第48話 子ども騒動、泣き声の連鎖
朝、居場所へ向かう道は、いつもより音が多かった。
桶が当たる音。木箱を引きずる音。誰かの笑い声。音が多いと、ひとつの小さな音が紛れやすい。紛れた音は、あとから急に大きくなる。
私は布袋を握り直した。中には拭き布と細い紐、それから新しい注意の木札が一枚。昨日の当番表は、ちゃんと回り始めている。回り始めたからこそ、気が緩む人もいる。気が緩むと、足が速くなる。
父は少し前を歩いている。背中は揺れない。揺れない背中を見ていると、私の足も揺れにくい。
「今日は“止める”を増やす」
父が低い声で言った。
私は頷いた。止める。増やさない。守る。今の町に必要な言葉は、少ないほうがいい。
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居場所の角を曲がると、縄の外に当番の人が立っていた。今日は二人。ひとりは商人、もうひとりは若い男。どちらも声が大きくなりやすい人だ。だからこそ当番にする意味がある。声が大きくなる前に、声を使う場所を決める。
読む係の子どももいた。母親の横。子どもは木札を見上げて、声を小さくして読む練習をしている。
「……ちかづかない」
その声は、昨日より少し上手だった。
はるは板の影に伏せている。耳が立っている。目が忙しい。でも喉の音はない。縄があり、当番がいて、声が短いからだ。
私は少しだけ胸を撫で下ろした。
撫で下ろした瞬間、遠くで甲高い声が跳ねた。
「待ってー!」
子どもの声。
声の次に、足音が来た。軽い足音。軽い足音は止まりにくい。
縄の外の道を、二人の子どもが走ってくる。ひとりが逃げるように走り、もうひとりが追うように走る。遊びの追いかけっこだ。遊びは悪くない。でも、場所が悪い。
当番の商人が声を出した。
「おい! 走るな!」
止めようとしている声だ。でも声が大きい。大きい声は視線を集める。視線が集まると、犬の耳が立つ。
はるの耳がさらに立った。目が鋭くなる。体が少し起き上がる。
喉が熱くなった。
父が低い声で言った。
「声を下げろ」
商人がハッとして、声を落とす。
「……止まれ。ここは走るな」
言い方が変わると、場の形も変わる。
けれど子どもは止まらない。止まれない勢いだ。
縄の手前で、逃げていた子がつまずいた。転ばなかった。でも足がもつれて、ぐらっと横へ寄った。
寄った先が、縄の近くだった。
当番の若い男が慌てて腕を伸ばし、子どもの肩を掴んで止めた。掴み方は乱暴じゃない。でも急な動きだ。急な動きは犬に刺さる。
はるが立ち上がった。
立ち上がるだけで、空気が変わる。犬が“立つ”のは準備の動きだ。逃げる準備か、守る準備か。どちらにせよ、危ない場所だ。
追っていた子が、立ち上がったはるを見て足を止めた。
「……犬だ」
子どもの声が、怖いほうへ傾く。怖いが出ると、泣きが出る。泣きが出ると、大人が慌てる。慌てると声が大きくなる。大きくなると、人が集まる。
連鎖が見えて、息が浅くなった。
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父が、居場所の内側へ入らないまま一歩前に出た。犬と子どもの間に影を落とす位置。影が落ちると、犬の目線が少しずれることがある。
父は低い声で言った。
「止まれ」
子どもに向けた言葉でもあり、犬に向けた言葉でもある。
当番の若い男が、子どもを自分の背中側へ寄せた。縄から離す。離せば、距離が戻る。
読む係の子どもが、母親の服の端を握りながら小さく木札を読んだ。
「……はしらない」
声は小さい。けれど、場にとっては大きい。大人の叱る声より、子どもの読む声のほうが刺さらない。
逃げていた子が、ようやく息を整えた。目に涙が溜まっている。泣きそう。泣けば、母親が叫ぶかもしれない。
私は息をひとつ置いて、しゃがんだ。目線を下げる。声も下げる。短い言葉で止める。
「ここ、走ると危ないよ」
逃げていた子が唇を尖らせる。
「だって、追いかけられて……」
「追いかけっこは、あっち」
私は道の反対側、広い空き地を指さした。指さすと、目がそっちへ行く。目が行くと、足も行きやすい。
追っていた子が、指の先を見た。
「……あっちならいいの?」
「うん。ここは“見てる場所”」
私は縄を指さした。
「縄の向こうは、行かない」
二人の子どもが頷きかけた、そのとき――。
別の大人が、遠くから叫んだ。
「何してる! 危ないだろ!」
