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第41話 監査予告、近づく足音

朝の台所は、湯の音がいちばん大きい。


父が鍋に水を入れると、底で小さな泡が生まれ、やがて白い湯気になる。私の朝は、その白いものを見てから始まる。湯気は形を持たないのに、あると安心する。


今日は、その安心が少しだけ薄かった。


戸口で紙が擦れる音がした。配達の人の声。父の短い返事。受け取った封筒の角が、朝の光を返す。役所の印が押してある。


父は封を切った。乱暴にはならない。ただ、いつもより指先が丁寧だった。慎重になる、という動き。


私は椅子に座ったまま父の横顔を見る。父は読んでいる。眉をひそめない。口元も変えない。けれど文字を追う目だけが、ほんの少し固い。


その固さが、私の胸に移った。


「……悪い知らせ?」


父は紙を畳まず、机の上に置いたまま私を見た。


「確認に来る」


「確認?」


「役所の人が。犬のことだ」


その一言で喉の奥が乾く。乾きが声になりそうで、私は息を吐いた。


「……ふー」


「……連れていく、ってこと?」


父は首を横に振る。否定は短い。短いほうが、今はありがたい。


「そうとは書いてない。安全の確認だ。危険があるなら、捕まえることもある、と」


紙の言葉は硬い。硬い言葉には角がある。角は触れると痛い。私は机の縁を指でなぞり、痛みをごまかすみたいに順番を整えた。


父が湯を注いだ。私の前に杯を置く。温かいものがそこにあるだけで、胸の奥が少し戻る。


父は言う。


「騒ぐな」


命令じゃない。押しつけでもない。必要なことだけを置いた、いつもの声。


「準備するだけだ」


準備。準備って、何をすればいいんだろう。


焦ると声が大きくなる。声が大きくなると、周りの声も大きくなる。父はそれを嫌う。私も嫌だ。嫌なのに、怖いと、自然に大きくなりそうになる。


私はもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


「……見に行く?」


父は頷いた。


「居場所を」


その言い方が、私を少し落ち着かせた。犬じゃない。誰かの持ち物でもない。

ただ、「息をしている場所」。



外へ出ると、朝の町はもう動いていた。桶を運ぶ音、箒の音、呼び声。いつもなら丸く聞こえるのに、今日は少し尖っている。尖っているのは、私の耳のほうかもしれない。


居場所は城下の端、少し開けたところにある。布で風を避け、古い板で雨をしのげるようにした、小さな囲い。水の器が置いてある。大きくはない。だからこそ、人が集まると窮屈になる。


