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第49話 火事寸前、犬の遠吠えとバケツの輪

 朝の光はやわらかいのに、鼻の奥が先にざらついた。


 焦げた匂い。


 台所の火ではない。湯気の匂いでもない。もっと乾いていて、薄くて、でも確かに喉に引っかかる匂いだった。


 父も同じ匂いを感じたらしく、動きが一段早くなった。早くなっても、乱れない。戸口に立ち、外の風を一度だけ確かめてから言う。


「煙だ」


 短い言葉だけで、体の奥が冷える。


 向かったのは犬の居場所ではない。町の端、倉庫が並ぶ通りだった。木の箱を積む場所。縄を張って、子どもが入りにくいようにしている場所――そう、しているはずの場所。


 近づくほど匂いが強くなる。けれど火が見えるほどではない。だからこそ怖い。見えない火は、静かに増える。


 曲がり角を抜けた瞬間、私は息をのんだ。


 白い煙が、倉庫の隙間からふわっと漏れていた。


 そして、その前に――はるがいた。


 板の影でも、居場所でもない。倉庫の壁際、誰もいないはずの場所に立っている。耳が立ち、鼻先が煙のほうへ向く。体は緊張しているのに、前へ飛び出さない。


 代わりに、喉から細い声を漏らしていた。


 吠える声じゃない。怒る声でもない。


 遠くへ伸びる、長い声。遠吠え。


 その声が、通りの人を止めていた。


「……犬が、いる」


「やばい、火か?」


 言葉が出る。けれど、まだ叫びにはなっていない。ここで声が跳ねたら、ひとつ増える。人が増える。煙のそばに人が集まる。事故が起きる。最悪、火が回る。


 父は一歩前に出て、低い声で言った。


「走るな」


 言い切る。短く。怒鳴らない。


「水を持て。バケツだ」


 次の言葉は指示だ。指示は人を動かす。動けば、勝手な叫びが減る。


 当番の若い男がすぐに反応した。昨日から見回りの輪ができている。輪があると、誰かが先に動ける。


「おい、バケツ! 井戸からだ!」


 商人も動く。


「箱をどけろ! 通りを空けろ!」


 声は大きい。でも叫びではない。目的のある声だ。目的のある声は、場を壊しにくい。


 私は父の横で、布袋を握ったまま立っていた。役に立つことを探すのに、頭が追いつかない。


 父が私を見る。


「お前は、子どもを止めろ」


 私は頷いて周りを見た。匂いを嗅ぎつけた子どもたちが、遠巻きに集まり始めている。火は子どもにとって「見たいもの」だ。見たいものは足を速くする。


 私は布袋から木札を取り出した。


『この道は走らない』


 通りの入口に立てる。子どもの目の高さに合わせる。それから声を小さくして言った。


「走らない。ここは止まる」


 読む係の子どもが、母親の横で木札を見上げ、すぐに真似をした。


「……このみちは、はしらない」


 子どもの声が出ると、子どもの足は止まりやすい。叱られるより、言葉が先に届く。


 煙のそばでは、大人たちが桶を運び、箱をどけ、壁際へ水をかけ始めた。倉庫の板の隙間から、かすかに赤い光が見えた。小さい。けれど、そこにある。


 父は倉庫の前で足を止めた。剣に触れないまま、距離を測る。煙の流れを読む。人の位置を整える。


「中に入るな」


 父の声が低く響く。


「板が落ちる。煙を吸う」


 誰かが言い返しかけたが、父の目を見て止まった。父は威圧しない。でも、止める力がある。


 はるは父の少し後ろにいた。遠吠えをやめ、鼻で煙を確かめている。逃げない。近づかない。守るように立っている。


 胸の奥がざわついた。


 どうして、ここにいるの?


