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第37話 迷い犬に名をつける

朝の匂いは、静かに整っていた。


火鉢の赤い匂い。

湯気がほどける匂い。

木の匙が器に触れる乾いた音――音なのに、匂いみたいに胸へ落ちてくる。


私は椅子の上で息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、胸の奥の糸を一度だけ撫でる。ほどけきらないように、落ちないくらいで結び直してくれる。


父も鍋の前で同じように吐いた。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れた。近い揺れ。刺さらない揺れ。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」で家の中が閉じる。閉じると、外が来ても受け止める場所ができる。


父は棚を開け、昨日受け取った布を一枚、折って小さくする。薬草を包みに入れる。水筒の栓を確かめる。干しパンを二つ。木の器をひとつ。紐を一本。


並べ方に無駄がない。無駄がないと物が暴れない。物が暴れないと、私の胸も忙しくならない。


父が短く言った。


「……様子を見る」


私は頷いた。頷きは軽い。軽いものは絡まらない。


胸元の紐に触れる。小さな木片――言葉の木札。刻まれた短い言葉。


だいじょうぶ


指に力が入りそうになって、すぐに抜く。落ちないくらい。落ちないくらいで持つと痛くない。


父が言う。


「……来るか」


選べる言葉。押さない言葉。

私は喉の奥で、短い石を探した。


「……いく」


父が頷く。


「……半歩。父の後ろ」


半歩。後ろ。形が小さい。小さいなら持てる。


父は戸口へ向かい、布の壁の結び目を指で確かめた。扉を少しだけ開ける。外の匂いが細い線になって入ってくる。


土。風。木。

そして、昨日も感じた湿った毛の匂い。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父の影に重なる位置で外へ出る。半歩だけ。

土の冷たさが足の裏に触れた瞬間、胸の奥が少し忙しくなる。


忙しくなる前に、もう一度。


「……ふー」


道の端を歩く。端を歩くと余白が減る。余白が減ると怖さが薄くなる。父はいつも、世界を小さくしてくれる。


坂の下へ向かう途中で足音が増えた。軽い足音。複数。声も混ざる。


「お父さん!」

「きょう、いくの?」

「……犬、いる?」


ミーナと、子どもが二人。声は小さい。小さい声は生活の声だ。生活の声は刺さらない。


父は立ち止まり、振り返って言った。


「……ここまで。前に出るのは一人」


順番。形。


ミーナがすぐに小さい声で言う。


「……はい。わたし、せんとう」


ミーナは列の先頭に立ち、他の子の袖を軽く引く。引っ張らない。合図だけ。子どもたちは止まる。止まれると、数が波にならない。


父が続けた。


「……ついて来るなら、声は小さく。走るな。石を持つな」


「……うん」

「……うん」


返事が揃う。揃うと音が整う。整うと、私の胸の余白が縮む。


父は私を見た。柔らかい目。押してこない目。


「……いいか」


私は息を吐いて、頷いた。


「……ふー」


坂の下。石のところが見えた。そこに、犬がいた。


大きくはない。毛は汚れて、ところどころ固まっている。背中の線が少し尖って見える。目がこちらを見て、動かない。


唸ってはいない。

でも体が固い。固いのは怖いからだ。


胸がきゅっと狭くなる。狭くなると息が浅くなる。

浅くなる前に、木札を胸に当てる。


「……ふー」


父は犬から少し距離を取って止まり、腰の袋から細い紐を出した。紐を地面にすっと伸ばし、犬と私たちの間に線を作る。


見える線。

跨げるのに、跨がない線。


父が言った。


「……ここから先へは行かない」


犬にも届く声。子どもたちにも届く声。場に落ちる声。


ミーナがすぐに繰り返す。


「……ここから先、いかない」


他の子も真似をする。


「……いかない」

「……さわらない」


“さわらない”。

その言葉が先に出るのがありがたい。手が出る前に線ができる。


父は犬へ向けて、低い声で言った。


「……怖いか」


犬が小さく鼻を鳴らした。返事みたいな音。耳が動く。聞いている。


父が頷く。


「……分かる」


押しつけない“分かる”。ただ、そこに置く“分かる”。


父は木の器に水を少し入れ、斜めの位置にそっと置いた。正面ではない。逃げ道を残す位置。


「……飲め」


命令じゃない。案内の言葉。


犬は一歩近づき、また止まる。鼻をひくひくさせる。警戒は普通だ。普通だと思えると、怖さが全部にならない。


父は動かない。動かないことで安全を見せる。


しばらくして、犬は器へ近づき、舌で水を飲んだ。飲む音が小さい。小さい音は刺さらない。


胸が少し楽になる。

楽になると、“したい”が動く。


撫でたい。助けたい。抱きたい。


温かい気持ちは急ぐと危ない。急ぐと手が出る。手が出ると犬は怖がる。怖がられると胸が刺さる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が私を横目で見た。合図。

“気持ちは分かった。線は守れ。”


