第40話 家の前の騒ぎ、はるが座る場所
朝の匂いは、家の形をしていた。
火鉢の赤い匂い。
湯気がほどける匂い。
木の匙が器に触れる乾いた音――音なのに、匂いみたいに胸へ落ちてくる、その「薄さ」。
薄いままの世界は、私の胸の奥の糸をほどけきらせない。
ほどけきらないなら、私は私のまま座っていられる。
私は椅子の上で息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、胸の内側を一度だけ撫でる。
それだけで、朝は「始めてもいい形」になる。
父も鍋の前で口をすぼめて、同じように吐く。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れた。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
父が短く言う。
「よし」
その「よし」で朝の形が閉じる。
閉じると、次のことを考えられる。
次のことを考えるには、先に今を終わらせないといけない。
父は棚の前で、静かに手を動かした。
水筒。木の器。布。干しパン。細い紐。
並べ方に無駄がない。無駄がないと物が暴れない。物が暴れないと、胸も忙しくならない。
私は胸元の紐に触れた。
小さな木片――言葉の木札。刻まれた短い言葉。
だいじょうぶ。
握りしめたくなる。
握りしめると痛くなる。
だから、落ちないくらい。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が言った。
「……今日は、外が動く」
外が動く。
人の足音が増える日の言い方だ。
増えると声が増える。声が増えると空気が硬くなる。硬い空気は刺さる。
喉の奥が少し冷たくなる。
冷える前に息を吐く。
「……ふー」
父は私を見て、短く言った。
「……出なくていい。敷居まででいい」
敷居まで。
線が置かれる。線があると、私は落ちない。
父は鍋の火を弱め、戸口の布の壁を確かめた。
結び目を指で押さえる。不格好でもほどけない形。
それから、台所の隅の壁へ視線を向ける。
そこにある、名前の木札。
父が一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げて、短い音を返す。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
二音が落ちると、胸の奥の糸が結び直される。
結び直されると、外の硬さが来ても戻れる。
……そのとき。
戸口の向こうで足音が止まった。
こつ。
こつ。
二つ。
二つの足音は、波になる手前の数だ。まだ持てる。
けれど声が混ざった。小さくない声。
「すみません! お父さん、いるか!」
お父さん。
生活の呼び方。生活は刺さらない――はずなのに、声が大きいと刺さる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は戸口へ向かった。
扉を大きく開けない。結び目を確かめ、隙間だけ作る。
父の声は低く短い。
「……用件は」
外の男の声が焦りを含んだまま返る。
「犬だ! 犬が……お前んちの前に来てる!」
犬。
その一語で胸の奥がきゅっと縮む。縮むと息が浅くなる。浅くなる前に吐く。
「……ふー」
父は落ち着いたまま言う。
「……噂にするな。声を落とせ」
男が一拍黙って、声を小さくした。
「……すまん。……犬が、門の近くで座ってる。子どもが集まりかけてる」
集まりかけてる。
集まる前に止める。小さいうちに線を置く。
父が短く言った。
「……止める」
父は扉を閉めない。
けれど私を見た。
押してこない目。
“線を守れ”の目。
「……敷居」
私は頷いた。頷きは軽い。軽いと絡まらない。
椅子から降りて、敷居の手前へ歩く。
足の裏が布の上で擦れる音が丸い。丸い音は刺さらない。
私は息を吐く。
「……ふー」
父は外へ出る支度をしながら、私の胸元を指さした。
言葉の木札。
「……持て。握るな」
私は木札に指を添える。落ちないくらい。落ちないくらいなら痛くない。
父が扉を少し開け、外へ出た。
外の匂いが細い線になって入ってくる。
土。風。木。
そして、湿った毛の匂い。
匂いが近いと胸が忙しくなる。忙しくなる前に息を吐く。
「……ふー」
敷居の手前から外を見た。
門の外――道の端。
そこに、はるがいた。
伏せてはいない。
座って、こちらを見ている。
目は疲れている。
疲れているのに逃げていない。
期待は危ない。期待は圧になる。
圧になる前に息を吐く。
「……ふー」
周りに人がいた。
門の向こう、道の反対側、少し離れた場所に三人、四人。
子どもも混ざっている。
ひそひそが重なる。
「ほんとだ……」
「近いぞ……」
「石、持つなよ」
「でも、怖い……」
怖い、は正しい。
でも声が増えると空気が硬くなる。硬い空気ははるを刺す。
刺されると、はるは固くなる。
固くなると、人は騒ぐ。騒ぐと、波になる。
波になったら、私は落ちる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は門の内側で立ち止まった。
剣に触れない。触れないまま、間合いだけで場を切る。
父の声が落ちる。低く、短く。
「……止まれ」
誰に言ったのか分からない。
でも声は“場”に落ちる。落ちると、空気が一拍止まる。
父は続けた。
「……集まるな。声を落とせ。石を持つな」
石を持つな。
その言葉で子どもの手が止まるのが見えた。止まると事故が減る。事故が減ると空気が柔らかくなる。
父は腰の袋から細い紐を出した。
地面にすっと伸ばして、門の内側に線を作る。跨げるのに、跨がない線。
父が言う。
「……ここから先へは行かない」
線が置かれる。
線が置かれると、胸が少し楽になる。
父は人の方へ向けて言った。
「……この犬は追わない。囲わない。触らない」
追わない。囲わない。触らない。
短い言葉が揃うと形になる。形になると、人の手が暴れない。
外の男が小さい声で言った。