 今まで「縄」と「木札」と「当番」で守ってきた距離の外側に、はるがいる。仕組みの外にいるものは怖い。怖いのに、今のはるは――危なくない動きをしている。


 バケツの輪ができた。


 井戸から倉庫まで、人が並ぶ。水が手渡される。手渡しは遅い。でも落としにくい。慌てず運べば、騒ぎになりにくい。


「次!」


「受け取る!」


 短い言葉が続く。短い言葉は増えにくい。


 水が壁に当たり、じゅっと音がして、煙が一段薄くなった。赤い光が弱くなる。けれど、まだ消えない。


 そのとき、倉庫の裏手から小さな影が飛び出した。


 子どもだ。


 小さな子が、煙の向こうへ回り込もうとしている。火を見たいのか、怖くて誰かを探しているのか、理由は分からない。けれど足が速い。


「待て!」


 誰かが叫びそうになった瞬間、当番の若い男が手を上げた。声ではなく、手で止める。


 そして読む係の子どもが、先に声を出した。


「走らない!」


 その声で、走っていた子が一瞬止まった。止まった瞬間に、母親が駆け寄って抱き上げた。抱き上げる動きは大きい。でも、叫びがない。叫びがないだけで場は壊れない。


 父が低い声で言った。


「よし」


 その短い「よし」が輪の中に落ちると、みんなの動きが少し揃った。


 最後に父が、倉庫の板の隙間へ桶の水を一気に流し込み、赤い光が消えた。煙が薄くなる。匂いが少しだけ軽くなる。


 火事寸前。


 そう言えるところで、止まった。



 輪がほどけ始めたとき、最初に出るのは言葉だ。


「危なかったな」


「誰だよ、火を残したの」


「犬がいたぞ、あれ」


 犬、という言葉が出ると、視線がはるに集まる。視線が集まると、耳が立つ。耳が立つと、また誰かが怖がる。


 喉が乾いた。


 父が、はるの前に影を落とす位置に立ち、低い声で言った。


「見るな。近づくな」


 それだけで、何人かの足が止まる。止まれば、視線も散る。


 キオが息を切らしてやってきた。状況を見て、すぐに言った。


「消えたか」


 父が頷く。


「消えた」


 キオがはるを見る。


「……こいつ、知らせたのか」


 はるは反応しない。ただ鼻先を地面へ下げ、匂いの残りを確かめている。逃げない。飛びかからない。吠えない。


 それでも人は言う。


「犬がいたから危なくなったんじゃないか」


 怖さの声だ。怖さは、誰かに預けたくなる。預ける先が犬になりやすい。


 私は息をひとつ置いて、声を小さくして言った。


「犬は、火を作れません」


 当たり前のことを当たり前に置く。置けば、戻ることがある。


 相手がこちらを見る。私は続ける。


「匂いに気づいて、知らせたんだと思います。遠吠えしてました」


 「遠吠え」という言葉は、吠え声より柔らかい。攻撃に聞こえにくい。


 キオが頷いた。


「俺も聞いた。あれで来た」


 当番の商人も頷く。


「俺もだ。犬が鳴いてるって聞いて、見に来たら煙だった」


 証言が増えると、噂が減る。噂はひとつの強い声で走るけれど、事実は小さな声で集まる。


 怖がっていた男が少し黙った。黙ると、場が戻る。


 父が低い声で言った。


「火の元を調べる。話はそれからだ」


 みんなの目が犬から倉庫へ戻る。戻れば、犬は落ち着く。


 倉庫の裏手で、焦げた布切れと、炭になりかけた紙が見つかった。誰かが乾かすために置いたのだろう。風で寄って、板の隙間に入り、火種になった。


 悪意じゃない。


 うっかりだ。


 うっかりは責めすぎると隠れる。隠れると次が止められない。だから父は責めない。


 父は低い声で言った。


「乾かすなら、火から離せ」


 キオが頷いた。


「倉庫の前に……貼り紙じゃなく、木札だな。『火の近くに置かない』ってやつ」


 私は頷いた。木札は今の町に合う。風で飛ばない。濡れても破れにくい。言葉が短い。



 そして、その場へ――役所の人が来た。


 硬い靴音が、通りの端で止まる。


 男が二人。女が一人。前に来た顔だ。紙の筒を持っている。袋を抱えている。腰に棒を下げている。


 背中が少し冷えた。今日に限って。けれど今日だからこそ見せられるものもある。


 役所の男が、煙の残りを見て低い声で言った。


「……騒ぎがあったと聞いて」


 父が頭を下げる。必要な形だけ。


「火が出た。消した」


 言葉は短い。余計な飾りがない。


 役所の女が周りを見る。バケツ。濡れた地面。ほどけかけた輪。それでも散らばらない人の位置。


