第44話 役所来訪、確認の朝
朝の台所は、湯の音が先に起きる。
鍋の底で小さな泡が増えて、白い湯気になる。湯気は形がないのに、「今日もやれる」と言ってくれるみたいで、私は好きだ。
けれど今日は、湯気を見ても胸の奥が軽くならなかった。
机の上に、役所の紙が置かれているからだ。
紙はただの紙なのに、印があるだけで部屋の空気が変わる。変わるのは紙じゃない。私たちのほうだ。
父が湯を注ぎ、私の前に杯を置いた。指先の動きはいつも通り。いつも通りの形を崩さないまま、短く言う。
「来る」
今日、役所の人が。
私は杯を両手で包み、息をひとつ置いて頷いた。声にすると余計なものが混ざりそうで、言葉を使わなかった。
父は支度をする。湯を足す。火を弱める。布袋を確かめる。細い紐を一本、腰に結ぶ。
剣には触れない。触れないけれど、準備はする。
「やることは三つだ」
父の説明は短い。短いから、頭に入る。
「人を増やさない。犬を驚かせない。こちらのやり方を見せる」
見せる。
私は机の隅の紙切れを見た。昨日までに書き続けた、居場所の様子の記録。日付と天気、起きたこと。誰が近づいたか。どう止めたか。犬がどう動いたか。
父はその紙を指で軽く叩く。
「それも持つ」
紙は怖い。けれど、私たちにも紙がある。押されるだけじゃなく、こちらの落ち着きを形にできる。
玄関で靴を履きながら、父が言う。
「声を大きくするな」
頷く。
「走るな」
頷く。
「名を呼ぶな」
胸がきゅっとなる。それでも頷いた。名は動かす。動けば、人も動く。今日は動かさないことが守りになる。
⸻
外へ出ると町はもう動いていた。桶の音、箒の音、呼び声。いつもなら丸く聞こえる音が、今日は少し尖って聞こえる。尖っているのは、たぶん私の耳だ。
居場所へ向かう道の途中で、キオが待っていた。
手には板と縄、それから小さな札が数枚。木の札だ。短い言葉が書けるもの。
「作ったぞ」
キオが父に板を見せた。太い字で、短い言葉が並んでいる。
『近づかない』
『追いかけない』
『囲まない』
『触らない』
『子どもは走らない』
父が頷く。
「これでいい」
キオが私を見る。
「役所ってのは、見るのが仕事だ。見る相手が落ち着いてると、向こうも落ち着く」
私は息をひとつ置いて頷いた。
「落ち着きます」
口にすると、私自身の足場にもなる。
⸻
角を曲がると、居場所の手前にもう何人か人がいた。多くはない。でも顔が違う。「今日は何か起きる」と知っている顔だ。
はるは板の影に伏せていた。目は開いている。耳は立っている。けれど喉の音はない。
囲わないように板と布の位置を少し変えてある。水の器は外から見える位置に置いた。見えると、人は勝手に安心する。勝手な安心でも、今は助かる。
父は居場所の少し手前で止まり、キオと縄を張った。
縄は低い。子どもの腰くらい。それだけで人は止まる。「ここから先は違う」と分かるものがあると、声が減る。
木札は縄の手前に立てた。地面に差し込むと風で小さく揺れた。揺れる音が小さいなら、犬は驚きにくい。
父が周りの人に向けて、低い声で言う。
「ここから先は来るな」
怒鳴らない。短く、はっきり。
「役所が来る。見るだけで増やすな」
頷く人がいる。笑う人もいる。肩をすくめる人もいる。けれど、縄の前で止まっている。それでいい。止まれているなら、事故は遠のく。
⸻
札の字を確認していると、遠くから足音が聞こえた。
硬い靴音。
市場の歩き方じゃない。役所の歩き方だ。
道の向こうに、二人の男と一人の女が見えた。男の一人は書類の筒。女は小さな袋。もう一人の男は腰に短い棒のようなものを下げている。「止めるため」の道具だと分かった。
役所の人が近づくほど、周りの体が少しずつ固くなる。肩が上がる。息が浅くなる。目が尖る。
私は息をひとつ置いて、足の裏を感じた。足の裏を感じると、今が戻る。
父は役所の前に出て、頭を下げた。深すぎない。浅すぎない。必要な形だけ。
「こちらです」
役所の男が頷き、周りを見回す。
「……集まってますね」
