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第5話 結び目は戻れる

私の髪は、夜の色をしている。


黒い、というより――夜。

月のない空の、深い色。


光を吸い込むみたいに見えるのに、湯気の向こうでは柔らかく揺れる。


幼い頃の私は、その髪が好きだった。

触ると指先がすべって、するりと逃げていく。


だから私はよく、髪をつかもうとして、つかみ損ねて、指を空に開いていた。


けれど髪は、成長と一緒に増えていく。


増えると、世界に触れる。

頬に触れる。首に触れる。そして――目に触れる。


目に触れた瞬間、世界は急に不機嫌になる。


見えない。

見えないのに、何かが近い。


近いのに、どこなのか分からない。


私はその不確かさが苦手だった。



ある朝、湯気の匂いが部屋に満ちて、火鉢の赤が小さく息をしていた朝。


髪が目にかかるたび、私は眉を寄せてしまっていた。


父はその顔を見た。


父はいつも、私の泣き声や怒りを「問題」にしない。

直す前に、まず確かめる。


どこが痛いのか。

どこが怖いのか。

何が嫌なのか。


言葉を持たない私の代わりに、父は表情を読む。


父は椀を置き、布で指を拭いてから、私の前にしゃがんだ。

床を鳴らさない。私の目が追いつく速度で、体を低くしてくれる。


父は額にかかる髪を、そっと持ち上げた。

硬い指の腹。剣を握ってきた指。


けれどその指は、髪を引っ張らない。


「……邪魔か」


短い問い。

短いけれど、ちゃんと私へ向いた問い。


私は答えられない。

だから目をぎゅっと閉じて、手で顔を覆った。


それが私の「嫌だ」だった。


父は小さく息を吐いた。

怒りの息じゃない。考えるための息。


そして立ち上がり、部屋の隅へ向かった。


積まれた布の中から、細い紐を一本探し出す。

地味な色。飾りはない。触れると少し硬い。新しい布の匂いがした。


父は紐を持って戻り、私の後ろへ回った。


背中で何かが起きるのは怖い。

見えないところには、星の糸みたいな冷たいものが潜む気がする。


私は少しこわばった。


父はすぐには触れなかった。

急がない。いきなり結ばない。


低い声で言う。


「……動くな。痛くはしない」


意味より先に温度が届く。

私は少しだけ肩の力を抜いた。


父は私の髪を、ゆっくり集めた。

指が髪を滑っていく。引っ張られない。


父は髪を束ね、紐を回した。


一回。

二回。


――そこで止まる。


指先が迷っている。

結び目を作る手は、剣を握る手とは違う。


細いものは、力を入れすぎると切れる。


父は紐を引いた。

引きすぎたのか、髪が少し引かれて、私は顔をしかめた。


父の動きが、ぴたりと止まる。


「……すまない」


父はよく謝る。

私が痛いと言えない代わりに、父が先に謝ってしまう。


謝ることで、私を人として扱う。


父は指をほどき、もう一度ゆっくり紐を回した。

今度は引っ張らない。触れるだけ。形を探すだけ。


そして、ようやく結び目ができた。


不格好だった。

左右の輪が違う大きさで、片方が少し長い。


でも私はその不格好さが好きだった。

父の手が、そこに残っている形だったから。


父が短く言う。


「……よし」


勝利の「よし」じゃない。

日常が整った「よし」。


私は恐る恐る前髪に手をやった。

目の前が少しだけ広い。髪が目にかからない。


世界が、ちゃんと見える。


私は息を弾ませた。声にならない「嬉しい」。


父が後ろから、そっと頭を撫でた。

不器用で、指の腹が少し引っかかる。


でもその引っかかりが、確かにあたたかい。



――その日は、うまくいく日じゃなかった。


結び目は、完成した瞬間が一番弱い。

まだその場所に馴染んでいないから。


私は嬉しくて、体を動かしすぎた。


部屋の中を歩き回り、椅子の背に手を伸ばし、勢いよく引く。


その瞬間。


頭の後ろが、ふっと軽くなった。


結び目がほどけた。


髪がするりと落ちてくる。

目にかかる。頬にかかる。首にかかる。


世界がまた狭くなる。


見えない。

