表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

48/78

第48話 子ども騒動、泣き声の連鎖

 朝、居場所へ向かう道は、いつもより音が多かった。


 桶が当たる音。木箱を引きずる音。誰かの笑い声。音が多いと、ひとつの小さな音が紛れやすい。紛れた音は、あとから急に大きくなる。


 私は布袋を握り直した。中には拭き布と細い紐、それから新しい注意の木札が一枚。昨日の当番表は、ちゃんと回り始めている。回り始めたからこそ、気が緩む人もいる。気が緩むと、足が速くなる。


 父は少し前を歩いている。背中は揺れない。揺れない背中を見ていると、私の足も揺れにくい。


「今日は“止める”を増やす」


 父が低い声で言った。


 私は頷いた。止める。増やさない。守る。今の町に必要な言葉は、少ないほうがいい。



 居場所の角を曲がると、縄の外に当番の人が立っていた。今日は二人。ひとりは商人、もうひとりは若い男。どちらも声が大きくなりやすい人だ。だからこそ当番にする意味がある。声が大きくなる前に、声を使う場所を決める。


 読む係の子どももいた。母親の横。子どもは木札を見上げて、声を小さくして読む練習をしている。


「……ちかづかない」


 その声は、昨日より少し上手だった。


 はるは板の影に伏せている。耳が立っている。目が忙しい。でも喉の音はない。縄があり、当番がいて、声が短いからだ。


 私は少しだけ胸を撫で下ろした。


 撫で下ろした瞬間、遠くで甲高い声が跳ねた。


「待ってー!」


 子どもの声。


 声の次に、足音が来た。軽い足音。軽い足音は止まりにくい。


 縄の外の道を、二人の子どもが走ってくる。ひとりが逃げるように走り、もうひとりが追うように走る。遊びの追いかけっこだ。遊びは悪くない。でも、場所が悪い。


 当番の商人が声を出した。


「おい! 走るな!」


 止めようとしている声だ。でも声が大きい。大きい声は視線を集める。視線が集まると、犬の耳が立つ。


 はるの耳がさらに立った。目が鋭くなる。体が少し起き上がる。


 喉が熱くなった。


 父が低い声で言った。


「声を下げろ」


 商人がハッとして、声を落とす。


「……止まれ。ここは走るな」


 言い方が変わると、場の形も変わる。


 けれど子どもは止まらない。止まれない勢いだ。


 縄の手前で、逃げていた子がつまずいた。転ばなかった。でも足がもつれて、ぐらっと横へ寄った。


 寄った先が、縄の近くだった。


 当番の若い男が慌てて腕を伸ばし、子どもの肩を掴んで止めた。掴み方は乱暴じゃない。でも急な動きだ。急な動きは犬に刺さる。


 はるが立ち上がった。


 立ち上がるだけで、空気が変わる。犬が“立つ”のは準備の動きだ。逃げる準備か、守る準備か。どちらにせよ、危ない場所だ。


 追っていた子が、立ち上がったはるを見て足を止めた。


「……犬だ」


 子どもの声が、怖いほうへ傾く。怖いが出ると、泣きが出る。泣きが出ると、大人が慌てる。慌てると声が大きくなる。大きくなると、人が集まる。


 連鎖が見えて、息が浅くなった。



 父が、居場所の内側へ入らないまま一歩前に出た。犬と子どもの間に影を落とす位置。影が落ちると、犬の目線が少しずれることがある。


 父は低い声で言った。


「止まれ」


 子どもに向けた言葉でもあり、犬に向けた言葉でもある。


 当番の若い男が、子どもを自分の背中側へ寄せた。縄から離す。離せば、距離が戻る。


 読む係の子どもが、母親の服の端を握りながら小さく木札を読んだ。


「……はしらない」


 声は小さい。けれど、場にとっては大きい。大人の叱る声より、子どもの読む声のほうが刺さらない。


 逃げていた子が、ようやく息を整えた。目に涙が溜まっている。泣きそう。泣けば、母親が叫ぶかもしれない。


 私は息をひとつ置いて、しゃがんだ。目線を下げる。声も下げる。短い言葉で止める。


「ここ、走ると危ないよ」


 逃げていた子が唇を尖らせる。


「だって、追いかけられて……」


「追いかけっこは、あっち」


 私は道の反対側、広い空き地を指さした。指さすと、目がそっちへ行く。目が行くと、足も行きやすい。


 追っていた子が、指の先を見た。


「……あっちならいいの?」


「うん。ここは“見てる場所”」


