ない。でも体が軽い。空が高く見える。


「犬の扱いは今のやり方で。人が集まりすぎないように。子どもが走らないように。火の元も気をつけてください」


 父が短く答える。


「分かった」


 キオも頭を下げた。


「続けます」


 役所の人が去り際に、役所の女が私を見て言った。


「あなたの記録は大事です。続けてください」


 私は頷いた。記録は、噂に負けない形だ。



 役所の人たちが通りの向こうへ消えると、町の人が少しずつ息を吐き始めた。張っていたものがほどけていく。


 商人が父に言った。


「……あんた、剣を抜かなくても、こういうことできるんだな」


 父は少し黙ってから答えた。


「剣は、最後だ」


 短い言葉の中に、父の全部が入っている気がした。


 若い女の人が私に言う。


「読む係、続けるって」


 読む係の子どもが胸を張った。


「うん! ぼく、よめるもん!」


 母親が笑って頭を撫でる。


「走らないのもね」


「うん!」


 胸の奥が温かくなる。町はすぐには変わらない。声も出るし、噂も生まれる。けれど、止めるやり方ができた。守るやり方ができた。



 夕方、家に戻る道で、はるは父の少し後ろを歩いた。走らない。勝手に近づかない。距離を知っている歩き方だ。


 胸元で木札が揺れる。


『はる』


 短い名前。


 家に着くと、父は鍋に火を入れた。祝いの料理じゃない。いつものスープ。いつものパン。いつもの湯。


 でも、いつもがあるのは嬉しい。


 私は机に向かい、今日の記録を書く。


 日付。天気。役所の人が来たこと。縄と木札と当番表を確認したこと。距離を守ったこと。読む係が読めたこと。名前の木札を付けたこと。はるが落ち着いていたこと。条件を満たしたと言われたこと。


 書いていると、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


 私は頷いて、杯を両手で包む。温かい。温かいと、今がここにある。


「……終わりましたね」


 父はすぐに答えない。言葉を急がない。急がない言葉は嘘になりにくい。


 しばらくして、低い声で言う。


「終わりじゃない。始まりだ」


 私は顔を上げた。


「始まり」


「続けることが残る」


 続けること。縄を張る。木札を立てる。見回る。片づける。声を下げる。手で止める。記録を書く。


 剣じゃない。毎日のこと。


 私は胸元の自分の名前の木札を指で押さえた。落ち着くために。


 窓の外で、はるが小さく息を吐いた。遠吠えじゃない。静かな息。木札が胸元でかすかに鳴った。


 夜になり、星が出た。空の星はいつも通りなのに、今日は少しだけ近く見えた。見上げる首が軽いからだと思う。


 縁側に出ると、父が隣に座った。肩が触れない距離。触れない距離は、安心する距離でもある。


「ルミシア」


 父が私の名を呼ぶ。


「はい」


「ここにいる」


 命令でも確認でもない。言い聞かせる言葉だった。父が自分に言い聞かせているみたいにも聞こえる。


 私は星を見たまま答えた。


「……ここにいます」


 星の光が黒い髪の先を少しだけ冷たくする。けれど、その冷たさは嫌じゃない。澄んだ冷たさだ。


 私は心の中で、遠いところにいる“星の神”を思う。見ている。確かめる。判断する。そういう役目が私にはある。


 でも、今日の私はそれだけじゃない。


 父の隣に座る娘で、机に記録を書く子で、木札を立てる手を持っている。


 そして、はるの木札に書かれた名前を知っている。


 庭の端で、はるが丸くなった。眠る前に、胸元の木札が一度だけ揺れた。


 小さな音。


 私はその音に、胸の奥で静かに頷いた。


 今日、町は決めた。


 近づかない。走らない。置きっぱなしにしない。片づける。見回る。守る。


 父は剣を抜かなかった。抜かないまま、町のやり方を整えた。


 星は何も言わない。


 でも静かな光で、「見ている」とだけ教えてくれる。


 父が隣で、短く言った。


「よし」


 私は小さく頷いた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


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