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第46話 餌の約束、片づける手

 朝、戸を開けると土の匂いが少し強かった。夜のうちに湿ったらしい。地面が湿ると、足跡が残りやすい。足跡が残りやすいと、余計なものまで目に入る。


 家の前の道に、小さな点々が続いていた。


 パンくずだ。


 鳥が落としたのかもしれない。子どもがこぼしたのかもしれない。けれど点々は、まっすぐ同じ方向へ伸びている。犬の居場所のほうへ。


 私は布袋を握り直した。中には拭き布と小さな紐。役所の人が言った条件——「水の器は毎日洗う」「餌は置きっぱなしにしない」。その“置きっぱなしにしない”が、今日は胸の中で重くなっていた。


 居場所へ向かう途中、市場の端で声がした。


「餌があるってさ」


「誰が置くんだよ」


「置きっぱなしにするから、犬が守るんじゃないか」


 言い方が少しずつ変わっている。「犬が危ない」から「餌が悪い」へ。悪いものがひとつに決まると、人は安心する。安心すると、強い言葉が出る。強い言葉は、足を動かす。


 私は息をひとつ置いて、前を見続けた。


 父は少し前を歩いている。背中はいつも通りだ。背中がいつも通りなら、私はついていける。


「見るな」


 父が低く言った。


「拾うな」


 私は頷いた。パンくずを拾いたくなる気持ちが分かったからだ。拾えば「見つけた」と言いたくなる。言えば、話が増える。



 居場所に着くと、縄は張ってあった。注意の木札も立っている。


『近づかない』

『追いかけない』

『囲まない』

『触らない』

『子どもは走らない』


 短い言葉。分かる言葉。


 けれど今朝は、縄の外に集まる“目”が違っていた。人数は多くない。でも視線がまとまっている。まとまった視線は、犬の背中にのしかかる。


 はるは板の影に伏せていた。耳が立っている。目が忙しい。鼻先が空気を拾っている。警戒している犬の顔。


 そして——水の器の横に、見慣れない器があった。


 欠けた縁の陶器の皿。中には、ふやけたパンと、煮汁のしみた布切れみたいなもの。


 置きっぱなしの餌。


 喉が、きゅっと鳴った。


 父は皿を見るだけ見て、すぐ周りを見た。人の位置。子どもの位置。声が出そうな口。動きそうな足。


 父が低い声で言った。


「誰が置いた」


 縄の外にいた男が肩をすくめた。


「知らねえよ。犬がかわいそうだって、誰かがさ」


「かわいそうだからって、置きっぱなしにするのは違うだろ」


 別の声が重なる。声が重なると、話が勝手に広がる。


 私は息をひとつ置いて足元を見た。パンくずの点々が、皿のほうへ続いている。鳥じゃない。誰かが持ってきて、こぼした。


 父が言った。


「声を大きくするな」


 誰に向けたとも分からないくらい、低く、全体に向けた言葉だった。低い言葉は、場を押さえる。


 そこへキオが来た。歩幅が大きい。顔が硬い。


「……やっぱり置き餌か」


 キオは皿を見て、短く息を吐いた。


「これを置きっぱなしにすると、犬が守る。守ると、近づく人とぶつかる。ぶつかったら“犬が悪い”になる」


 私は頷いた。犬は犬のままなのに、人が“形”を作ってしまう。


 縄の外から、女の人の声がした。


「でも、食べさせてあげないと……」


 優しい声だった。優しい声は、ときどき危ない。優しさが先に走ると、距離が消える。


 父は責めない。責めれば、声が増える。


 父は事実だけを置いた。


「食べさせるなら、置きっぱなしにするな」


 女の人が目を丸くした。


「え?」


「食べ終わったら片づける。器も洗う」


 父は役所の紙を出さない。紙を出すと「役所が言ったから」に見える。そうなると反発が生まれる。父は“当たり前”として言う。


 皿の中のパンはもう匂いが強い。匂いが強いと、別の動物も来る。来れば、また別の問題になる。


 キオが言った。


「餌の時間を決めよう。決めれば、置きっぱなしが減る」


 時間を決める。硬すぎないのに、形ができる言葉だ。形は、人を止める。


 父が頷いた。


「朝と夕方。短い時間だけ」


 私は思わず口を開いた。


「……片づけるのは、私ができます」


 声は大きくない。けれど周りの目がこちらに寄る。寄った目に飲まれないよう、私は息をひとつ置いた。


 父が私を見て、小さく頷いた。


「やれる範囲で」


 その言葉が、背中を押した。



 父は縄の内側へ踏み込まない。けれど皿はそこにある。あれがある限り、今日の話は終わらない。


 父が私に目で合図をして、ゆっくり言った。


「布」


 私は布袋から拭き布を出した。桶の水を少し移し、音を立てないように濡らす。急に動かない。急に動かすと、犬が跳ねる。


 はるの目が、私の手を追う。耳が立つ。けれど喉は鳴らない。距離があるから。動きが遅いから。


 私は縄の内側には入らない。縄のぎりぎり手前で、長い棒の先に布を巻きつけた。キオが用意してくれた棒だ。近づかないための工夫。


 布を巻いた棒で、皿の縁を押す。


 ゆっくり。少しずつ。


 皿が土を擦る、小さな音が鳴った。


 その音に、はるの耳がぴくりと動く。体が少し固くなる。私は手を止めた。


 息をひとつ。


 父が低い声で言った。


「大丈夫だ」


 犬に向けた言葉でもあり、人に向けた言葉でもある。


 私はもう一度、棒を動かした。皿を縄の外へ押し出す。押し出せた。


 縄の外に出た皿を、キオが布で包んで持ち上げた。匂いが広がらないよう、すぐ袋へ入れる。


 縄の外から、ほっとした息が漏れた。息が漏れるのはいい。声が上がらなければ。


 父が周りへ言った。


「置くな。食べさせるなら、決めた時間に来い。片づける」


 男が眉をひそめる。