冷たい声ではない。仕事の声だ。仕事の声は感情が少ない。感情が少ないと、こちらが勝手に怖くなる。
父は淡々と言った。
「増えないように縄を張った」
「板の札も?」
役所の女が札を指す。
「子ども向けですか」
「子どもにも分かる言葉にした」
キオが横から補足する。
「走ると追う人が出る。追うと事故になる。だから先に止める」
役所の女が小さく頷いた。小さい肯定が、場を少しだけ緩める。
⸻
役所の男が居場所を見た。はるの耳が少し動く。目が男の足元を追う。犬は足元で距離を測る。
「……落ち着いているように見えますね」
言い切らない言い方。仕事の言い方。
男は縄の手前まで進み、そこで止まった。縄があるから止まれる。
「確認したいのは三点です」
筒から紙が出る。紙が風で少し揺れ、周りの視線が紙へ吸われる。紙は、人の目を集める。
「ひとつ。噛みつきの危険がないか。
ふたつ。周囲への影響がないか。
みっつ。管理ができているか」
管理、という言葉で胸が少し冷える。
犬は持ち物じゃない。でも役所は、物の言葉で話す。そういう場所だ。
父は頷いた。
「順に答える」
今やることから。父はいつもそうだ。
「噛みつきの危険は、近づかなければ出ない」
役所の男の眉が少し動く。
「近づけば危ない、と?」
「近づけば犬は警戒する。だから近づかないようにしている」
父は札を示した。
「周囲への影響は、増えることが一番だ。だから人を止める」
男は縄と札を見比べる。
「管理は?」
父が、私へ目を向けた。目だけで「出せ」と言う。
私は息をひとつ置いて、記録の紙を持った。私の字。震えていない、と信じたい字。
縄の手前まで出て、役所の女へ差し出す。手が震えそうになって、指を少し強く握って止めた。
女は声を出さずに読む。沈黙が長いと、周りが勝手に不安になる。私は口を開きそうになって、閉じた。余計なことは増やさない。
女が顔を上げた。
「……毎日、状況を書いているんですね」
「はい」
「誰が近づいたか、どんな声が出たか……。かなり細かい」
私は息をひとつ置いて言った。
「増えると危ないからです」
女が小さく頷いた。その頷きで、肩の力が少し抜ける。
⸻
役所の男が居場所を見たまま訊いた。
「犬に名前は?」
質問は柔らかい。けれど、犬を動かすかもしれない言葉だった。
私は答えようとして喉で止まった。名を言えば反応するかもしれない。反応すれば人が寄る。
父が先に答える。
「呼ばない」
男が顔を向ける。
「呼ばない?」
「今は呼ばない。呼べば反応して動く。動けば周りが騒ぐ」
男は黙った。黙るのは考えているからだ。
キオが付け足す。
「名前がないって意味じゃない。今は“動かさない”のが大事なんだ」
男が息を吐く。
「……なるほど」
「では目視で確認します。口の状態、目の動き、姿勢……」
男が一歩横へ動く。はるの目が足元を追い、耳が立つ。けれど喉は鳴らない。距離があるからだ。
⸻
そのとき、背後で木箱が倒れる音がした。
がたん。
大きくはない。でも突然の音は犬に刺さる。
はるの体が少し起きた。耳がぴんと立つ。目が鋭くなる。警戒が増える。
周りがざわっと動く。「今の」と言いかける声。声が上がりそうになる。
私は息をひとつ置いて、口を開いた。大声ではない。届くくらいの、小さめの声で。
「動かないでください」
お願いではなく、止める言葉。止める言葉は短いほうがいい。
「今、動くと犬が警戒します」
何人かが足を止めた。止まった人がいると、周りも止まりやすい。
父が役所の男へ言う。
「今のが、増える危険です」
男は目を細めた。理解の目だった。
父は居場所に踏み込まない。踏み込まないまま、体の向きだけを変え、はると音の方向の間に立つ。影を落とす。影が落ちると、犬の視線が少しずれる。
父が低い声で言う。
「大丈夫だ」
犬に向けた言葉。短い。ゆっくり。
はるの耳が少しだけ下がる。目の鋭さがほんの少し薄れる。起きた体が、また伏せる方向へ戻りかける。
役所の女が小さく言った。
「……落ち着かせ方が上手い」
褒め言葉じゃない。ただの観察。でも、それだけで胸が少し温かくなる。
⸻