 私は縄を指さした。


「縄の向こうは、行かない」


 二人の子どもが頷きかけた、そのとき――。


 別の大人が、遠くから叫んだ。


「何してる! 危ないだろ!」


 叫び声は大きい。大きい声は人を集める。集まると犬が警戒する。


 はるの耳がまた立つ。目が鋭くなる。立ち上がった体が、少し前へ出そうになる。


 喉が鳴った。叫びたくなる。でも叫べない。叫ぶと同じになる。


 父が叫んだ大人へ視線だけ向け、低い声で言った。


「声を下げろ」


 低い声は遠い大人には届かない。けれど当番には届く。読む係の子にも届く。今、止めるべき輪に届けばいい。



 ちょうどキオが来た。状況を一目で見て、すぐに動く。


 キオは叫んだ大人のほうへ歩きながら手を上げた。手を上げるのは「止まれ」の合図になる。


「大丈夫だ。今、止めてる」


 声は大きくない。届く声。届く声で、遠い大人の足を止める。


 遠い大人が息を詰まらせ、歩幅を小さくした。大声を続けない。続けなければ、場は戻る。


 当番の若い男が、逃げていた子の肩から手を離し、代わりに背中を軽く押した。


「こっちだ。広いところで遊べ」


 押し方が優しい。優しい押し方は、子どもの足を動かす。


 二人の子どもが空き地のほうへ走っていく。今度は縄のほうへ向かわない。向かわないだけで、勝ちだ。


 はるの体が、少しずつ伏せる方向へ戻った。耳が柔らかい角度になる。目の鋭さが少し薄れる。


 胸の奥で、ようやく息が吐けた。



 当番の商人が、苦い顔で言った。


「俺、つい声がでかくなる」


 キオが頷く。


「だから当番だ。気づけるなら直せる」


 父が低い声で言った。


「次は“手”で止めろ」


 商人が眉を上げる。


「手?」


 父は自分の手を軽く上げた。大きく上げない。合図だけ。


「手を上げて止める。声は後だ」


 なるほど、と思った。声より手のほうが犬には刺さりにくい。音が少ない。目で止まる。


 私は持っていた木札を見た。文字を書く前の板だ。ここにも短い言葉が必要だ。


 炭を取り出し、板に書いた。


『この道は走らない』


 短い。具体。子どもにも読める。


 キオが頷いた。


「それ、縄の外の道に立てよう」


 “道に立てる”。立てるだけで、人の足は止まりやすい。止まるきっかけができる。



 夕方。餌の時間。


 今日の当番が交代で来た。読む係の子も来た。子どもは少し誇らしげに、新しい木札を指でなぞる。


「……このみちは、はしらない」


 自分で作った言葉ではないのに、自分の言葉みたいに読んでいる。言葉が“自分ごと”になっている。


 父が皿を滑らせる準備をしながら、低い声で言った。


「今日の勝ちは、犬を動かさなかったことだ」


 私は頷いた。動かさないために、私たちは動いた。止めた。短く言った。手で止めた。木札を立てた。


 帰り道、空は青から黒へ移り、星が増えた。星は静かだ。静かなものは、胸の奥を落ち着かせる。



 家に戻ると、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座り、今日のことを書いた。


 日付。天気。子どもが走ったこと。犬が立ち上がったこと。大声が出そうになったこと。声を落とせたこと。手で止めるやり方を教わったこと。『この道は走らない』の木札を作ったこと。夕方、読む係が読めたこと。犬が落ち着いたこと。


 書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


 私は頷いて杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。


 杯の湯気を見ながら、小さく言った。


「……連鎖って、早いですね」


 父はすぐに答えない。けれど、少ししてから低い声で言った。


「早い。だから先に止める」


 先に止める。声を上げる前に。足が走る前に。輪が増える前に。


 私は胸元の名前の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。


 今日の連鎖は、泣き声になる前に切れた。


 それだけで、明日へ行ける。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