「誰が指示を?」


 父が言う。


「当番が動いた。俺は止めただけだ」


 役所の男が眉を動かす。


「当番?」


 キオが板を見せた。昨日から作った当番表。板に炭で書いた、朝と夕方の見回りの輪。


「これです。見回り。餌の時間。器の片づけ。子どもが走らないように声かけ」


 役所の男は板を見て、女に目を向けた。女が頷く。


「仕組みができていますね」


 その言葉が胸に落ちた。仕組み。やり方。形だけじゃない。動いているもの。


 役所の男がはるを見る。距離は保ったまま。


「犬は……」


 父が先に言った。


「近づけない。呼ばない」


 役所の男が頷く。


「今日は、吠えましたか」


 私は息をひとつ置いて答えた。


「遠吠えです。知らせるみたいに。人が集まる前に、先に気づいたみたいでした」


 役所の女が小さく頷く。


「……距離を守れれば、事故は減る。今日、事故は?」


「ありません」


 キオが即答した。即答できるのは、見回りがあるからだ。誰かが見ているからだ。


 役所の男は紙に何かを書き、最後に父を見た。


「最終の確認を近いうちにします」


 最終、という言葉で通りの空気が少しだけ変わった。終わりが近い。決まる日が近い。決まる日は怖い。


 でも、怖さだけじゃない。


 決まる日は、形が実る日でもある。



 役所の人が去ったあと、当番の商人がぽつりと言った。


「今日の犬……助けになったってことだよな」


 キオが頷いた。


「少なくとも、知らせた」


 怖がっていた男も小さく言った。


「……遠吠え、ってのは、そういう時にするのか」


 私は頷く。


「たぶん。怖がらせるためじゃなくて」


 父が低い声で言った。


「決めるのは明日じゃない。今日、片づける」


 今日、片づける。火の後始末。濡れた道。焦げた布。木札の追加。やることは山ほどある。やることがあると、余計な話が減る。


 夕方、私は机に向かい、今日の記録を書いた。


 日付。天気。煙の匂い。倉庫の板の隙間。バケツの輪。子どもが走りそうになったこと。手で止められたこと。読む係の声が役に立ったこと。はるの遠吠え。役所が来たこと。当番表を見せたこと。事故がなかったこと。


 書いていると、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


 私は頷いて、杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。


 父はしばらく黙って、窓の外を見た。空の青が薄くなり、星が出る前の色になっている。


「名を用意するか」


 父が言った。


 胸がきゅっとなる。


「……はるの?」


「そうだ」


 すぐに言葉が出なかった。名は動かす。名は人を集める。名は犬を向かせる。だから今まで、呼ばなかった。


 けれど――今日の遠吠えは、名がなくても届いた。距離が守られていれば、犬は暴れなかった。輪があれば、人は叫ばなかった。


 私は息をひとつ置いて言った。


「名前の木札にしますか」


 父が頷く。


「木札なら、形が残る」


 父はそこで言い換えた。


「やり方が残る」


 私は頷いた。


 名は、ただ呼ぶためじゃない。守るためにも使える。登録のためでもある。町の人が「ここまでなら大丈夫」と分かるためでもある。


 私は木の板を一枚持ってきた。炭を持つ手が少し震える。でも、字は震えないようにゆっくり書いた。


『名前の木札 はる』


 短い。はっきり。読める字。


 父はそれを見て、目を細めた。


「いい」


 夜、窓の外に星が出た。星は静かで、遠い。遠いのに、見える。見えるものは胸を落ち着かせる。


 私は胸元の自分の名前の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。


 明日は、最終の確認があるかもしれない。


 明日は、決まる日になるかもしれない。


 けれど今日は、火が止まった。


 輪が動いた。


 犬の遠吠えが、町を動かした。


 そして、名前の木札がひとつ増えた。


 父が台所から短く言った。


「よし」


 私は小さく頷いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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