表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/83

第4話 星の糸と、布の境界

夜は、私にとっていつも少しだけ遠かった。


昼の間は、世界がこちらに寄ってくる。

湯気の匂いが近く、火鉢の赤が近く、父の足音が近い。


けれど夜になると、世界が引いていく。


音が薄くなる。匂いが薄くなる。

部屋が広くなる。


広い家は、夜に負けやすい。

天井の高さが暗さを抱え、廊下の長さが沈黙を増やす。


壁は厚いのに、空気は冷たい。

冷たい空気は、心の奥へ入りやすい。


私は、夜の冷たさが苦手だった。


寒さというより――光が怖い。


星の光は優しいと言う人がいる。

暗い世界に道をつける綺麗な光だと。


でも私にとって星は、優しさより先に「見られている」感じを運んでくる。


誰かが遠くから覗いている。

誰かが静かに数えている。


言葉を知らなかった私は、それを「見られている」と呼べない。

ただ胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。手が冷たくなり、指が布を探す。


夜が深くなるほど、星は増える。

増えるほど、目に見えない視線も増える気がした。


その夜もそうだった。



父は火鉢の火を弱くして、部屋を眠りの形に整えていた。


籠に布を敷き、頬に触れて温度を確かめ、湯を少しだけ沸かして匂いを残す。

眠りの準備は、世界を小さくする作業だ。


父はそれを知っている。


私を籠へ寝かせるとき、父は必ず一拍置く。

抱き上げる前と同じ、一呼吸。


私を物みたいに置かないための、短い間。


私は目を閉じようとした。

閉じようとしたのに――閉じられなかった。


窓の方が、明るかったからだ。


昼の光ではない。月でもない。

もっと細くて、冷たい光。


星。


窓に掛けられた薄い布の隙間から、星の光が糸みたいに入ってきていた。

糸は空気の揺れで形を変えながら、ゆっくり部屋の中へ伸びてくる。


その糸に触れた瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。


息を吸おうとしたのに吸えない。

浅い呼吸が、さらに不安を呼ぶ。


私は声を出した。


泣き声というより、息が詰まる音。

小さく、ひどく頼りない音。


でも父は聞き逃さない。


足音が近づく。静かで、迷いがない。

籠の縁に手が触れ、頬に指の腹が当たる。


硬い指。けれど熱を持ったやさしい硬さ。


「……どうした」


問いかける声。

怒りでも不機嫌でもなく、私を“ここにいるもの”として扱う声。


私は答えられない。

だから布を掴んで引いた。見えない何かから逃げるみたいに。


父は私の指先を見て、それから窓を見た。


その瞬間、空気が少し変わる。

父の背中がわずかに硬くなる。


剣士の硬さじゃない。

生活を守る人の硬さだ。


父は私を抱き上げた。

いつも通り、ゆっくり。私の目が追いつく速度で。


胸の温度が戻ると、呼吸が少し深くなる。

深くなると涙は引いていく。


父の体温は、私の中の火鉢みたいだった。


父は私を抱いたまま窓へ向かった。


窓の布は掛かっている。

けれど薄い。昼には足りても、星の糸には負ける。


父は外を見た。

満天の星。静かで淡々として、逃げ場のない光。


父は布の端をそっとめくる。

冷たい空気が入り、私は肩をすくめた。


父はすぐ布を戻し、低い声で言った。


「……薄いな」


誰に言ったのか分からない。

星に言ったのか、自分に言ったのか。


でもその声は、決める声だった。



父は片腕で私を抱え直し、部屋の隅へ向かった。


畳まれた布が積まれている。

この家に来てから増えた布。夜と同じ色の布。


父は一番厚い布を引き出した。

重い。触れた指先に冷たさが残る。


父は布を広げ、窓へ運んだ。


ただ掛けるだけじゃない。


端を折り返し、結び目を作り、固定する。

隙間の形を消していく。

風が入らない角度を探し、留め具をそっと押し込む。


余計な音を立てない。

それなのに、手つきに迷いがない。


その間、父は一度も私を落とさなかった。

抱えた腕の中の重さを、ずっと確かめているみたいだった。


重さがあることを、父は大事にしている。


布が掛かると、部屋の光が変わった。


明るさが減ったんじゃない。