どこにいるか分からない。何が近いか分からない。


胸が縮んで、息が詰まり、手が空を掴む。

掴んだのは髪だった。髪は逃げる。


逃げると焦る。焦ると――私は泣いた。


泣いたというより、叫ぶような息を吐いた。

助けを呼ぶ音。


父の足音が近づく。静かで、でも速い。

父は私の前にしゃがみ、顔の前の髪を指で避けた。


「……ほどけたな」


落ち着いた声。

その落ち着きが、私の心臓を少しだけ静かにする。


父は涙を拭いた。

泣き止め、と言わない。泣いていい、とも言わない。


父は、泣き声の理由を先に消す。


父は私を抱き上げ、椅子に座った。

膝に乗せ、背中を胸に預けさせる。


目の前に外套の布。

布の匂い。私はそこでやっと息が吸える。


父は床に落ちた紐を拾い上げ、指でつまんで見つめた。

小さな敵を観察するみたいに。


そして今度は、言わずに結び直した。


一回。

二回。


結び目を作る瞬間、父は動きを止めた。

ほんの一拍。呼吸を置く。


それから、ゆっくり結ぶ。


今度は、ほどけにくい形になった。

輪はまだ左右で違う。けれど中心がしっかりしている。


父は端を軽く引いて確かめる。

引きすぎない。形が保てるかを見るだけ。


父は、私の耳元で低く言った。


「……ほどけても、結び直せる」


ただの説明じゃなかった。

父が自分に言い聞かせている声でもあった。


ほどけることは、終わりじゃない。

戻れないことじゃない。


私は泣きながら、その声の温度を聞いた。

意味は分からない。


けれど胸の奥で、別の何かがほどけた。


髪じゃない。

怖さの固まりだ。


泣き声が少しずつ小さくなる。


父は私の背中へ手を置いた。

叩くというより、そこに重みを置く。


その重みが、私をここに固定する。


父が短く言う。


「……よし」


そして、私の名を呼ぶ。


「ルミシア」


名は戻り道だった。

泣いても、ほどけても、戻れる音。


私は父の外套を掴んだ。

父はその手を上から包んだ。


ほどくためじゃない。支えるための手だった。



その日から、結び目は毎日の儀式になった。


朝、湯気が立ち、火鉢が赤く息をしているとき。

父は私を椅子に座らせ、背中に回る。


私は少しだけ体を固くする。

父はそれに気づいて、必ず短く言う。


「……痛くしない」


そして結ぶ。


父の結び目はいつも不格好だ。

端が長すぎたり、輪が片方だけ小さかったりする。


そのたび私はむっとする。

むっとすると、父の口元が少しだけ丸くなる。


父は直す。

直すことを、恥だと思っていない。


ほどけたら結び直す。

痛かったらやり直す。


父の「守り」は、いつもそうだった。



風の強い夕方があった。


窓の布が揺れ、家が鳴る。

私はその音に怯えて、父の外套にしがみついた。


父は私を抱えたまま窓へ行き、布の結び目を確かめる。

ほどけていないか。隙間ができていないか。


それから、私の髪の結び目にも指を当てた。

同じように。確かめるように。


父が小さく言う。


「……結び目は、嘘をつかない」


ほどけるときはほどける。

緩むときは緩む。


だから確かめる。直す。

それだけでいい。


父は窓の結び目を少し締め直し、私の髪の結び目も、ほんの少し整えた。


誰も拍手をしない作業。

英雄の剣みたいに語られない。


でも私は知っている。


この結び目があるから、私は息を吸える。

この結び目があるから、私は今日を続けられる。


父は火鉢の前へ戻り、湯を沸かし、部屋の空気を柔らかくした。

そして名を呼ぶ。


「ルミシア」


胸の奥に火がともる。

結び目がほどけても、名がある。名があれば戻れる。


私はまだ上手く言葉を話せない。

でも、その瞬間だけは分かった気がした。


父が結んでいるのは、髪だけじゃない。


私と世界の間に、ほどけても戻せる「道」を結んでいる。


それが、父の強さだ。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


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