第45話 誤解発生、濡れた布の真実
朝の空は、昨日より少し低かった。
雲が近いと、音も近い気がする。桶の音も、荷車の音も、笑い声も。全部が耳のすぐ横で鳴っているみたいで、落ち着かない。
役所の人が帰った翌朝。町は少し静かになると思っていた。安心が先に来ると思っていた。
でも、静かになるには材料が足りなかった。
町は静かになるより先に、話を作る。
「条件がついたんだって?」
「見たぞ。犬、牙を見せたって」
「役所が来たってことは、やっぱり危ないんだよ」
市場の端でそんな声が回っていた。
私は布袋を握り直した。中には濡れた布が二枚。水の器を拭くための布。結び目を直すための布。昨日の続きの布。
布は柔らかいのに、今日は手の中で重い。
父は少し前を歩いている。背中はいつも通りだ。背中がいつも通りなら、私は歩ける。
「声は追うな」
父が低く言った。
「追うと増える」
私は息をひとつ置いて頷いた。
それでも耳は拾ってしまう。ひそひそは小さいのに、針みたいに刺さって入ってくる。
「噛み跡があったってさ」
その言葉で、足が一瞬だけ遅くなった。
噛み跡。
強い言葉は、見えないものを見えたことにする。見えたことにされると、人は確かめに来る。
父が歩幅を少しだけ小さくして、私に合わせた。
「止まるな」
私は頷き、足を戻した。
⸻
居場所の角を曲がると、縄の手前に人がいた。昨日より多い。多いけれど、まだ群れではない。
群れになる前の、危ない数。
縄と札は立っている。
『近づかない』
『追いかけない』
『囲まない』
『触らない』
『子どもは走らない』
短い言葉が、今日はいつもより頼りなく見えた。
言葉は、ときどき言葉に負ける。
縄の向こうに、はるがいる。板の影に伏せている。耳は立っている。目が忙しい。昨日、落ち着いたはずなのに。今日は戻っている。
人が増えているからだ。
父が縄の前に立ち、低い声で言った。
「離れろ」
昨日と同じ言葉。昨日と同じ声。
でも今日は返ってくる顔が違う。昨日は「役所が来る」怖さで静かだった。今日は「役所が帰った」安心で、言葉が軽い。
「離れろって言われてもさ」
「噛み跡があるって聞いたぞ」
誰かが言った。
噛み跡。噂がもう形になっている。
父は言い返さない。言い返せば言葉が増える。
父は縄を指さす。
「ここから先に来るな」
続けて、札を指さす。
「守れ」
短い。具体的。
それでも、ひとりの男が縄に近づいた。手に布を持っている。白い布。血を拭くための布みたいに見える布。
「ほら、これだよ」
男は布を振った。布の端に赤茶色の染みがついている。
ざわめきが一段上がった。
「血か?」
「噛まれたんじゃ——」
言葉が増える。増えれば犬が警戒する。警戒すれば事故が起きる。事故が起きれば、役所の条件が強くなる。
頭の中でつながりが走って、喉が乾いた。
父が低い声で言った。
「それを振るな」
男が眉をひそめる。
「振るなって、これが証拠だろ」
父は布を見た。見るけれど近づかない。近づかないまま、距離を作る言葉を置く。
「証拠なら、そこで止めろ。犬が驚く」
男は振るのをやめた。でも掲げたままだ。掲げるだけで目が集まる。目が集まれば足が寄る。
私は息をひとつ置いて、立ち位置を選んだ。縄の手前、外側の少し離れた場所。間に入らない。押さない。増やさない場所。
そのとき、キオが来た。歩幅が大きい。顔が硬い。
「……噂が早いな」
キオは男の布を見て、短く息を吐いた。
「それ、どこで出た」
「町外れの路地で拾った。犬がうろついてたって聞いたからさ」
自信のある言い方だった。自信がある噂は、強い。
私は布の色を見る。赤茶色。でも赤茶色は血だけじゃない。泥も赤茶色になる。錆も赤茶色になる。果物も赤茶色になる。
そして、私は知っている。
昨日、父が桶を置いたとき、古い釘の箱が倒れて錆の粉が舞った。布に付いて、濡らして洗っても落ちにくかった。
赤茶色の染み。
喉の奥で言葉を探す。言えば止まるかもしれない。でも言い方を間違えれば、逆に増える。
父が私を見た。目だけで「落ち着け」と言う目。
私は息をひとつ置いた。短い言葉。具体的な言葉。相手の顔を潰さない言葉。
縄の手前まで出て、男に向けて言った。
「それ、血じゃないかもしれません」
ざわめきが一瞬止まる。
「かもしれない」は弱い。でも弱い言い方は刺さりにくい。刺さらない言葉は、場を壊しにくい。
男が私を見た。
「なんだよ、子どもが何を——」
私は声を大きくしない。大きくしないで、続ける。
「錆の染みでも、同じ色になります」
「錆?」
男の眉が動いた。言葉が変わると、頭の形も少し変わる。
キオがすぐに乗る。
「この辺り、古い釘と金具が多い。錆の粉はすぐ布に付く」
男は布を近くで見た。見る動作は疑いの動作だ。疑いは悪くない。疑いは噂を止める力になる。