冷たさが減った。


星の糸が、布に吸われて薄まる。

刺す光が、染みる光になる。


痛みのない光。


私は父の胸の中で息を吸った。

今度は吸えた。


吸えるだけで、胸の奥のざわつきがほどけていく。


父は窓から一歩下がった。

近づきすぎず、離れすぎず。見守れる距離。


そして短く言った。


「……大丈夫だ」


意味は分からない。

でも声が熱を持っているのは分かる。


熱を持った声は、私の中に火種を残す。



父は私を籠のそばへ戻した。


籠の布は整えられている。

火鉢の火は弱い。湯気の匂いが薄く残っている。


世界が眠りの形になっている。


父が私を下ろそうとした瞬間、私は指を伸ばして外套を掴んだ。


離れるのが怖かった。

温度が離れるのが怖かった。

窓の向こうの星が、また戻ってくる気がした。


父は一瞬止まった。

止まったけれど、無理にほどかない。


父は小さく息を吐き、私の手の上に指を重ねた。

ほどくためじゃない。安心を増やすためだ。


「……ここにいる」


約束じゃない。誇張もしない。

ただ現実を置く言葉。


その言葉があると、私は少しだけ離れられる。


父はゆっくり私の指を外し、籠へ下ろした。

下ろすときも乱暴にしない。


世界が少し冷える。

でも今は、窓の布がある。


星の糸が入ってこない。

冷たい視線が届かない。


部屋の中は、父の作った境界線で守られている。


父は籠の横に座った。椅子じゃない。床に。

床は冷たいはずなのに、父はそこを選ぶ。


私の近くにいるために。


父は黙って私の呼吸を聞いた。

置き去りにしない沈黙。眠れるのを待つ沈黙。


私は息を吸って、吐いた。

吸って、吐いた。


父の呼吸も、すぐ近くで同じ速度になる。


呼吸が重なると、世界は少しだけ安心する。


父は低い声で呼んだ。


「……ルミシア」


その音は今では、私の中に居場所を持っている。

胸の奥に落ちて、火鉢みたいに温かい。


父はもう一度。


「ルミシア。……眠れ」


お願いの声。


私は、お願いを受け取って目を閉じた。


暗闇が来る。

けれど暗闇は冷たくない。


布が星の糸を薄め、父の声が私を繋いでいる。


剣では届かないものには、布を掛ける。

その選び方が、父の強さだ。



夜が深くなると、私はふと目を覚ますことがある。

窓の方を見てしまう。星の糸が入ってきていないか確かめたくなる。


その夜も、一度目を開けた。


部屋は暗い。火鉢の赤はほとんど消え、湯気の匂いも薄い。

でも窓の方は暗闇のまま、冷たくない。


布が静かに掛かっている。

外の風に触れて、ほんの少しだけ揺れている。


その揺れが、私を安心させた。


――そこにある。守りがある。


私は眠りの中で小さく息を吐いた。


そのとき父の影が動いた。

床に座ったまま眠っていた父が、目を開ける。


音を立てずに身を起こし、頬に指を当てる。

温度を確かめる指。確かめるのは、私の存在。


父は短く言った。


「……よし」


暗闇に小さな灯りが置かれる。

眩しくない灯り。火鉢の赤みたいに静かで暖かい。


父は窓の布を一度だけ見て、息を吐いた。

そこには言葉にならない拒絶が混ざっていた。


星の向こうの“誰か”へ。

そして私へ。


父はまた床に座り、目を閉じる。

眠るというより、そこにいる。


私はその背中を記憶した。


星より先に。



朝が来る前、窓の布の向こうが少しだけ明るくなる。

光は通す。でも刺させない。薄めて、柔らかくする。


父は早く起きて布を少しめくり、外の空気を確かめた。

冷たい風が入り、私は身じろぎする。


父はすぐ布を戻し、火鉢に炭を足した。

ぱちり、と鳴る。赤が戻る。世界が生活へ戻っていく。


父は私を抱き上げ、胸に寄せた。


「……夜は、もう終わる」


意味は分からない。

でも父の声の中に「終わる」という安心がある。


怖いものも、ずっとは続かない。


父は布の結び目を確かめ、隙間を消した。

誰も拍手をしない小さな作業。


でも私は知っている。


その小さな作業が、私の夜を救った。

星の糸を薄め、息を深くして、眠りをくれた。


父が剣で世界を救ったのかどうか、私は知らない。


けれど布で、私の夜を救ったことは知っている。


それだけで、十分だった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