「……でも、お父さん。町の者が――」
父は振り返らず、短く返す。
「……不安にさせない。噂にするな」
噂にするな。
それは人へ向けた線だ。線があると話が膨らまない。膨らまないと集まりが増えない。
父は次に、はるへ向けて低い声を落とした。
「……はる」
呼ぶのは一回。返事を求めない。
はるの耳が動いた。
しっぽが、ほんの少しだけ動いた。
胸の奥が温かくなる。温かさが膨らまないように息を吐く。
「……ふー」
父は木の器に水を注ぎ、門の外――でも正面ではない場所へ、そっと置いた。
逃げ道を残す位置。逃げ道があると噛まない。
父が短く言う。
「……飲め。奪わない」
はるは一歩だけ動き、止まる。
迷ってから水を飲んだ。飲む音が小さい。小さい音は刺さらない。
周りの人が息を飲む気配がした。
息を飲むと声が出やすい。声が出る前に、父の声が落ちた。
「……見物するな。帰れ」
帰れ。
追い払う怒りじゃない。場を小さくするための言葉だ。
大人が一人、困ったように言う。
「……お父さん、それは……」
父が言う。
「……ここは家だ」
家だ。
英雄でも噂でもない。家。
その言葉が、私の胸にも効く。胸の奥が少し広がる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
人が少しずつ散り始めた。
散ると声が減る。声が減ると空気が柔らかくなる。
――でも。
子どもが一人、門に近づこうとした。
手に小さな木札を握っている。
善意の顔。善意は温かい。
でも善意が近いと、はるは怖がる。
喉の奥が冷たくなる。冷たくなると息が浅くなる。浅くなる前に吐く。
「……ふー」
そして敷居の手前から、短い声を落とした。
「……とまって」
声は小さい。
でも、落ちた。
子どもがびくっとして足を止めた。止まると線が守られる。
子どもが私を見る。
視線が刺さりそうになって、私は息を吐く。
「……ふー」
父が、私の声を聞いて、こちらを見ずに一言だけ言った。
「……よし」
褒めるためじゃない。
“線が守れた”の印だ。
父は子どもへ短く言う。
「……置くなら、あそこ。近づくな」
父が指さしたのは、道の端の石の近く。
はるの正面じゃない、斜めの位置。逃げ道を残す位置。
子どもは頷き、門から離れて、指定された場所へ木札を置いた。
置く。手から渡さない。置くなら圧にならない。
父は最後に、もう一つ線を増やした。
門の柱に、小さな木札を結びつける。
白い木札に、炭の黒で二文字。
は
る
その下に、小さな星の印。
星の印は私の印。大きくない。丸い。生活の印。
父が周りの大人へ短く言った。
「……名はここ。騒ぐな。追うな」
名はここ。
名前は噂になる。噂は犬を追う。
だから名を“ここに”置く。広げないために、ここに置く。
大人たちがようやく頷いた。
「……分かった」
「……声をかける」
「……帰ろう」
足音が遠ざかる。
遠ざかると空気が薄くなる。薄い空気は刺さらない。
はるは水を飲み終え、門の外の端に座ったまま目を細めた。
眠い目。眠い目は戦わない目。
胸の奥がじんわり温かくなる。
温かいのに忙しくならない。忙しくならないのは、線があるからだ。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が、はるへ向けて低い声で言った。
「……ここで休め」
休め。
住め、ではない。今だけの場所。
父は古い布を一枚、門の外の端へ置いた。
正面じゃない。逃げ道を残す位置。
はるは布を見て匂いを嗅ぎ、少し迷ってから、布の端に体を寄せた。
寄せるだけ。乗らない。
でも寄せた。
父が短く言う。
「……よし」
父は門の内側へ戻った。
線は残したまま。剣は抜かないまま。
扉を閉める前に、父が私を見た。
押してこない目。
“今の場所で十分だ”という目。
私は敷居の手前に立ったまま、胸元の木札に触れた。
だいじょうぶ。
声にしない。息だけ吐く。
「……ふー」
父が扉を閉め、布の壁を整えた。
結び目を確かめる。不格好でもほどけない結び目。
父が短く言う。
「よし」
家の匂いが戻ってくる。
火鉢の赤。湯気の白。布の薄さ。
戻る匂いは、胸の糸を守る。
私は椅子に座って、しばらく何も言えなかった。
言葉を出すと温かさが膨らんでしまいそうだったから。膨らむと外へ出てしまう。外へ出ると線が崩れる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が私の前に木の器を置いた。
お湯。湯気。湯気は丸い。丸いものは刺さらない。
父が言った。
「……今のが、家の前の線だ」
家の前の線。
私は小さく頷いた。
父は続ける。
「……犬は悪くない。人の声が増えると犬が怖がる。犬が怖がると、人が怖がる」
順番がある。
順番が分かると、怖さは全部にならない。
私は喉の奥で短い石を探した。
「……わたし、こえ……」
こえ。
私の声は小さい。
でも今日、止めるために落とせた。
父が頷く。
「……落とせた」
褒める言い方じゃない。確認の言い方。
確認は、胸を落ち着かせる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げて、二音を返した。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
その「よし」は、今日の外の硬さを、家の薄さで包み直してくれる音だった。
窓の外から、かすかに布が擦れる音がした。
門の外の布に、はるが体を寄せ直したのだと思った。
音は小さい。小さい音は刺さらない。
私は胸元の木札に触れた。
だいじょうぶ。落ちないくらいで持つ。
そして最後に、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、家の中の薄い光をもう一段だけ薄くして、胸の奥に「線は守れる」という小さな形を置いてくれた。
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