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第47話 見回りの輪、夕方の約束

 朝、家の戸を開けると、道に小さな足跡が残っていた。


 人の足跡より浅くて、丸い。鳥でも猫でもない。犬の足跡だ。湿った土の上に、点々と続いている。


 私は布袋を握り直した。中には拭き布と細い紐、それから小さな木札が二枚。昨日のうちに作った「注意の木札」だ。字は太く、短く。読めればいい。


 父は少し前を歩く。歩幅は大きいのに、急がない。背中が揺れない。揺れない背中は、私の足を落ち着かせる。


「今日は、やり方を決める」


 父が低い声で言った。


「やり方?」


「当番だ」


 当番。聞き慣れた言葉なのに、胸の奥が少し温かくなった。誰かが“自分の仕事”として持てる形。持てる形ができると、噂より強くなることがある。



 居場所に近づくと、縄の外に人がいた。数は多くない。でも視線がまとまっている。まとまった視線は、犬の背中に重い。


 注意の木札は立っている。


『近づかない』

『追いかけない』

『囲まない』

『触らない』

『子どもは走らない』


 それでも、縄のそばに小さな器が置かれていた。置きっぱなしではない。まだ中身は入っていない。けれど器があるだけで、「ここは餌の場所だ」と思い込む人が出る。


 はるは板の影に伏せていた。耳が立っている。目が忙しい。鼻先が空気を拾っている。警戒している犬の顔だ。


 喉が乾いた。声を出したら、ひび割れそうだった。


 父が縄の前に立ち、低い声で言った。


「器は持ち帰れ」


 置いたままだと、誰かが勝手に中身を入れる。中身が入ると、犬が守る。守ると、人が怖がる。怖がると強い言葉が出る。強い言葉は、また人を集める。


 私はその流れを、もう知っている。


 縄の外の男が言った。


「決めた時間に来いって言われたからさ。先に置いてただけだ」


 言い方は乱暴じゃない。けれど「置く」という動きは危ない。


 父は責めない。責めれば声が増える。


 父は短く言った。


「置くな。時間になったら持って来い」


 男は口を開きかけ、閉じた。言い返しが出そうな顔。でも縄と木札がある。形があると、人は引っ込みやすい。


 そこへキオが来た。縄の端を見て、器を見て、ため息を吐く。


「……だから当番を作る」


 キオは縄の外の人たちに向けて言った。大声ではない。届く声。届く声は、必要な分だけ人を動かす。


「朝と夕方、見回りをする。餌の時間には誰かが立つ。終わったら器を片づける。水の器も洗う」


 男が眉をひそめる。


「誰がやるんだよ」


 その言葉は正しい。誰がやるかが決まらないと、言葉だけになる。言葉だけだと、すぐ噂に負ける。


 キオが言った。


「俺がまとめる。交代で回す。できる人が、できる日だけでいい」


 “できる日だけ”。強く縛らない言い方だ。縛らないと、続けやすい。


 それでも、声は出る。


「うちだって忙しいよ」


「犬に関わるのは怖い」


 怖い。怖いは責められない。怖いを責めたら、人はもっと身構える。身構えると、言葉も硬くなる。


 私は息をひとつ置いて、足の裏を感じた。足の裏に意識を置くと、今が戻る。


 父が私を見る。目だけで「短く」と言っている。


 私は頷き、縄の外の人たちに向けて言った。


「近づく当番じゃなくて、止める当番にしませんか」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。落ち着いて聞こえると、周りも落ち着きやすい。


