第4話 星の糸と、布の境界
夜は、私にとっていつも少しだけ遠かった。
昼の間は、世界がこちらに寄ってくる。
湯気の匂いが近く、火鉢の赤が近く、父の足音が近い。
けれど夜になると、世界が引いていく。
音が薄くなる。匂いが薄くなる。
部屋が広くなる。
広い家は、夜に負けやすい。
天井の高さが暗さを抱え、廊下の長さが沈黙を増やす。
壁は厚いのに、空気は冷たい。
冷たい空気は、心の奥へ入りやすい。
私は、夜の冷たさが苦手だった。
寒さというより――光が怖い。
星の光は優しいと言う人がいる。
暗い世界に道をつける綺麗な光だと。
でも私にとって星は、優しさより先に「見られている」感じを運んでくる。
誰かが遠くから覗いている。
誰かが静かに数えている。
言葉を知らなかった私は、それを「見られている」と呼べない。
ただ胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。手が冷たくなり、指が布を探す。
夜が深くなるほど、星は増える。
増えるほど、目に見えない視線も増える気がした。
その夜もそうだった。
◇
父は火鉢の火を弱くして、部屋を眠りの形に整えていた。
籠に布を敷き、頬に触れて温度を確かめ、湯を少しだけ沸かして匂いを残す。
眠りの準備は、世界を小さくする作業だ。
父はそれを知っている。
私を籠へ寝かせるとき、父は必ず一拍置く。
抱き上げる前と同じ、一呼吸。
私を物みたいに置かないための、短い間。
私は目を閉じようとした。
閉じようとしたのに――閉じられなかった。
窓の方が、明るかったからだ。
昼の光ではない。月でもない。
もっと細くて、冷たい光。
星。
窓に掛けられた薄い布の隙間から、星の光が糸みたいに入ってきていた。
糸は空気の揺れで形を変えながら、ゆっくり部屋の中へ伸びてくる。
その糸に触れた瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
息を吸おうとしたのに吸えない。
浅い呼吸が、さらに不安を呼ぶ。
私は声を出した。
泣き声というより、息が詰まる音。
小さく、ひどく頼りない音。
でも父は聞き逃さない。
足音が近づく。静かで、迷いがない。
籠の縁に手が触れ、頬に指の腹が当たる。
硬い指。けれど熱を持ったやさしい硬さ。
「……どうした」
問いかける声。
怒りでも不機嫌でもなく、私を“ここにいるもの”として扱う声。
私は答えられない。
だから布を掴んで引いた。見えない何かから逃げるみたいに。
父は私の指先を見て、それから窓を見た。
その瞬間、空気が少し変わる。
父の背中がわずかに硬くなる。
剣士の硬さじゃない。
生活を守る人の硬さだ。
父は私を抱き上げた。
いつも通り、ゆっくり。私の目が追いつく速度で。
胸の温度が戻ると、呼吸が少し深くなる。
深くなると涙は引いていく。
父の体温は、私の中の火鉢みたいだった。
父は私を抱いたまま窓へ向かった。
窓の布は掛かっている。
けれど薄い。昼には足りても、星の糸には負ける。
父は外を見た。
満天の星。静かで淡々として、逃げ場のない光。
父は布の端をそっとめくる。
冷たい空気が入り、私は肩をすくめた。
父はすぐ布を戻し、低い声で言った。
「……薄いな」
誰に言ったのか分からない。
星に言ったのか、自分に言ったのか。
でもその声は、決める声だった。
◇
父は片腕で私を抱え直し、部屋の隅へ向かった。
畳まれた布が積まれている。
この家に来てから増えた布。夜と同じ色の布。
父は一番厚い布を引き出した。
重い。触れた指先に冷たさが残る。
父は布を広げ、窓へ運んだ。
ただ掛けるだけじゃない。
端を折り返し、結び目を作り、固定する。
隙間の形を消していく。
風が入らない角度を探し、留め具をそっと押し込む。
余計な音を立てない。
それなのに、手つきに迷いがない。
その間、父は一度も私を落とさなかった。
抱えた腕の中の重さを、ずっと確かめているみたいだった。
重さがあることを、父は大事にしている。
布が掛かると、部屋の光が変わった。
明るさが減ったんじゃない。
冷たさが減った。
星の糸が、布に吸われて薄まる。