叫び声は大きい。大きい声は人を集める。集まると犬が警戒する。
はるの耳がまた立つ。目が鋭くなる。立ち上がった体が、少し前へ出そうになる。
喉が鳴った。叫びたくなる。でも叫べない。叫ぶと同じになる。
父が叫んだ大人へ視線だけ向け、低い声で言った。
「声を下げろ」
低い声は遠い大人には届かない。けれど当番には届く。読む係の子にも届く。今、止めるべき輪に届けばいい。
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ちょうどキオが来た。状況を一目で見て、すぐに動く。
キオは叫んだ大人のほうへ歩きながら手を上げた。手を上げるのは「止まれ」の合図になる。
「大丈夫だ。今、止めてる」
声は大きくない。届く声。届く声で、遠い大人の足を止める。
遠い大人が息を詰まらせ、歩幅を小さくした。大声を続けない。続けなければ、場は戻る。
当番の若い男が、逃げていた子の肩から手を離し、代わりに背中を軽く押した。
「こっちだ。広いところで遊べ」
押し方が優しい。優しい押し方は、子どもの足を動かす。
二人の子どもが空き地のほうへ走っていく。今度は縄のほうへ向かわない。向かわないだけで、勝ちだ。
はるの体が、少しずつ伏せる方向へ戻った。耳が柔らかい角度になる。目の鋭さが少し薄れる。
胸の奥で、ようやく息が吐けた。
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当番の商人が、苦い顔で言った。
「俺、つい声がでかくなる」
キオが頷く。
「だから当番だ。気づけるなら直せる」
父が低い声で言った。
「次は“手”で止めろ」
商人が眉を上げる。
「手?」
父は自分の手を軽く上げた。大きく上げない。合図だけ。
「手を上げて止める。声は後だ」
なるほど、と思った。声より手のほうが犬には刺さりにくい。音が少ない。目で止まる。
私は持っていた木札を見た。文字を書く前の板だ。ここにも短い言葉が必要だ。
炭を取り出し、板に書いた。
『この道は走らない』
短い。具体。子どもにも読める。
キオが頷いた。
「それ、縄の外の道に立てよう」
“道に立てる”。立てるだけで、人の足は止まりやすい。止まるきっかけができる。
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夕方。餌の時間。
今日の当番が交代で来た。読む係の子も来た。子どもは少し誇らしげに、新しい木札を指でなぞる。
「……このみちは、はしらない」
自分で作った言葉ではないのに、自分の言葉みたいに読んでいる。言葉が“自分ごと”になっている。
父が皿を滑らせる準備をしながら、低い声で言った。
「今日の勝ちは、犬を動かさなかったことだ」
私は頷いた。動かさないために、私たちは動いた。止めた。短く言った。手で止めた。木札を立てた。
帰り道、空は青から黒へ移り、星が増えた。星は静かだ。静かなものは、胸の奥を落ち着かせる。
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家に戻ると、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座り、今日のことを書いた。
日付。天気。子どもが走ったこと。犬が立ち上がったこと。大声が出そうになったこと。声を落とせたこと。手で止めるやり方を教わったこと。『この道は走らない』の木札を作ったこと。夕方、読む係が読めたこと。犬が落ち着いたこと。
書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。
「飲め」
私は頷いて杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。
杯の湯気を見ながら、小さく言った。
「……連鎖って、早いですね」
父はすぐに答えない。けれど、少ししてから低い声で言った。
「早い。だから先に止める」
先に止める。声を上げる前に。足が走る前に。輪が増える前に。
私は胸元の名前の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。
今日の連鎖は、泣き声になる前に切れた。
それだけで、明日へ行ける。
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