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第38話 近づく一歩、はるのしっぽ

朝の匂いは、昨日と同じ形をしていた。


火鉢の赤い匂い。

湯気がほどける匂い。

木の匙が器に触れる乾いた音――音なのに、匂いみたいに胸へ落ちてくる。


私は椅子の上で息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、胸の奥の糸を一度だけ撫でる。ほどけきらないように、落ちないくらいで結び直してくれる。


父も鍋の前で同じように吐く。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れた。近い揺れ。刺さらない揺れ。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」で朝の形が閉じる。閉じると、次のことが来ても受け止める場所ができる。


父は棚の前で、静かに支度を整えた。

水筒。木の器。干しパン。布。薬草。細い紐。


並べ方に無駄がない。無駄がないと物が暴れない。物が暴れないと、私の胸も忙しくならない。


父が私を見る。


「……様子を見る」


私は頷いた。頷きは軽い。軽いものは絡まらない。


胸元の紐に触れる。小さな木片――言葉の木札。刻まれた短い言葉。


だいじょうぶ


指に力が入りそうになって、すぐに抜く。落ちないくらい。落ちないくらいで持つと、痛くない。


父が言う。


「……呼ぶか」


呼ぶ、は少し怖い。声を外に出すのは、線を越える感じがするからだ。

でも昨日、二音を置いた。二音は重くない。重くしないなら、呼べるかもしれない。


私は息を吐いた。


「……ふー」


短い石を置く。


「……はる」


言った瞬間、胸の奥がきゅっとする。言葉が大きくならないか心配になる。心配になると息が浅くなる。


私はもう一度吐いた。


「……ふー」


父が頷く。


「……よし。呼ぶのは一回。返事を求めない」


返事を求めない。

相手を追い詰めない言い方だ。追い詰めないなら、怖さが全部にならない。


父が続ける。


「……来るか」


私は喉の奥で短い石を探した。


「……いく」


父が頷く。


「……半歩。父の後ろ」


半歩。後ろ。形が小さい。小さいなら持てる。


父は戸口へ向かい、布の壁の結び目を指で確かめた。扉を少しだけ開ける。外の匂いが細い線になって入ってくる。


土。風。木。

少し湿った毛の匂い。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父の影に重なる位置で外へ出る。半歩だけ。

土の冷たさが足の裏に触れる。触れると胸が少し忙しくなる。


忙しくなる前に、もう一度。


「……ふー」


道の端を歩く。端は余白が少ない。余白が少ないと、私は落ちない。父はいつも、世界を小さくしてくれる。


坂の方へ向かう途中、軽い足音が近づいてきた。


こつ、こつ。


ミーナだ。声は小さい。


「お父さん……今日も?」


父は立ち止まり、振り返らずに言う。


「……ここまで。声は小さく」


ミーナがすぐに息を吐く。


「……ふー。うん。わたし、静かにする」


それを自分で言えるミーナは強い。


ミーナの後ろに、もう一人子どもがいた。手に小さな木札を握っている。角が丸い。紐の結び目は不格好で、でもほどけなさそうだ。


子どもが小さい声で言った。


「……ぼくも、見ていい?」


父は短く言う。


「……見るだけ。近づかない。触らない」


子どもが頷いた。


「……うん」


返事が揃う。揃うと形になる。形になると、私の胸が落ち着く。


坂の下が見えてきた。石のところ。

そこに――犬がいた。


同じ犬。毛はまだ汚れている。でも昨日より、背中の線が少しだけ柔らかい気がした。

犬は伏せていて、こちらを見た。唸りはない。

目は疲れている。疲れているのに、逃げていない。


胸の奥が温かく動く。温かい気持ちは好きだ。

でも温かさが急ぐと手が出る。手が出ると壊れる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父は犬から距離を取って止まり、腰の袋から細い紐を出した。地面にすっと伸ばして、犬と私たちの間に線を作る。


