第5話 結び目は戻れる
私の髪は、夜の色をしている。
黒い、というより――夜。
月のない空の、深い色。
光を吸い込むみたいに見えるのに、湯気の向こうでは柔らかく揺れる。
幼い頃の私は、その髪が好きだった。
触ると指先がすべって、するりと逃げていく。
だから私はよく、髪をつかもうとして、つかみ損ねて、指を空に開いていた。
けれど髪は、成長と一緒に増えていく。
増えると、世界に触れる。
頬に触れる。首に触れる。そして――目に触れる。
目に触れた瞬間、世界は急に不機嫌になる。
見えない。
見えないのに、何かが近い。
近いのに、どこなのか分からない。
私はその不確かさが苦手だった。
◇
ある朝、湯気の匂いが部屋に満ちて、火鉢の赤が小さく息をしていた朝。
髪が目にかかるたび、私は眉を寄せてしまっていた。
父はその顔を見た。
父はいつも、私の泣き声や怒りを「問題」にしない。
直す前に、まず確かめる。
どこが痛いのか。
どこが怖いのか。
何が嫌なのか。
言葉を持たない私の代わりに、父は表情を読む。
父は椀を置き、布で指を拭いてから、私の前にしゃがんだ。
床を鳴らさない。私の目が追いつく速度で、体を低くしてくれる。
父は額にかかる髪を、そっと持ち上げた。
硬い指の腹。剣を握ってきた指。
けれどその指は、髪を引っ張らない。
「……邪魔か」
短い問い。
短いけれど、ちゃんと私へ向いた問い。
私は答えられない。
だから目をぎゅっと閉じて、手で顔を覆った。
それが私の「嫌だ」だった。
父は小さく息を吐いた。
怒りの息じゃない。考えるための息。
そして立ち上がり、部屋の隅へ向かった。
積まれた布の中から、細い紐を一本探し出す。
地味な色。飾りはない。触れると少し硬い。新しい布の匂いがした。
父は紐を持って戻り、私の後ろへ回った。
背中で何かが起きるのは怖い。
見えないところには、星の糸みたいな冷たいものが潜む気がする。
私は少しこわばった。
父はすぐには触れなかった。
急がない。いきなり結ばない。
低い声で言う。
「……動くな。痛くはしない」
意味より先に温度が届く。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
父は私の髪を、ゆっくり集めた。
指が髪を滑っていく。引っ張られない。
父は髪を束ね、紐を回した。
一回。
二回。
――そこで止まる。
指先が迷っている。
結び目を作る手は、剣を握る手とは違う。
細いものは、力を入れすぎると切れる。
父は紐を引いた。
引きすぎたのか、髪が少し引かれて、私は顔をしかめた。
父の動きが、ぴたりと止まる。
「……すまない」
父はよく謝る。
私が痛いと言えない代わりに、父が先に謝ってしまう。
謝ることで、私を人として扱う。
父は指をほどき、もう一度ゆっくり紐を回した。
今度は引っ張らない。触れるだけ。形を探すだけ。
そして、ようやく結び目ができた。
不格好だった。
左右の輪が違う大きさで、片方が少し長い。
でも私はその不格好さが好きだった。
父の手が、そこに残っている形だったから。
父が短く言う。
「……よし」
勝利の「よし」じゃない。
日常が整った「よし」。
私は恐る恐る前髪に手をやった。
目の前が少しだけ広い。髪が目にかからない。
世界が、ちゃんと見える。
私は息を弾ませた。声にならない「嬉しい」。
父が後ろから、そっと頭を撫でた。
不器用で、指の腹が少し引っかかる。
でもその引っかかりが、確かにあたたかい。
◇
――その日は、うまくいく日じゃなかった。
結び目は、完成した瞬間が一番弱い。
まだその場所に馴染んでいないから。
私は嬉しくて、体を動かしすぎた。
部屋の中を歩き回り、椅子の背に手を伸ばし、勢いよく引く。
その瞬間。
頭の後ろが、ふっと軽くなった。
結び目がほどけた。
髪がするりと落ちてくる。
目にかかる。頬にかかる。首にかかる。