役所の男が紙に何か書きながら言った。
「最後に確認します。ここは誰の土地ですか」
父が答える。
「空き地だ。町の管理だと聞いている」
キオが頷く。
「役所とも話した。しばらくはこのまま置く方向で」
男が頷き、ペン先を止めた。
「条件をつけます」
条件。硬い言葉。でも条件があるということは、今すぐ連れて行くわけじゃない、ということでもある。
「縄の設置は続けてください。札も。
水の器は毎日洗う。
餌は置きっぱなしにしない。
子どもが近づかないよう、見回りを」
父が頷く。
「やる」
男は紙を畳み、こちらを見た。
「次は、状況が落ち着いた頃に再確認します」
再確認。まだ終わらない。終わらないけれど、いまは区切れる。
帰り際、役所の男がもう一度居場所を見た。はるは伏せたまま、目だけで見返している。飛びかからない。距離が守られているからだ。
⸻
硬い靴音が遠ざかると、周りの人が息を吐いた。息が戻ると声も戻りそうになる。
戻りそうになる前に、キオがすぐ言った。
「今日はもう散れ。見てもいいことはない。仕事に戻れ」
商人も声を落とす。
「聞いたろ。近づくな。走るな。余計なことを言うな」
人が少しずつ解けていく。解けるのは、縄と札があるからだ。形があると、人は戻れる。
最後に残ったのは、居場所の近くに住む老人だった。老人は父を見て、ぽつりと言った。
「英雄は、犬も救うのか」
優しいつもりの言葉。でも、その呼び方は増える呼び方だ。
父は低い声で返した。
「英雄じゃない。父だ」
老人は目を瞬いてから、小さく笑う。
「……そうか。父か」
老人が去ると、居場所の周りは静かになった。
はるは伏せたまま、ゆっくり息を吐いた。耳が柔らかい角度になっている。目の動きもゆっくりだ。
犬が「今は大丈夫」と判断したときの顔。
胸の奥で、やっと息ができた。
⸻
父が縄の結び目を確かめ、札を真っ直ぐにし、私を見た。
「よく言えた」
短い言葉。短いのに胸に残る。
私は息をひとつ置いて答える。
「……声、大きくしませんでした」
「それでいい」
父はそれだけ言って、私の頭に手を置いた。ぽん、と軽く。撫でるというより、確かめるみたいな手。
その手が温かかった。
帰り道、私は空を見上げた。星は昼には見えない。でもそこにあるのは分かる。見えなくても、あると分かるものがある。
私は観測対象だ。見られている。試されている。
でも今日は、試されるだけじゃなかった。
父も、私を見ていた。私が声を小さくできるか。止まれるか。守り方を覚えられるか。
父の観測は冷たくない。怖くない。手の温かさでできている。
⸻
家に着くと、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座り、今日のことを書き始める。
日付。天気。役所の人が来たこと。条件を言われたこと。木札が役に立ったこと。木箱の音ではるが警戒したこと。人が動きかけたこと。私は「動かないでください」と言えたこと。父が低い声で落ち着かせたこと。
書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。
「飲め」
私は頷いて、杯を両手で包む。温かい。温かいと、今がここにある。
「……連れて行かれなかった」
私が言うと、父は少しだけ目を細めた。
「今日はな」
今日は。まだ続く。続くけれど、今日は守れた。
窓の外で夕方の光が薄くなる。星が出る前の青い空。青い空は、まだ何も決めない色に見える。だから守れる側の色でもある。
遠くで犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声ではない。夜に溶ける声。
私はその声を聞きながら、胸元の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。
台所から、父の短い声が聞こえた。
「よし」
私は小さく頷いた。
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