刺す光が、染みる光になる。
痛みのない光。
私は父の胸の中で息を吸った。
今度は吸えた。
吸えるだけで、胸の奥のざわつきがほどけていく。
父は窓から一歩下がった。
近づきすぎず、離れすぎず。見守れる距離。
そして短く言った。
「……大丈夫だ」
意味は分からない。
でも声が熱を持っているのは分かる。
熱を持った声は、私の中に火種を残す。
◇
父は私を籠のそばへ戻した。
籠の布は整えられている。
火鉢の火は弱い。湯気の匂いが薄く残っている。
世界が眠りの形になっている。
父が私を下ろそうとした瞬間、私は指を伸ばして外套を掴んだ。
離れるのが怖かった。
温度が離れるのが怖かった。
窓の向こうの星が、また戻ってくる気がした。
父は一瞬止まった。
止まったけれど、無理にほどかない。
父は小さく息を吐き、私の手の上に指を重ねた。
ほどくためじゃない。安心を増やすためだ。
「……ここにいる」
約束じゃない。誇張もしない。
ただ現実を置く言葉。
その言葉があると、私は少しだけ離れられる。
父はゆっくり私の指を外し、籠へ下ろした。
下ろすときも乱暴にしない。
世界が少し冷える。
でも今は、窓の布がある。
星の糸が入ってこない。
冷たい視線が届かない。
部屋の中は、父の作った境界線で守られている。
父は籠の横に座った。椅子じゃない。床に。
床は冷たいはずなのに、父はそこを選ぶ。
私の近くにいるために。
父は黙って私の呼吸を聞いた。
置き去りにしない沈黙。眠れるのを待つ沈黙。
私は息を吸って、吐いた。
吸って、吐いた。
父の呼吸も、すぐ近くで同じ速度になる。
呼吸が重なると、世界は少しだけ安心する。
父は低い声で呼んだ。
「……ルミシア」
その音は今では、私の中に居場所を持っている。
胸の奥に落ちて、火鉢みたいに温かい。
父はもう一度。
「ルミシア。……眠れ」
お願いの声。
私は、お願いを受け取って目を閉じた。
暗闇が来る。
けれど暗闇は冷たくない。
布が星の糸を薄め、父の声が私を繋いでいる。
剣では届かないものには、布を掛ける。
その選び方が、父の強さだ。
◇
夜が深くなると、私はふと目を覚ますことがある。
窓の方を見てしまう。星の糸が入ってきていないか確かめたくなる。
その夜も、一度目を開けた。
部屋は暗い。火鉢の赤はほとんど消え、湯気の匂いも薄い。
でも窓の方は暗闇のまま、冷たくない。
布が静かに掛かっている。
外の風に触れて、ほんの少しだけ揺れている。
その揺れが、私を安心させた。
――そこにある。守りがある。
私は眠りの中で小さく息を吐いた。
そのとき父の影が動いた。
床に座ったまま眠っていた父が、目を開ける。
音を立てずに身を起こし、頬に指を当てる。
温度を確かめる指。確かめるのは、私の存在。
父は短く言った。
「……よし」
暗闇に小さな灯りが置かれる。
眩しくない灯り。火鉢の赤みたいに静かで暖かい。
父は窓の布を一度だけ見て、息を吐いた。
そこには言葉にならない拒絶が混ざっていた。
星の向こうの“誰か”へ。
そして私へ。
父はまた床に座り、目を閉じる。
眠るというより、そこにいる。
私はその背中を記憶した。
星より先に。
◇
朝が来る前、窓の布の向こうが少しだけ明るくなる。
光は通す。でも刺させない。薄めて、柔らかくする。
父は早く起きて布を少しめくり、外の空気を確かめた。
冷たい風が入り、私は身じろぎする。
父はすぐ布を戻し、火鉢に炭を足した。
ぱちり、と鳴る。赤が戻る。世界が生活へ戻っていく。
父は私を抱き上げ、胸に寄せた。
「……夜は、もう終わる」
意味は分からない。
でも父の声の中に「終わる」という安心がある。
怖いものも、ずっとは続かない。
父は布の結び目を確かめ、隙間を消した。
誰も拍手をしない小さな作業。
でも私は知っている。
その小さな作業が、私の夜を救った。
星の糸を薄め、息を深くして、眠りをくれた。
父が剣で世界を救ったのかどうか、私は知らない。
けれど布で、私の夜を救ったことは知っている。
それだけで、十分だった。
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