表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

39/73

第39話 えさの約束、はるの帰る道

朝の匂いは、いつも通りに揃っていた。


火鉢の赤い匂い。

湯気がほどける匂い。

木の匙が器に触れる乾いた音――音なのに、匂いみたいに胸へ落ちてくる。


私は椅子の上で息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、胸の奥の糸を一度だけ撫でる。ほどけきらないように、落ちないくらいで結び直してくれる。


父も鍋の前で同じように吐く。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れた。近い揺れ。刺さらない揺れ。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」で朝の形が閉じる。閉じると、次のことが来ても受け止める場所ができる。


父は棚の前で、今日の支度を静かに整えた。

水筒。木の器。布。薬草。細い紐。

そして干しパン。いつもより丁寧に、袋の口を結ぶ。


袋の中で、乾いた音が小さく鳴った。

乾いた音は、時々刺さる。刺さる前に私は息を吐く。


「……ふー」


父が言った。


「……パンを残す」


残す。

残す、は約束の匂いがする。約束は重い。重いものは胸の上に乗ってくる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父は続ける。


「……今すぐの約束じゃない。今日、置く分を決めるだけ」


だけ。

“だけ”があると落ちない。終わりが見える。


父は干しパンを二つ取り出し、ひとつを小さく割った。

割り方が一定だ。一定は安心。安心は息が深くなる。


父が言う。


「……一回分はこれ。欲張らない」


欲張らない。

温かさは膨らむと圧になる。圧は相手を押す。押すと、相手は逃げる。


私は頷いた。胸元の言葉の木札に触れる。


だいじょうぶ。


握りしめずに、落ちないくらいで持つ。


父が私を見る。


「……呼ぶのは一回。返事を求めない」


私は小さく答えた。


「……うん」


短い返事は石だ。落ちる。落ちると形になる。


父が言う。


「……来るか」


私は息を吐いた。


「……ふー」


短い石を置く。


「……いく」


父が頷く。


「……半歩。父の後ろ」


半歩。後ろ。

形が小さい。小さいなら持てる。


父は戸口へ向かい、布の壁の結び目を指で確かめた。

扉を少しだけ開ける。外の匂いが細い線になって入ってくる。


土。風。木。

湿った毛の匂い。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父の影に重なる位置で外へ出る。半歩だけ。