私たちが近づくと、犬は顔を上げた。


黒くはない。茶色が混じった毛並み。耳が立ち、目がこちらを測るように動く。体は寝そべっているけれど、すぐに起きられる姿勢だった。


今日は、人の気配に敏感さが増している。普段より耳の角度が鋭い。喉の奥で小さく息が鳴る。


私は名前を呼びたくなった。呼べば安心する気がした。私が安心したいだけなのに。


父が、私の前に手を出して止めた。


「呼ぶな」


低い声。低いから刺さらない。


「近づくな。距離のまま」


距離のまま。父は白か黒かで切らない。「まま」で止める。止めることで、余計なことが起きない。


私は頷いて足を止めた。止まると胸が少し軽い。軽くなったところで、息を吐く。


「……ふー」


犬はそれを見た。耳がわずかに下がる。目の動きがゆるくなる。

私が近づかないことが、犬にとっての安心になる。


知っている。知っているのに、怖いと忘れそうになる。


居場所の近くを二人の大人が通り過ぎた。目線がこちらへ向き、すぐ逸れた。逸れる速さが、かえって気になる。


父は何も言わないまま、布の結び目を確かめる。水の器の位置を直す。板の端が浮いていないか、指で押さえる。


剣を持つ手が、今日は紐と板を扱っている。

それが、父らしい。



居場所から戻る道で、噂が耳に入った。


「役所が来るんだってな」

「危ないからだろ。噛むかもしれん」

「英雄の家の……」


英雄、という言葉が出た瞬間、胸がきゅっと縮む。父は表情を変えない。変えないけれど、歩く速さが少しだけ整う。早くも遅くもない。ただ、揺れないための速さ。


角を曲がったところで、キオがいた。


背の高い、働き者の男だ。町のあちこちを動き回っている。顔も広い。役所とも話ができる人。


キオは父を見ると、眉を上げた。


「来るんだって?」


父は頷くだけ。


「紙が来た」


「そりゃそうだよな……。あっちは責任がある。何かあったら困るのは役所だ。だから言葉が強くなる」


キオの言葉は現実に寄っている。現実は冷たい。けれど冷たいからこそ、手を置ける場所が見つかる。


私は訊いた。


「強い言葉、って?」


キオは一瞬だけ迷ってから、私にも分かる言い方に変えた。


「『危ないかもしれないから、確かめる』ってことを、紙にするとき、尖りやすいってこと。尖ると、人も尖る」


父が短く言う。


「尖らせない」


「そう。こっちが騒いだら、向こうはもっと強くなる」


キオは腕を組み、居場所の方角を見た。


「口だけじゃダメだぞ。『大丈夫』って言うだけじゃ押し切られる。見せる形がいる」


父は頷いた。


「形を作る」


形、という言葉が少し怖い。けれど同じくらい安心でもある。形があるなら守れる。形がないと押される。


掲示板の前に、いつもより人が集まっていた。役所の紙はまだ貼られていないはずなのに、話が回るのは早い。

「危険なんだろ」

「捕まえるべきだ」


その輪の中心に、グラドがいた。


大きな声の男だ。悪い人ではない。むしろ、正しいと思う方向へ真っすぐ行く。町の子どもや年寄りに何かあったら、と先に考える。その正義感が、声を硬くする。


「おい、英雄さん」


その呼び方に、父は反応しない。見もしない。拾わないことで、言葉の刃を鈍らせる。


グラドは父が反応しないと分かると、矛先を私に向けた。


「お嬢ちゃん。危ないんだろ? 役所が来るってのはそういうことだ。噛まれたらどうする。子どもが噛まれたら——」


喉が熱い。怒りじゃない。怖さだ。怖さが熱を作る。熱が声になりそうで、私は息を吐いた。


「……ふー」


父が先に言った。


「責任の話は、今しなくていい」


声が低い。低い声は、上から叩かない。


「事故を作らない話をする」


グラドが鼻で笑う。


「事故? 犬がいるだけで事故だろ」


場が張りつめる。周りの大人の肩が上がるのが見える。子どもたちが少し離れる。ミーナが私の方を見て、唇を噛んだ。


父は剣に手を伸ばさない。帯びていても触れない。今日はなおさら触れない。


父は居場所の方へ、指を向けるというより、順番を置く。


「近づくな。追うな。囲うな。触ろうとするな」


短い言葉が、一つずつ地面に落ちるみたいに並ぶ。


「逃げ道を残せ」


グラドが言い返そうとする。


「そんなの——」


父は目を上げた。声を強くしない。けれど目線だけで「そこで止まれ」と伝える。剣の代わりに、間合いがある。


グラドの言葉が喉で止まった。


父は続けた。


「役所が見るのは『犬がいる』じゃない。『事故が起きる』だ。事故を起こさない形を見せる」


キオが横から言った。


「そうだ。役所は“紙の言葉”で来る。こっちは“やり方”で返すしかない」


私は父の背中を見た。背中が大きい。大きいのに、押しつけてこない。守り方が、押すことじゃないからだ。


それでも、胸の中の怖さは消えない。

役所が来る。見に来る。もし犬が怖がって動いたら。もし誰かが声を上げたら。もし——。


「もし」が増えると、頭が重くなる。


私はミーナの方へ目を向けた。ミーナは小さく首を振った。泣きそうな顔で、でも泣かずにいる顔。私も同じだと思った。


私はひと呼吸おいて、父にだけ渡すように小さく言った。


「……怖い」


父は私を見た。


「怖いなら、準備しろ」


準備。準備は叫ぶことじゃない。準備は形を作ること。


キオが頷いた。


「まずは掲示だ。役所の紙が貼られたとき、“捕まえる”だけが先に読まれるとやばい。読む順番を作る」


読む順番。父が朝に言った言葉が、ここで繋がる。


父は短く言った。


「条件を先に」


「そう。『近づかない』『追わない』を先に書く。子どもにも分かる言葉でな」


グラドが渋い顔をしている。でも、さっきより声が小さい。父が勝ったからじゃない。場が落ち着いたからだ。


キオが続ける。


「それから、当番だ。水の器の確認。布の結び直し。見物が増えたら声をかける。誰か一人が背負うと潰れる。回す」


父は頷いた。


私は、その話を聞きながら、頭の中で小さく並べた。


近づかない。追わない。囲わない。触らない。逃げ道を残す。

そして——名は、叫ばない。


名を叫ぶと犬が動く。犬が動くと周りが動く。動くと事故が起きる。事故が起きると役所の紙が強くなる。強くなると、犬がいなくなる。


胸元を押さえた。そこにある私の木札。

犬の木札は居場所にあるけれど、私の木札もある。私が私でいるための目印みたいなもの。



帰り道、父は私の歩幅に合わせて歩いた。合わせるというより、乱れないように。私が小さく揺れるとき、父は大きく揺れない。


「父さん」


「ん」


「役所の人、怖い?」


父は少しだけ考える間を作ってから答えた。


「怖いのは、人だ」


「人?」


「紙も役所も、人が動かしてる。人が怖がれば言葉が強くなる。だから、怖がらせない」


優しい言い方。でも甘くない。現実の中で、できることだけを言っている。


家に戻ると、父は小さな紙切れを出した。台所の隅に置いてあった余り紙。炭の筆。父はそれを私に渡した。


「書け」


「何を?」


「今日、見たこと。犬が噛んだか。追ったか。人が増えたか。増えたなら、どうしたか」


私は目を見開いた。難しい言葉はない。全部、私にも分かる。分かることだけを書けばいい。


「これが……形?」


「形だ」


父はそれだけ言って鍋の火を調整した。命令じゃない。形を渡した。私は受け取る。


私は紙に、ゆっくり書き始めた。


日付。天気。居場所の様子。耳が立っていたこと。人の目が多かったこと。私が名を呼びたくなったこと。呼ばなかったこと。


書くと、胸の中の「もし」が少し減る。もしが減ると、今が見える。今が見えると、怖さが小さくなる。



夜になって、父が湯を入れた桶を運ぶ音がした。私は窓辺で星を見た。星はいつもと同じようにある。あるのに、今日は少しだけ近い気がする。見られている気がする。


それでも、押されている感じはしない。


父が背後に立った。黙って毛布を私の肩にかける。言葉より先の手。


「父さん」


「ん」


「……明日も、書く」


父は短く言った。


「よし」


その一言で、胸の中の湯気が戻る。形のない安心が、もう一度、形を持った気がした。


遠くで、犬の声が一度だけ聞こえた。吠え声ではなく、長く伸びる声。夜の町に溶けて消えていく。


私はその声を、名で呼ばないまま聞いた。


怖い、は消えない。

でも、怖いままでも準備はできる。

準備ができるなら、明日を迎えられる。


星は黙って瞬いていた。

私はひと呼吸おいて、毛布の端を握り直した。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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