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第42話 噂拡散、英雄の家

朝の市場は、音が軽い。


木箱が石に当たる音。秤の皿が触れる音。紙袋が擦れる音。焼きたての匂いに釣られて、笑い声が転がる。いつもなら、その軽さに私は助けられる。


でも今日は、軽い音の下で、別の音が動いていた。


ひそひそ、という音だ。


ひそひそは小さいのに遠くまで届く。小さいのに耳の奥に残る。残ったまま、人を押す。


「役所が来るんだってな」

「犬の確認だろ」

「危ないなら捕まえるって」

「ほら、英雄の家の……」


英雄。


その言葉が出るたび、胸の中が少し冷える。父は父だ。私の父。だけど町は、父を便利な呼び方にしたがる。便利な呼び方は話が早い。話が早いと、言葉が強くなる。


私は籠の持ち手を握り直し、ひと呼吸おいて前を見る。


声のほうを見てしまうと、噂は増える。噂が増えると人が増える。人が増えると犬が警戒する。犬が警戒すると事故が起きやすくなる。


それだけのことなのに、みんなは「正しい言葉」のほうが大事みたいだ。


粉屋の前に着くと、いつもより人が固まっていた。列ではない。買うための形じゃない。立ち止まって、同じ方向を見ている。


子どもが二人、顔を寄せて話している。


「見に行こうよ」

「噛むんだって!」


噛む。噛むんだって。


噂の中では、もう噛んだことになっている。


私は足を止めた。止まると呼吸が落ち着く。呼吸が落ち着くと、声も落ち着く。


「……どこに行くの?」


できるだけ小さな声で言う。小さい声は人を煽らない。


子どもたちが私を見る。目がきらきらしている。好奇心のきらきら。怖いものを見たいきらきら。


「犬だよ! 英雄の家の犬!」

「ほんとに噛むの? 噛むんでしょ?」


私はひと呼吸おいた。説明を長くしたら声が大きくなる。声が大きくなると人が寄る。


「わからない。でも、近づかないで」


「なんで?」


なんで、の答えを短くする。


「犬が警戒するから。警戒すると、危ない」


子どもたちはすぐには納得しない顔をした。それでも、足が止まった。それでいい。止まってくれれば、走らない。


「見るなら、遠くから。走らないで」


それだけを足して、私は粉屋に入った。


店の主人が私の顔を見ると、小さく息を吐いた。


「今日はまた、変な集まり方だな」


「……少し、ざわざわしてます」


「役所ってのは、紙に書かれたことが強いからな。人の言葉を変える」


私は頷いた。紙はただの紙なのに、人は紙の言葉に弱い。紙に書かれたことを“正しさ”だと思ってしまう。


粉を受け取り、籠に入れて外へ出ると、市場の端で輪ができていた。輪の中心にいるのは、声の大きい商人だ。人を集めるのが上手い人。


「役所が来るんだ! 危ないなら捕まえるって話だろ!」


商人の声は軽い。軽いのに強い。強い声は、人を引っぱる。


胸の中がざわつく。ざわつくと足が速くなる。速くなると目立つ。目立つと、また言葉が寄ってくる。


だから歩く。急がない。顔を上げすぎない。視線を泳がせない。


市場を抜けて家へ向かう途中、角のところで父に会った。


父は空の桶を持っていた。水の器に足すための桶。父は私の籠を見て頷き、それから私の目を見た。目だけで「何かある」と聞いてくる。


私はひと呼吸おいて、短く言った。


「人が増えてます」


「どこ」


父の問いも短い。


「市場から。犬の居場所のほうに、流れてます」


父は桶を持ち直した。急がない。急がないのに迷いがない。


「声は」


「大きくなりそうです」


父は一度だけ頷いた。


「声を大きくするな。増える」


私への言葉でもある。私は頷いた。焦って「早く!」と言うだけで、周りの足が同じ方向へ向いてしまう。



居場所へ向かう道で、すれ違う人が増えた。買い物袋を持っているのに歩き方が違う。用事の歩き方じゃない。見るための歩き方だ。


居場所が近づくと、ざわめきが波みたいに聞こえた。


波は一つ一つは小さい。でも集まると押す。押されると人は前に出る。前に出ると、犬は警戒する。


木の陰から中を覗くと、はるが板の影に伏せていた。体は動かしていないのに目が忙しい。耳が立ち、鼻が空気を嗅いでいる。人の気配を全部拾ってしまう顔だ。


居場所の周りに数人が立っていた。


多くはない。でも位置が悪い。半円の形で、犬を囲うようになっている。半円でも囲いだ。囲われると逃げ道が減る。逃げ道が減ると、犬は警戒を強める。


「おーい、こっち見ろよ」


軽い声が飛んだ。軽い声は犬にとって石だ。


はるが顔を上げた。喉の奥で小さな音が鳴る。唸りじゃない。でも「やめろ」の音。


その音で場が張りつめた。


大人の肩が上がる。子どもが一歩下がる。逆に、一歩近づきかける人もいる。怖いと、人は確かめたくなる。確かめようとして距離を詰める。距離を詰めると、犬はもっと警戒する。


悪い輪が回り始める。


父が前へ出た。


前へ出たといっても、居場所の中に入るわけじゃない。人と犬の間に立つ。父が立つと、そこに見えない線が引かれる。ここから先は違う、という線。


「離れろ」


父の声は低い。低いから刺さらない。怒鳴っていないのに止まる声。


動きが止まった。ざわめきが少しだけ小さくなる。


「見てただけだよ」


男のひとりが笑った。笑いでごまかす笑い。


父は笑いに乗らない。


「見てるだけでも増える。増えれば、犬が警戒する」


「犬が警戒? 犬は犬だろ」


言い返す声が上がりかけた。その瞬間、はるが体を少し起こした。立ち上がる準備。逃げる準備。守る準備。


喉が熱くなる。「やめて」と叫びたくなる。けれど叫ぶと増える。増えたら追う人が出る。追えば事故が起きる。


私はひと呼吸おいて足を止めた。自分が動かなければ、追う理由が減る。


父が短く言った。


「追うな。囲うな。触るな。逃げ道を残せ」


短い言葉が順番に置かれる。短いから頭に入る。入るから手が止まる。


男たちが顔を見合わせた。はるの目はまだ鋭い。でも目線が“出口”に向く。出口を見るのは、まだ逃げられると思っているからだ。逃げられると思えるだけで、犬は少し落ち着ける。