土の冷たさが足の裏に触れる。触れると胸が少し忙しくなる。


忙しくなる前に、もう一度。


「……ふー」


道の端を歩く。端は余白が少ない。余白が少ないと落ちない。

父は日差しの強い場所を避け、建物の影を選んで進む。影の道は目に優しい。目が忙しくならないと、息が保てる。


坂の上に、ミーナがいた。

声は小さい。立ち方も静かだ。息を整えるのが上手になっている。


「お父さん……今日も?」


父は立ち止まり、振り返らずに言う。


「……ここまで。声は小さく」


ミーナはすぐに息を吐いた。


「……ふー。うん。静かにする」


ミーナの後ろに、もう一人子どもがいた。

手に小さな包み。中で乾いた音が鳴る。


子どもが小さい声で言った。


「……えさ、もってきた」


えさ。

“あげる”は温かい。でも温かさは膨らむと圧になる。


父の声が落ちる。


「……置く。手から渡さない」


手から渡さない。

その一言で、危ないところが消える。


子どもが頷いた。


「……うん。おく」


ミーナも頷く。


「……わたしも、おく」


“置く”が揃うと形になる。形は安心。


私は息を吐いた。


「……ふー」


坂を下り、石のところへ向かう。

遠吠えは聞こえない。代わりに風の音がある。

風は長い。長い音は余白を作る。余白に怖さが入りそうになって、私は息を吐く。


「……ふー」


石のところに、犬がいた。


はる。

毛はまだ汚れている。けれど昨日より背中の線が少し柔らかい。

伏せていて、こちらを見た。唸りはない。

目は疲れている。疲れているのに、逃げていない。


胸の奥が温かく動く。

温かさが暴れないように、私は息を吐いた。


「……ふー」


父は犬から距離を取って止まり、腰の袋から細い紐を出した。

地面にすっと伸ばして、犬と私たちの間に線を作る。


見える線。

跨げるのに、跨がない線。


父が言った。


「……ここから先へは行かない」


ミーナが小さい声で繰り返す。


「……ここから先、いかない」


子どもも真似をする。


「……いかない」


繰り返しは約束の形。形になると犬も落ち着く。


父は木の器を置いた。

水を少し注ぎ、斜めの位置に。正面ではない。逃げ道を残す位置。


「……飲め」


犬は鼻をひくひくさせ、一歩近づいて止まる。

迷ってから、水を飲んだ。


飲む音は小さい。小さい音は刺さらない。


父は次に、布を一枚取り出した。古い布。厚めの布。

犬の近く、でも正面ではない場所に置く。


休む場所の印。


父が短く言う。


「……ここ」


犬が布を見た。匂いを嗅いで、少しだけ体を寄せた。

寄せるだけ。乗らない。

でも寄せた。それは“嫌じゃない”の印だ。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父は干しパンの欠片を、昨日と同じように斜めの位置へ置いた。