「決めた時間って、誰が決めるんだよ」


 キオが口を開きかけたが、父が先に短く置いた。


「俺たちがやる」


 “俺たち”。父は自分だけを前に出さない。私も含める。キオも含める。そうすると「英雄の家の勝手」になりにくい。


 私は少しだけ勇気を出して言った。


「注意の木札を、増やします」


 父が頷く。


「字は大きく。短く」


 私は頷いた。短い言葉。分かる言葉。増えない言葉。



 その日の昼、私はキオと一緒に木札を作った。木の板に炭で字を書く。字はきれいじゃなくてもいい。読めればいい。


『餌は決めた時間だけ』

『終わったら片づける』

『器は持ち帰る』

『近づかない』


 父は横で木の角を削っていた。尖っていると危ない。尖っていると、人も尖る。角が丸いと、触れたときの痛みが少ない。


 文字を書いていると、胸の中が少しずつ静かになった。噂も視線も、手の中には入らない。けれど木札は手の中に入る。手の中に入るものがあると、怖さが散らばりにくい。



 夕方。餌の時間に合わせて居場所へ行くと、縄の外に三人だけが立っていた。女の人がひとり、子どもがひとり、そして見覚えのある男。朝、皿の話に声を重ねていた男だ。


 女の人は小さな器を持っている。男も小さな袋を持っている。子どもは母親の服の端を握っている。走らない。近づかない。目だけで見ている。


 私は息をひとつ置き、木札を立てた。風で揺れても、音が大きくならないように。


 餌を置く時間。置くけれど、置きっぱなしじゃない。


 父が低い声で言った。


「ここで止まれ」


 三人は縄の外で止まった。


 父が私に目で合図をする。


「短く」


 私は頷き、縄の内側へ入らないまま、棒で小さな皿を滑らせた。皿の上には匂いが強すぎない柔らかいもの。キオが選んでくれた。少しだけ。


 はるが鼻を動かす。耳が立つ。目が忙しい。でも、すぐに立ち上がらない。こちらが急がないからだ。


 私は棒を引いて、距離を戻した。


 父が低い声で言う。


「待て」


 誰に向けたとも分からないくらい、全体に向けた言葉。


 はるが少しずつ動き、皿の匂いを嗅いだ。嗅ぐ。止まる。もう一度嗅ぐ。それから、ゆっくり食べ始める。


 三人が同時に息を吐いた。息が揃うと、空気が少し柔らかくなる。


 子どもが小さな声で言った。


「……食べてる」


 母親が同じくらい小さな声で返す。


「見てるだけだよ」


 見てるだけ。見てるだけができれば、今日は勝ちだ。


 待つ間、男が私のほうを見た。朝の硬い顔とは違う。硬さが少し抜けている。


「……さっきは悪かった」


 小さい声。小さい声は、謝りに近い。


 私は息をひとつ置いて、責めない言葉を選ぶ。


「心配だったんだと思います」


 男が少し顔をしかめ、それから苦笑した。


「心配って言い方、優しいな」


「優しいのは……難しいです」


 自分で言って、少し恥ずかしくなった。優しさは形を間違えると危ない。だから難しい。


 男が縄を見る。


「これ、守ればいいんだな」


 父が答えた。


「守れ」


 短い。でも男は、その短さで頷けた。


 はるが皿を舐め終え、顔を上げる。こちらを見る。私の胸元の木札のあたりを、目が一瞬だけかすめた気がした。


 私は名を呼ばない。呼ばないけれど、心の中では言える。


 大丈夫。


 父が合図をした。私が棒で皿を引く。回収する。器は残さない。木札の言葉を“形”にする。


 それを見た女の人が、小さく頷いた。


「……そういうことね」


 理解が増えると、噂は減る。



 帰り道、空が少し暗くなっていた。星が出る前の青。まだ何も決めない色。


 父が隣を歩きながら言った。


「今日は増えなかった」


 私は頷いた。増えない、というのは何もしないことじゃない。短い言葉を選ぶこと。形を作ること。片づけること。待つこと。


「……餌って、優しさの形なんですね」


 私が言うと、父は少し黙ってから答えた。


「形を間違えると、優しさが刃になる」


 刃、という言葉は強い。でも父の声は低くて、怖くなかった。刃は剣だけじゃない。言葉も刃になる。餌も刃になる。


「だから、形を整える」


 私は頷いた。形を整える。木札を立てる。縄を張る。器を片づける。声を小さくする。



 家に戻ると、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座り、今日のことを書いた。


 日付。天気。置きっぱなしの皿があったこと。人の目が集まったこと。皿を外へ出したこと。餌の時間を決めたこと。注意の木札を増やしたこと。夕方、縄の外で見ているだけができたこと。器を回収できたこと。


 書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


 私は頷いて杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。


 窓の外で、遠くの犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声ではない。夜に溶ける声。


 私はその声を聞きながら、胸元の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。


 置きっぱなしの皿は、噂を呼ぶ。


 片づけた皿は、約束になる。


 約束は小さくてもいい。守れる形なら、明日につながる。


 台所から、父の短い声が聞こえた。


「よし」


 私は小さく頷いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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