そこへ、市場の商人が追いついてきた。


「おお、英雄の——」


商人が父を見て、いつもの調子で言いかける。


父は、その言葉を途中で切った。声を上げて切ったんじゃない。短く、低く置いた。


「やめろ」


商人が目を瞬いた。


「え?」


「その呼び方をやめろ。増える」


「呼び方ぐらいで——」


父は商人の言葉の先に、現実を置いた。


「事故が起きたら、お前の商売は終わる」


脅しじゃない。事実だ。事実は強い。強いけれど刃じゃない。刃じゃない強さは、人の頭を冷やす。


商人の口が閉じた。目線が犬へ向く。犬の耳が立っているのが見える。商人は“売り物”じゃない“危なさ”を、ここで初めて本気で想像したのだと思う。


「……それは、そうだな」


商人は声を落とした。


「おい、離れろ。囲うな。見たいなら向こうからにしろ。子どもは走るな」


商人は、人を動かす言い方を知っている。だから、こういうときは役に立つ。誰かが動けば、ほかも動く。


ひとりが二歩下がった。つられて別の人も下がった。子どもが親の服を引っ張って後ろへ行く。半円の囲いが崩れる。


はるの喉の音が消えた。体が少し下がる。鼻先が地面に近づく。犬が「逃げられる」と思えたときの動き。


私は胸の奥を撫でるように、ひと呼吸おいた。



そのとき、子どもの声がした。


「ねえ、名前は?」


その一言で、また波が立ちかける。名前、という言葉は犬を動かすことがある。動けば追う人が出る。追えば事故が起きる。


私は声を大きくしないために、子どもの前にしゃがんだ。目線を下げると、声も下げられる。


「名前は、言わない」


「なんで?」


「犬が警戒するから」


「でも、かわいそうだよ」


かわいそう。優しい言葉なのに、使い方が難しい。かわいそうを理由に近づくと、犬はもっと警戒する。もっと警戒したら、もっとかわいそうなことが起きる。


私はひと呼吸おいて、言い方を変えた。


「ここは、犬が落ち着くための場所。落ち着けたら、犬も大丈夫。みんなも大丈夫」


子どもはすぐには分からない顔をした。でも目が少し柔らかくなる。柔らかくなれば、今はそれでいい。


居場所の端で、別の大人がぼそっと言った。


「でもさ、危ないなら捕まえたほうが——」


その声に、また場が張りつめかける。


父はすぐに言い返さない。言い返すと、言葉が増える。増えると、人が寄る。父は“増やさない”ほうを選ぶ。


父は桶を地面に置いた。桶の底が土に当たる音。丸い音が、場の角を少し削る。


父は水の器へ水を足した。水の音は静かだ。静かな音は、犬にも人にもいい。


それから父は、居場所の布の結び目を直した。布が風でばたつかないように。板の端が跳ねないように。犬が驚かないように。


父は剣を抜かない。剣の代わりに、こういうことをする。こういうことが、場を落ち着かせる。


私はその手を見て、胸の中の熱が少し引いた。


そこへ、キオが来た。息を切らしてはいない。けれど歩幅が大きい。町の端で聞いたものを飲み込んで持ってきた顔。


「集まってるな」


キオは周りを見回して、声を落とした。


「市場で誰かが煽ってた。噂が早い」


商人が少し気まずそうに肩をすくめた。