「止める?」


「縄の外で、子どもが走らないように声をかける。器を置きっぱなしにしない。見物の人が増えそうなら、帰ってもらう」


 難しい言葉は使わない。具体だけを並べる。具体は噂に勝てる。


 キオがすぐに頷いた。


「それだ。犬に近づく必要はない。縄の外を守る」


 “守る”という言葉が出ると、場が少し変わる。守るのは犬だけじゃない。子どもも、大人も、町の静けさも守る。


 父が低い声で言った。


「怖いなら、遠くでいい。大事なのは“増やさない”ことだ」


 “増やさない”。短くて、分かる。今の町に必要な言葉。



 そこへ子どもが一人、母親の後ろから顔を出した。まだ小さい。けれど目がまっすぐだ。走って飛び出す目ではなく、見て覚える目。


「ぼくも、できる?」


 母親が慌てて子どもの肩を押さえた。


「だめ、危ないでしょう」


 子どもは唇を尖らせる。


「走らないよ。ここから見るだけだよ」


 母親は困った顔。困った顔は、答えが見つからない顔。


 私は息をひとつ置き、母親に言った。


「子どもは“読む係”ならできます」


「読む係?」


 私は手に持っていた木札を見せた。


「木札の字を読む係です。『走らない』とか『近づかない』って、声に出して読む。大きい声じゃなくて、近くの人に聞こえるくらい」


 母親が目を丸くした。


「そんなので……」


 キオが頷く。


「効く。子どもの声は止めやすい。大人同士より角が立ちにくい」


 角が立ちにくい。そういう言い方も、今は役に立つ。


 母親は迷った顔のまま、子どもの頭に手を置いた。


「……走らないって約束できる?」


「できる」


 子どもはすぐ言った。早すぎて少し心配になる。でも約束は、「できる」から始まる。


 父が低い声で足した。


「できないときは、すぐ離れる。それも約束だ」


 子どもは一瞬だけ考えて、頷いた。


「うん」


 その「うん」は、軽く聞こえなかった。



 キオが手元の板に炭で線を引き、当番表を作り始めた。紙じゃない。板。風で飛ばない。濡れても破れない。今の町には、板のほうが合う。


「朝は……俺と、この人」


「夕方は……あんた、どうだ」


 声が次々に出る。でも煽る声じゃない。決める声だ。決める声は短い。短い声が積み重なると、形になる。


 私はその横で、もう一枚木札を書いた。


『餌は時間だけ』

『終わったら片づける』

『器は持ち帰る』


 字が少し曲がる。曲がってもいい。読めればいい。


 木札を立てる位置を考える。縄の前。子どもの目の高さ。子どもの目の高さにある言葉は、子どもの足を止める。


 はるがこちらを見ている。目は忙しい。けれど、さっきより少し落ち着いて見えた。人の動きが整ってきたからだ。声が短くなったからだ。



 夕方。餌の時間。


 縄の外には、当番の二人と、読む係の子ども。母親も少し離れて立っている。離れているのが大事だ。守りたいものがあるときほど、距離が必要になる。


 キオが当番表の板を掲げて言った。


「今日からこれで回す。無理な日は変えていい。大事なのは、置きっぱなしにしないことだ」


 大声じゃない。届く声。


 私は棒で小さな皿を滑らせ、はるの近くへ寄せた。匂いは強くしない。強い匂いは別の動物も呼ぶ。呼べば、また問題が増える。


 皿を置き、棒を引いて距離を戻す。


 はるは鼻を動かし、しばらく動かなかった。嗅ぐ。止まる。もう一度嗅ぐ。それから、ゆっくり食べ始めた。


 読む係の子どもが、小さな声で木札を読んだ。


「……ちかづかない」


 母親が子どもの肩に手を置き、同じくらい小さな声で言う。


「えらいね。そこからね」


 子どもは頷いた。


「……はしらない」


 その声は、変に響かなかった。自慢の声でも、見せびらかす声でもない。自分に言い聞かせる声。自分に言い聞かせる声は、強い。


 縄の外にいた男が、ふっと笑った。


「これ、案外いいな」


 笑いは軽い。でも種類が違う。煽る軽さじゃない。ほどける軽さだ。ほどける軽さは、場を柔らかくする。


 餌を食べ終えたあと、私は棒で皿を引き戻した。当番の人が布で皿を包み、袋へ入れる。器は置いていかない。終わったら片づける。約束を、形にする。


 そして水の器も、当番が持ち帰って洗うことになった。毎日、誰かが手を動かす。手を動かす人が増えると、「あの家だけの話」じゃなくなる。



 帰り道、星が少しずつ増えていく。昼は見えないのに、夜になると当たり前みたいに出てくる。星は変わらない。けれど、私たちは少しずつ変わる。


 父が隣を歩きながら言った。


「当番は、守り方だ」


 私は頷く。


「……増やさないための守り方」


「そうだ」


 父の声は低い。低い声は、胸の奥を静かにする。


 家に着くと、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座り、今日のことを書いた。


 日付。天気。当番表を作ったこと。縄の外を守る当番にしたこと。子どもの読む係を作ったこと。餌の時間に見ているだけができたこと。器を片づけたこと。笑いがほどけたこと。


 書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


 私は頷いて杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。


「父さん」


 杯の縁を見ながら言った。


「……町の人、少し変わりますか」


 父はすぐ答えない。すぐ答えないのは、嘘をつかないためだと思う。


 しばらく黙って、それから言った。


「変わる分だけ変わる」


「分だけ」


「一度に全部は変わらない。だが、続ければ残る」


 続ければ残る。残るのは噂じゃなくて、形。縄。木札。当番。短い言葉。片づける手。


 窓の外で、遠くの犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声ではない。夜に溶ける声。


 私はその声を聞きながら、胸元の名前の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。


 今日は、当番ができた。


 当番は、小さな約束の輪だ。輪ができると、守れる距離ができる。


 父が台所から短く言った。


「よし」


 私は小さく頷いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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