世界がまた狭くなる。
見えない。
どこにいるか分からない。何が近いか分からない。
胸が縮んで、息が詰まり、手が空を掴む。
掴んだのは髪だった。髪は逃げる。
逃げると焦る。焦ると――私は泣いた。
泣いたというより、叫ぶような息を吐いた。
助けを呼ぶ音。
父の足音が近づく。静かで、でも速い。
父は私の前にしゃがみ、顔の前の髪を指で避けた。
「……ほどけたな」
落ち着いた声。
その落ち着きが、私の心臓を少しだけ静かにする。
父は涙を拭いた。
泣き止め、と言わない。泣いていい、とも言わない。
父は、泣き声の理由を先に消す。
父は私を抱き上げ、椅子に座った。
膝に乗せ、背中を胸に預けさせる。
目の前に外套の布。
布の匂い。私はそこでやっと息が吸える。
父は床に落ちた紐を拾い上げ、指でつまんで見つめた。
小さな敵を観察するみたいに。
そして今度は、言わずに結び直した。
一回。
二回。
結び目を作る瞬間、父は動きを止めた。
ほんの一拍。呼吸を置く。
それから、ゆっくり結ぶ。
今度は、ほどけにくい形になった。
輪はまだ左右で違う。けれど中心がしっかりしている。
父は端を軽く引いて確かめる。
引きすぎない。形が保てるかを見るだけ。
父は、私の耳元で低く言った。
「……ほどけても、結び直せる」
ただの説明じゃなかった。
父が自分に言い聞かせている声でもあった。
ほどけることは、終わりじゃない。
戻れないことじゃない。
私は泣きながら、その声の温度を聞いた。
意味は分からない。
けれど胸の奥で、別の何かがほどけた。
髪じゃない。
怖さの固まりだ。
泣き声が少しずつ小さくなる。
父は私の背中へ手を置いた。
叩くというより、そこに重みを置く。
その重みが、私をここに固定する。
父が短く言う。
「……よし」
そして、私の名を呼ぶ。
「ルミシア」
名は戻り道だった。
泣いても、ほどけても、戻れる音。
私は父の外套を掴んだ。
父はその手を上から包んだ。
ほどくためじゃない。支えるための手だった。
◇
その日から、結び目は毎日の儀式になった。
朝、湯気が立ち、火鉢が赤く息をしているとき。
父は私を椅子に座らせ、背中に回る。
私は少しだけ体を固くする。
父はそれに気づいて、必ず短く言う。
「……痛くしない」
そして結ぶ。
父の結び目はいつも不格好だ。
端が長すぎたり、輪が片方だけ小さかったりする。
そのたび私はむっとする。
むっとすると、父の口元が少しだけ丸くなる。
父は直す。
直すことを、恥だと思っていない。
ほどけたら結び直す。
痛かったらやり直す。
父の「守り」は、いつもそうだった。
◇
風の強い夕方があった。
窓の布が揺れ、家が鳴る。
私はその音に怯えて、父の外套にしがみついた。
父は私を抱えたまま窓へ行き、布の結び目を確かめる。
ほどけていないか。隙間ができていないか。
それから、私の髪の結び目にも指を当てた。
同じように。確かめるように。
父が小さく言う。
「……結び目は、嘘をつかない」
ほどけるときはほどける。
緩むときは緩む。
だから確かめる。直す。
それだけでいい。
父は窓の結び目を少し締め直し、私の髪の結び目も、ほんの少し整えた。
誰も拍手をしない作業。
英雄の剣みたいに語られない。
でも私は知っている。
この結び目があるから、私は息を吸える。
この結び目があるから、私は今日を続けられる。
父は火鉢の前へ戻り、湯を沸かし、部屋の空気を柔らかくした。
そして名を呼ぶ。
「ルミシア」
胸の奥に火がともる。
結び目がほどけても、名がある。名があれば戻れる。
私はまだ上手く言葉を話せない。
でも、その瞬間だけは分かった気がした。
父が結んでいるのは、髪だけじゃない。
私と世界の間に、ほどけても戻せる「道」を結んでいる。
それが、父の強さだ。
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