「……でも、犬が噛んだって——」
別の声が出る。噂を手放したくない声。
父が低い声で言った。
「噛んだなら、誰が噛まれた」
短い質問。具体的。噂は具体に弱い。
周りが黙った。噂は「誰か」を持っていない。噂は「どこか」しか持っていない。
男が口を開きかけて、閉じた。
「……分からねえ」
父は頷いた。
「分からないなら、増やすな」
強い言葉。でも怒鳴っていない。低い声で、事実を置く。
私は布の端の染みをもう一度見た。乾いている。血なら匂いが違う。けれど匂いは言わない。匂いは確かめる理由になる。
代わりに、ひとつだけ足す。
「布を振ると、犬が驚きます。驚くと危ないです」
危ない。子どもにも通じる言葉。大人にも通じる言葉。
男は布を下げた。下げるだけで場の熱が少し落ちる。
⸻
それでもざわめきは残る。残るのは、噂のほうが気持ちいいからだ。怖い話は人を集める。集まると、自分の怖さが薄まる気がする。
父が桶を地面に置いた。丸い音。丸い音は、場の角を少し削る。
父が水の器へ水を足す。静かな水音。静かな音は、口を閉じさせる。
キオが周りへ言った。
「今日は散れ。見ても何も変わらない。近づけば犬が警戒するだけだ」
遅れて商人が来た。いつもの調子で声を出しかけて、途中で抑えた。
「おいおい、変な話を広げるな。噂より仕事だ」
商人の言葉は、人が動く理由になる。理由があると、人は戻れる。
人が少しずつ離れていく。縄の前に空間ができる。空間ができると、はるの耳が少しだけ下がった。
けれど、ひとり残る。
布を持った男だ。縄の前に立ったまま、顔が硬い。硬い顔は、間違いを認めたくない顔でもある。
私は息をひとつ置いて、責めない言い方を選んだ。
「心配してくれたんだと思います」
男が私を見る。
「……心配だよ。子どももいるし」
「はい」
頷く。頷くと、相手の言葉が少し落ち着く。
「だから、近づかないようにしてます。縄は、そのためです」
男は縄を見た。縄はただの縄なのに、意味が入ると強い。
父が男に言った。
「心配なら、これを守れ」
札を指す。
「近づかない。囲まない。追わない」
男は黙って、それから小さく頷いた。
「……分かった」
小さい言葉。小さい言葉は、謝りに近い。でも謝りと言ってしまうと角が立つ。だから、これでいい。
男は布を握り直して去っていった。
⸻
居場所の周りが静かになると、はるは伏せたまま、ゆっくり息を吐いた。目の動きが少しゆっくりになる。
やっと「大丈夫」を取り戻した顔。
私も胸の奥で息を吐いた。吐くと肩の力が抜ける。
父が私を見る。
「よく言えた」
短い言葉。短いのに胸に残る。
私は息をひとつ置いて答えた。
「……短く言いました」
「増えなかった」
父の評価はそこだ。正しさでも勝ち負けでもない。増やさないこと。
⸻
家に戻る道で、私は布袋の中の濡れた布を指で押さえた。濡れた布は冷たい。冷たいと、今が戻る。
家に着くと机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座って書き始める。
日付。天気。噂が「噛み跡」になっていたこと。布を振った人がいたこと。犬が警戒したこと。私は「血じゃないかもしれません」と言ったこと。錆の話で止まったこと。父が「誰が噛まれた」と聞いたこと。噂が黙ったこと。人が散ったこと。
書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。
「飲め」
私は頷き、杯を両手で包む。温かい。温かいと、今がここにある。
湯気を見ながら、小さく言った。
「噂って……勝手に大きくなりますね」
父はしばらく黙って、それから低い声で言った。
「勝手に大きくなる。だから、止める」
「止められますか」
「止められる分だけ」
父は私の紙を見た。
「書いておけ」
書いておく。紙にしておく。噂に負けない形にしておく。
⸻
窓の外で夕方の光が薄くなっていく。星が出る前の青い空。青い空は、まだ何も決めない色に見える。だから、明日も守れる色だと思う。
遠くで犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声じゃない。夜に溶ける声。
私はその声を聞きながら、胸元の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。
噂は、濡れた布みたいだ。
握りしめれば手の中で形を変える。振れば、周りに飛び散る。
だから、私は振らない。
静かに拭いて、静かにたたんで、しまう。
台所から父の短い声が聞こえた。
「よし」
私は小さく頷いた。
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