見える線。

跨げるのに、跨がない線。


父が言った。


「……ここから先へは行かない」


ミーナが小さい声で繰り返す。


「……ここから先、いかない」


子どもも真似をする。


「……いかない」


繰り返しは、約束の形になる。形になると、犬も落ち着く。


父は木の器をそっと置いた。水を少し入れて、斜めの位置に。正面ではない。逃げ道を残す位置。


「……飲め」


犬は鼻をひくひくさせ、一歩近づいて止まる。

そして、少し迷ってから水を飲んだ。


飲む音は小さい。小さい音は刺さらない。

肩の力が少し抜ける。抜けると息が深くなる。


「……ふー」


父は干しパンを小さく割り、同じように斜めへ置いた。


「……食え。奪わない」


犬はパンを食べた。

食べ終えると、鼻先で地面を少し舐めた。舐めるのは確かめるしぐさだ。


父は動かない。動かないことで安全を見せる。

剣には触れない。触れないことで空気を硬くしない。


しばらくして、犬が顔を上げた。

そして、紐の線のこちらを見た。


胸の奥がきゅっとする。見られるのは怖い。

でも犬の目は、昨日みたいに尖っていない。


“見ている”だけだ。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が犬へ向けて、一度だけ言った。


「……はる」


呼ぶのは一回。返事を求めない。

父の声は低く短い。短い声は圧になりにくい。


犬の耳が動いた。

聞こえた証拠。それだけで十分だと、父は顔で言っている。口では何も増やさない。


犬は立ち上がった。


立ち上がると、空気が一瞬固くなる。固くなると胸が狭くなる。

私は息を吐いた。


「……ふー」


犬は一歩、こちらへ――ではなく、紐の線へ近づいた。

線の手前で止まる。止まって、鼻で紐を嗅ぐ。


嗅ぐのは、線を確かめている。

確かめて、越えない。越えないのは、線が伝わっているからだ。


父が短く言った。


「……よし」


褒めるためじゃない。“今は安全だ”という印だ。


犬はまた伏せた。

紐の線の向こう側で。

線を守ったまま、近い場所へ来た。


胸の奥がじんわり温かくなる。温かいのに忙しくならない。

忙しくならないのは、線があるから。終わりがあるから。


……でも、温かさの中に小さな怖さが残った。

線が近い。近いと、次の一歩が欲しくなる。欲しくなると急ぐ。急ぐと壊れる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が私を横目で見た。押してこない目。

“感じたことは分かる。線は守れ”という目。


私は頷いた。頷きは軽い。軽いと絡まらない。


そのとき、ミーナが小さい声で言った。


「……しっぽ」


犬のしっぽが、ほんの少しだけ動いていた。

ぶんぶん、ではない。

ほんの少し、地面を叩くみたいに。


私は息を吐いた。


「……ふー」


嬉しいの形かもしれない。

でも“かもしれない”は危ない。決めつけると押しつけになる。


父が短く言った。


「……期待しない。今は、疲れているだけかもしれない」


分かりやすい言葉。

それで胸の温かさが、暴れずに落ち着く。


父は布を一枚取り出した。古い布。厚めの布。

それを地面に置いた。犬から少し離れた場所。線の向こう側。

正面ではない。逃げ道を残す位置。


「……休む場所」


住む場所、じゃない。今だけの場所。


犬は布を見た。匂いを嗅ぎ、迷ってから、布の端へ体を寄せた。

乗らない。

でも寄せた。寄せたのは、嫌ではないということ。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が終わりを置く。


「……今日はここまで」


終わりがある。終わりがあると、私は落ちない。


ミーナと子どもも、すぐに頷いた。


「……うん」

「……わかった」


父が言う。


「……帰る。騒がない。誰にも言わない」


ミーナが小さい声で答える。


「……うん。だれにも、いわない」


帰り道、何度も振り返りたくなった。

振り返ると犬の目が刺さるかもしれない。刺さると温かさが怖さに変わる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父は歩く速さを落とした。落とすと私の足が追いつく。追いつけると胸が落ち着く。


家の戸口が見えたとき、胸の奥がふっと広がった。

戻れる場所が見えると、体が安心する。


扉を閉め、布の壁を整える。結び目を確かめる。不格好でもほどけない結び目。


父が短く言う。


「よし」


台所の匂いが戻る。火鉢の赤。湯気の白。布の薄さ。

戻る匂いは胸の糸を守る。


私は椅子に座り、胸元の木札に触れた。


だいじょうぶ。


父が水筒を棚に戻しながら言った。


「……名を置くと、近づきたくなる」


私は小さく頷いた。


「……うん」


父は続ける。


「……だから、線が要る」


線。

今日、犬は線を越えなかった。越えなかったのに、近づいた。


私は息を吐いた。


「……ふー」


短い石を置く。


「……しっぽ、うごいた」


父が一度だけ頷く。


「……見た。だが、それを約束にするな」


約束にするな。

冷たい言葉じゃない。壊さないための言葉だ。


私は木札を指でなぞった。

だいじょうぶ、を声にすると糸になりそうで、息だけを吐く。


「……ふー」


父は台所の隅の壁へ歩いた。名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


私は木札を見上げて、二音を返した。


「……るみ」


父が頷く。


「よし」


その「よし」が落ちた場所は、今日も戻り道になる。


坂の下の布のそばに、もうひとつ小さな“休む場所”ができた。

大きな約束じゃない。


でも線の向こうで、しっぽが少し動いた。


私は最後にもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、「近づく一歩」を重くしないまま胸に残してくれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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