投げない。驚かせない。


「……食え。奪わない」


犬はパンを食べた。

食べ終えると、しっぽがほんの少し動いた。

大きくじゃない。地面を一度、叩くみたいに。


胸の奥が温かくなる。

温かさが膨らまないように、息を吐く。


「……ふー」


父が犬へ向けて一度だけ言った。


「……はる」


呼ぶのは一回。返事を求めない。

父の声は低く短い。短い声は圧になりにくい。


犬の耳が動いた。

それだけで十分。父は何も増やさない。


……そのとき。


坂の上の道から、別の足音が聞こえた。

重い足音。大人の足音が二つ。

そして、少し大きめの声。


「ここだって? 犬がいるって――」


声が大きい。大きい声は刺さる。

刺さる前に私は息を吐いた。


「……ふー」


父の体が、少しだけ前へ出た。

剣に触れない。触れないまま、間合いで線を作る。


父が低く言った。


「……止まれ」


短い声が場に落ちる。

大人の足音が止まる。


けれど、興味の声が続く。


「いや、町の外れで犬がうろついてるって聞いてな」

「子どもが近づいたら危ないだろ」


危ない。

正しいのに、空気を硬くする。硬い空気は犬を怖がらせる。


犬が顔を上げた。

体が固くなる。固いのは怖いからだ。


私は息が浅くなるのを感じた。


「……ふ、」


切れかけた。


父の声が落ちる。


「……ここは今、静かにしている。声を落とせ」


大人の一人が、呼び方を探して言った。


「……お、お父さん……?」


“お父さん”。

呼び方が直っている。それだけで空気が少し柔らかくなる。


父は短く返す。


「……そう呼べ」


大人が喉を鳴らして、声を落とした。


「……すまん。……犬は、噛むか?」


父は犬を見ずに答えた。

犬を見ないのは、犬へ圧をかけないため。


「……噛まない。追わない。触らなければ」


触らなければ。

線の話だ。


もう一人の大人が言った。


「じゃあ、捕まえて役所へ――」


捕まえて。

その言葉で、犬の肩がびくっと跳ねた。

怖い言葉は、犬にも刺さる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父の声が、さらに低くなる。


「……捕まえない」


短い。

短い言葉は、決めた線だ。


大人が困った顔をした気配がした。


「……でも、町の者が不安になる」


父は声を少しだけ柔らかくした。柔らかくしても、線は曲げない。


「……不安にさせない。噂にするな。集めるな」


噂にするな。集めるな。

犬を追わないための言葉。

同時に、私の胸を守る言葉でもある。


大人は黙った。

黙ると場が静かになる。静かになると、犬の固さが少し溶ける。


父は続けた。


「……水と食い物は置く。線は守る。危なくしない」


“できること”の言い方。押しつけじゃない。


大人の一人が息を吐いた。


「……分かった。……お父さんの言う通りにする。子どもには言っておく。騒ぐなって」


父が短く言う。


「……頼む」


“頼む”。

父は滅多に頼まない。頼むと言うときは、線が必要なときだ。


大人たちは道の端へ下がり、遠回りするように去っていった。

下がると距離ができる。距離は犬を落ち着かせる。


足音が小さくなる。

小さくなると、私はようやく息が深くなる。


「……ふー」


犬はまだこちらを見ていた。

けれど唸らない。耳が少し動く。

しっぽがまた、ほんの少し動いた。


父が私とミーナを見て言った。


「……今のが、噂の入口だ」


入口は小さい。小さいうちに線を置く。


ミーナが小さい声で言う。


「……だれにも、いわない」


父が頷く。


「……よし」


そして父は、終わりを置いた。


「……今日はここまで」


終わりがある。終わりがあると、私は落ちない。


帰る準備をしていると、犬が突然立ち上がった。

立ち上がると空気が固くなる。固くなると胸が狭くなる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


犬は紐の線へ近づき、線の手前で止まった。

鼻で紐を嗅ぐ。

それから、ふいに向きを変えて、坂の上――私たちが来た道を見た。


見た。

そして二歩だけ、歩いた。


……線の向こう側で。線は越えない。

でも、道の向きが“帰り道”と同じ。


胸がきゅっとする。

“ついて来る”のかもしれない。

でも“かもしれない”で期待すると、圧になる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父は一歩も動かず、短く言った。


「……行くな」


犬へ、というより場へ。

線を守る言葉。


犬は立ち止まった。

私たちを見た。

しっぽが、ほんの少し動く。


父が低い声で言う。


「……はる。ここ」


ここ。

約束じゃない。確認だ。

ここに置いたものは、ここにある。それだけ。


犬は迷ってから、布の方へ戻った。

布に体を寄せて、伏せた。


胸の奥がふっとほどけた。

ほどけすぎないように息を吐く。


「……ふー」


帰り道、ミーナが小さい声で言った。


「……帰る道、見てたね」


私は答えたかった。

でも言葉が大きくなりそうで怖い。

だから息だけ吐いた。


「……ふー」


父が代わりに短く言った。


「……道を覚える。だから、置く量は増やさない」


置く量は増やさない。

増やすと集まる。集まると噂になる。噂になると犬は追われる。


私は頷いた。頷きは軽い。軽いと絡まらない。


家へ戻ると、扉が閉まり、布の壁が整えられる。結び目が確かめられる。不格好でもほどけない結び目。

父が短く言う。


「よし」


台所の匂いが戻る。火鉢の赤。湯気の白。布の薄さ。

戻る匂いは胸の糸を守る。


私は椅子に座り、胸元の木札に触れた。


だいじょうぶ。


声にはしない。息だけ吐く。


「……ふー」


父が干しパンの袋を棚へ戻しながら言った。


「……えさの約束は、人との約束じゃない」


人との約束じゃない。

それなら、重くならない。


父は続けた。


「……置くのは、道しるべになる。だが、道しるべは増やすと迷わせる」


増やすと迷わせる。

やりすぎると、相手の足が止まる。足が止まると、帰れなくなる。


私は短い声で返した。


「……うん」


父は台所の隅の壁へ歩いた。

名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


私は木札を見上げて、二音を返す。


「……るみ」


父が頷く。


「よし」


その「よし」が落ちた場所は、今日も戻り道になる。


坂の下の布のそばには、犬の戻り道が残っている。

パンは残す。

でも増やしすぎない。

約束は重くしない。


私は最後にもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、「残すパン」を“縛り”ではなく、“帰れる道”として胸に置いてくれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