第43話 伸びる手、触れそうで触れない距離
朝の空気は澄んでいた。
冬に近い朝は、息が白くなる。白い息が並ぶと、町の人たちが同じ速さで生きているみたいに見える。吐いて、吸って、歩いて、仕事を始める。そういう当たり前があるだけで、私は少し落ち着ける。
けれど今日は、その落ち着きの端が薄かった。
道を歩く人の目線が、同じ方向へ向きやすい。用事のついで、という顔をしているのに、足は寄り道を探している。寄り道の先は、犬の居場所だ。
私は小さな布袋を持っていた。父に頼まれた布。水の器の周りを拭いたり、結び目を直したりするためのもの。買い物籠より軽いのに、手だけが重い。
父は少し前を歩いている。歩幅は大きい。でも速くはない。急がないのに迷わない。背中がぶれない。
それだけで、胸のざわつきが少し小さくなる。
角を曲がる手前で、声が跳ねた。
「いた! ほんとにいる!」
子どもの声だ。高い声は遠くまで飛ぶ。飛べば、犬の耳にも刺さる。
反射でそちらを見そうになって、私は一度息を置いた。目が合えば「話しかけていい」と思われる。話しかけられれば声が増える。声が増えれば人が増える。
父が小さく言った。
「立ち止まるな。歩く速さはそのまま」
私は頷いて、歩きを崩さないまま角を曲がった。
居場所の周りには、人がいた。
昨日より多いわけではない。けれど立ち方がよくない。道を塞ぐように、居場所の前に固まっている。買い物の途中で足が止まった形じゃない。「見るため」に集まった形だった。
はるは板の影に伏せていた。体は動かしていないのに、目が忙しい。耳が立っている。鼻先が空気を拾っている。
警戒しているときの顔。
喉の奥が乾く。
怖い、という言葉になる前の感じ。皮膚の内側が熱くなる。手のひらが汗ばむ。
父は居場所の手前で止まり、低い声で言った。
「道を開けろ」
怒鳴らない。飾らない。短く、はっきり。
人が少しずつずれた。道ができる。道ができると、居場所も息ができる。
そのときだった。
人の隙間から、小さな影が飛び出した。
男の子。背が低い。足が軽い。軽い足は止まりにくい。
「わあ!」
男の子は、はるへ一直線に走った。
喉が熱くなる。
叫びたい。
「だめ!」と。
叫べば止まるかもしれない。けれど叫べば、犬が驚く。驚けば逃げる。逃げたら追う人が出る。追えば転ぶ。転べば泣く。泣けば大人が慌てる。慌てれば声が大きくなる。声が大きくなれば、犬はもっと警戒する。
短い時間で、全部が繋がってしまう。
頭が白くなる前に、父の声が落ちた。
「止まれ」
たったそれだけ。
大きくないのに、耳の奥へ沈む声だった。
男の子の足が一瞬遅くなった。遅くなったけれど止まりはしない。勢いが残っている。
男の子の手が伸びた。
はるの耳がさらに立つ。目が細くなる。口が少しだけ開く。喉の奥が鳴った。
低い音。短い音。
唸り声の手前の、「これ以上は近づくな」の音。
空気が一段変わる。大人の肩が上がる。息を飲む音がする。「危ない」と言いかける声が喉に引っかかる。
その瞬間、父が居場所の中へ入らないまま、一歩だけ前へ出た。
犬と子どもの間に、父の影が落ちる。
父は剣に触れない。手は空のまま。空の手でできることだけをする。
「動くな」
その声は、子どもにも犬にも向いている。
続けて父は、地面を指さした。
「そこを見ろ」
男の子の目が、父の指へ向いた。
指の先には湿った土。そこに丸い跡が並んでいる。犬の足跡だ。子どもは、目の前に“面白いもの”が出ると、足が止まることがある。
「……丸い」
男の子の足が止まった。
止まった。止まれた。
はるの喉の音が消える。耳はまだ立っている。けれど鋭さが少し薄い。目線が出口へ動く。逃げ道がある、と分かっている目になる。
私はひと呼吸おいて、ようやく足を動かした。
走らない。走れば、別の誰かが走る。
早足で男の子の横へ行き、しゃがむ。目線を下げる。声も下げる。
「びっくりしたね」
男の子は唇を尖らせた。
「だって、触りたかった」
触りたい。子どもの触りたいは悪くない。悪くないのに、今は危ない。
私は息を置いて、短く言った。難しくしない。長くしない。
「急に触ると、犬が怖がることがあるよ」
「犬、怖いの?」
「うん。びっくりする。びっくりすると、危ないことがある」
男の子の手は小さい。小さい手は優しい。でも速い手は怖い。
私は足跡を指さした。
「ねえ、見て。ここに足の形がある」
男の子が覗き込む。
「丸い」
「丸いね。触らなくても、いるって分かるよ」
私は「かわいい」とも「危ない」とも言わなかった。どちらも声を増やす言葉になりやすい。今は足を止める言葉がいい。
後ろで、母親らしい女の人が青い顔をしていた。
「ごめんなさい……ちょっと目を離したら……」
震える声は大きくなりやすい。大きい声は人を集める。
父が女の人に言った。
「謝るのは後でいい。今は静かに連れて行け」
冷たくない。叱っていない。ただ、今やることを言っている。
女の人が頷き、男の子の肩に手を置いた。
「行こう」
「でも……」
男の子が居場所のほうを見る。
はるは伏せたまま、こちらを見ていた。鋭い目ではない。けれど警戒は残っている。いま誰かがもう一歩近づけば、また体がこわばる。
私は男の子に、できるだけ小さな声で言った。