「……悪気じゃねえよ。人が勝手に——」


キオは言葉を遮らず、先に別の言葉を置いた。


「悪気は関係ない。増えるのが問題だ」


キオの言い方は冷たい。冷たいけれど正しい。正しいけれど、刺さりにくい言い方を選んでいる。


「役所が来るってだけで、みんな勝手に不安になる。不安になると見に来る。見に来ると犬が警戒する。警戒したら、役所の人は『やっぱり危ない』と言いやすくなる」


私は頷いた。大人の言葉が、今日は私にも分かる形になっている。


父が短く言った。


「だから、増やさない」


商人がうなずいた。


「分かった。俺も言い方を変える。『見るな』って言うより『近づくな』のほうが効くな」


「そう」


キオは周りの人に向けて言った。


「見たいなら、遠くから。声を上げるな。子どもを走らせるな。ここは通り道じゃない」


言い方は強くない。でも具体的だ。具体的な言葉は、人の足を止める。


人が少しずつ散った。散るというより、元の用事に戻る。市場へ戻る人。井戸へ向かう人。子どもは走り出しそうになって、私の顔を見て、歩いた。歩けた。それだけで十分だ。


居場所の周りに静けさが戻る。


はるは伏せたまま、ゆっくり息を吐いた。目が少し眠そうだ。眠れるのは、安心している証拠。


私は名を呼ばないまま、その証拠を見守った。


父が私の隣に並んだ。


「増えたな」


「……はい」


「止められた」


褒め言葉の形じゃない。でも父の声の温度で、私は“できた”を受け取れる。



帰り道、私は籠の中の粉袋を指で押さえた。布越しに重さが伝わる。重さは現実だ。現実は、心を落ち着かせる。


家に戻ると、机の上に小さな紙と炭の筆が置いてあった。父が何も言わなくても、私は椅子に座った。書くことが、今日の形だと分かる。


日付。天気。市場で聞いた言葉。人が居場所へ流れてきたこと。囲いになりかけたこと。父が「離れろ」と言ったこと。商人が声を落としたこと。キオが具体的に言ったこと。子どもに「名前は言わない」と言ったこと。はるが最後に息を吐いたこと。


書くと、胸の中のざわめきが外に出る。外に出ると、押しつぶされない。


書き終えたころ、父が湯の入った杯を置いた。


「飲め」


私は頷いて、杯を両手で包んだ。温かい。温かいと、今がここにある。


窓の外で夕方の光が薄くなる。星が出る前の空は、まだ青い。青い空は、まだ何も決めない色に見える。だから、守れる側の色でもある。


私はひと呼吸おいてから湯を飲んだ。


噂は増えた。見物も増えた。犬は警戒した。

でも、事故は起きなかった。


父は剣を抜かなかった。

私は名を叫ばなかった。


それだけで、明日は少し迎えやすい。


夜、遠くで犬の長い声が一度だけ伸びた。吠える声じゃない。夜に溶ける声。


私はその声を聞いて、胸元の木札を指で押さえた。押さえるのは落ち着くため。声を大きくするためじゃない。


台所から、父の短い声が聞こえた。


「よし」


私は小さく頷いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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