「またね、は遠くからにしよう」
「遠くから……」
「うん。走らないで。声も小さく」
男の子はしぶしぶ頷いた。しぶしぶでも、頷いたなら十分だ。
母親が男の子を連れて離れると、周りの大人の体がまた動き始めた。動きが増えると、輪が戻る。
誰かが言った。
「今の見たか? やっぱり危ないじゃないか」
声が大きくなりかける。大きくなれば、また人が寄る。
私は息を止めそうになって、ひと呼吸おいた。焦りが声にならないように。
父は言い返さなかった。
言い返せば言葉が増える。増えれば人が集まる。集まれば、はるが警戒する。
父は、別のことをした。
桶を地面に置く。底が土に当たる、丸い音。丸い音が場の尖りを少し削る。
父は水の器へ水を足した。水の音は静かだ。静かな音は、人の気持ちの速さを落とす。
それから布の結び目を確かめ、板の端を押さえた。風で布がばたつかないように。板が跳ねて音を立てないように。犬が驚かないように。
言葉ではなく、行動で場を落ち着かせる。
それが父のやり方だ。
そこへキオが来た。息を切らしてはいない。でも歩幅が大きい。町の声を飲み込んで持ってきた顔をしている。
「今の、見たぞ。危ないところだったな」
キオは周りを見回し、声を落とした。
「ここで大声が出ると、一気に集まる。先に散らそう」
父は頷いた。
「頼む」
キオは市場の商人に目を向けた。商人は気まずそうに笑って、すぐに頷いた。
「分かった。俺が言う」
商人はいつもの大きな声を出しかけて、途中で抑えた。抑えられるのは、この場の怖さをちゃんと感じたからだと思う。
「おい、囲うな。近づくな。子どもは走るな。見るなら向こうからだ」
短く、具体的な言葉。具体的な言葉は人の足を動かす。
ひとりが二歩下がった。つられて別の人も下がった。輪がほどける。輪がほどけると、居場所が広くなる。
はるの耳が少し下がる。目の動きがゆっくりになる。鼻先が地面に近づく。犬が「今は大丈夫」と判断したときの動き。
胸の奥で、やっと息ができた。
怖かった。
もし父が止められていなかったら。もし私が叫んでいたら。もし誰かが走っていたら。
「もし」が戻ってくると、足がすくむ。
私は息を置いて、手のひらを握り直した。握り直すと今が戻る。今に戻れば、目の前のことだけを見られる。
遠くで、さっきの男の子がこちらを見ていた。母親の後ろに隠れるようにして、でも目だけは離れない。
私は小さく手を振った。大きく振らない。目立てば、また集まる。
男の子が、同じくらい小さく手を振り返した。
その瞬間、居場所の中で、はるがほんの少しだけ尻尾を動かした気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいでも十分だった。
⸻
帰り道、父はいつも通りの歩幅で歩いた。私の歩幅が乱れそうになると、父はほんの少しだけ遅くなる。合わせるというより、私が落ち着ける速さへ戻してくれる。
「怖かったか」
低い声。低い声は、答えやすい。
私は息を置いて、正直に言った。
「……怖かった」
「叫ばなかった」
父はそれだけ言った。褒める言い方じゃない。でも胸に温かいものが残る言い方だ。
「止められたのは、父さんが……」
言いかけて、言葉を探す。全部を父に渡してしまうのは違う気がした。
父が言った。
「お前も止めた」
「……私?」
「走らなかった。名も呼ばなかった」
名。
私ははるの名を、口の中で呼びそうになっていた。呼べば安心する気がした。でも呼べば動くかもしれない。動けば、追う人が出るかもしれない。
父の言葉で、自分が止めたものの形を知った。
家に戻ると、机の上に紙と炭の筆があった。私は椅子に座る。座ると、心も座る。
書く。
日付。天気。居場所に人が集まっていたこと。男の子が走ったこと。犬が警戒したこと。父が低い声で止めたこと。足跡を見せたら男の子が止まったこと。大人の声が大きくなりかけたこと。桶の音と水の音で落ち着いたこと。人が散って、犬が息を吐いたこと。
書くと、怖さが少し小さくなる。怖さは消えない。でも形になると持てる。持てると踏ん張れる。
書き終えると、父が湯の入った杯を置いた。
「飲め」
私は頷いて、杯を両手で包む。温かい。温かいと、今がここにある。
湯気を見ながら、私は小さく言った。
「……足跡、見せた」
自慢じゃない。ただ、自分が動けたか確かめたかった。
父は杯を自分の前に置き、短く言った。
「いい」
それだけで、胸の中が少し軽くなる。
夜、窓の外に星が出始めた。星はいつも通りに瞬いている。変わらないものがあると、変わりそうなものにも向き合える。
遠くで、犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声じゃない。夜に溶ける声。
私はその声を聞きながら、胸元の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。
触れそうで触れない距離がある。
その距離を守れた日には、明日が来る。
台所から父の短い声が聞こえた。
「よし」
私は小さく頷いた。
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