父は干しパンを小さく割り、同じように斜めの位置へ置いた。投げない。驚かせない。


「……食え。奪わない」


犬はパンをくわえ、急いで食べた。食べ終えると、少しだけ肩の線が柔らかくなる。


柔らかくなると、こちらの空気も柔らかくなる。


ミーナが小さい声で言った。


「……たべた」


子どもたちは頷くだけで騒がない。騒がないと犬が落ち着く。落ち着くと、私も落ち着く。


父が立ち上がり、短く言った。


「……今日はここまで」


終わりが置かれる。終わりがあると、みんなが止まれる。


ミーナが少し焦ったみたいに言った。


「でも……犬、ずっとここ?」


“ずっと”は長い。長い言葉は余白を増やす。余白が増えると怖さが入りやすい。


父は短く言った。


「……ここは寒い。水は置いた。だが、ここは住む場所じゃない」


住む場所。戻る場所。


父は子どもたちを見る。


「……誰かの家の前へ行くな。呼ぶな。騒ぎにするな」


ミーナが頷いた。


「……うん。わかった」


父はさらに言った。


「……今は、名前も聞くな」


名前。

その言葉で、胸の奥が少し動いた。


名前は形だ。目印だ。戻る場所の印だ。

でも急ぐと、圧になる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


そして、父の袖を軽く引いた。引っ張らない。指先の合図だけ。


父が私を見る。押してこない目。


「……何だ」


私は喉の奥で言葉を探す。長い言葉は絡まる。短い石だけ。


「……なまえ」


言った瞬間、胸がきゅっとなった。言ってしまった、という怖さ。

でも怖さの上に息を置く。


「……ふー」


父はすぐに否定しない。すぐに肯定もしない。

一拍置いて、犬を見て、紐の線を見て、私を見た。


そして短く言った。


「……今は、つけない。置くなら、軽く」


軽く。

軽くなら圧にならない。圧にならないなら、犬も私も傷つかない。


父は子どもたちに言った。


「……先に帰れ。列のまま。寄り道するな」


ミーナが小さい声で答える。


「……うん。みんな、かえろ」


子どもたちは列の形を保ったまま坂を上がっていった。足音がばらけない。ばらけないと犬が驚かない。


人の気配が薄くなる。

坂の下が静かになる。


静かになると、犬の息づかいが聞こえた。はあ、はあ、と短い息。疲れている。


父が私に言った。


「……木札」


父は袋から小さな無地の木片を一枚出した。角は丸い。紐を通す穴もある。昨日の練習札と同じ作りだ。


父が言う。


「……書くなら、一言。短く。読める形」


短い。読める。

それなら、私も置ける気がした。


父は炭の欠片を取り出した。黒い線。ときどき怖い。

でも今日は違う。生活の黒だ。印をつける黒だ。


父は炭を私に渡さない。

代わりに木札を私の前に置き、炭は自分で持ったまま言った。


「……言え。書くのは父がやる」


危ないところを父が持つ。

父のやり方はいつも、そこだ。


私は木札を見た。

犬の名前。


犬はまだこちらを見ている。疲れた目。でも唸っていない。

線があるからだ。逃げ道があるからだ。


私は息を吐いた。


「……ふー」


頭の中にいくつかの音が浮かぶ。

シロ。クロ。ソラ。ヨル。


犬の毛は黒でも白でもない。汚れた灰色に近い。

空の色のようで、土の色のようでもある。


胸元の言葉の木札に触れる。

だいじょうぶ。


言う代わりに、吐く。


「……ふー」


そして、短い音を落とした。


「……はる」


春。

季節の話じゃない。

“はる”は短くて柔らかい音だ。呼んでも尖らない。呼んでも押し込まない。


父が一度だけ目を細める。笑うのではなく、確かめる目。


「……はる」


復唱は確認。確認があると、言葉が勝手に大きくならない。


私は頷いた。


「……うん」


父は炭で木札に二文字を書いた。



そして、横に小さな星の印。

星の印は私の印だ。大きくない。丸い。生活の印。


父が木札を指で軽く叩いて言った。


「……これを、置く。首につけない。触らない」


置く。

つける、は近い。近いと犬が怖がる。

置くなら線のこちら側でできる。


父は紐を木札に通し、結び目を作った。不格好でもほどけない結び目。

そして、犬から少し離れた場所へ木札をそっと置く。


犬の前ではない。斜め。逃げ道を残す位置。

水とパンと同じ位置。


父が言った。


「……はる」


犬の耳が動く。

目が木札へ向く。鼻が匂いを探すように動く。


名前は命令じゃない。

ただの音。

でも音は道しるべになる。


犬は木札へ一歩近づき、止まった。

そして紐を少しだけ舐めた。


舐めた。

噛まない。

確かめている。


胸の奥がじんわり温かくなる。温かいのに忙しくならない。

父が軽く置いてくれたからだ。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が短く言った。


「……よし」


犬へ言ったのか、私へ言ったのか、場へ言ったのか。

でも「よし」は落ちる。落ちると形になる。


父はゆっくり立ち上がる。急に立たない。驚かせない。


父が言う。


「……帰る。はる、ここ」


“ここ”。

約束じゃない。線の確認だ。

ここに置いたものは、ここにある。それだけ。


父は紐の線を残したまま、少しだけ坂を上がった。

私は半歩後ろ。


振り返りたくなって、振り返る前に息を吐く。


「……ふー」


私は一度だけ犬を見た。

犬は木札の近くに伏せていた。伏せているのは戦わない姿。


木札のそばに伏せたのは――偶然かもしれない。


偶然でもいい。

偶然に期待すると圧になる。

だから私は、息だけを置く。


「……ふー」


家へ戻る途中、ミーナが戸口の外で待っていた。

声は小さい。足は止まっている。形が守られている。


「お父さん……犬、どうだった?」


父が短く答える。


「……噛まない。追わない。触らない。今日は水とパン。名前は、軽く置いた」


ミーナが目を丸くする。


「名前……!」


大きく言いそうになって、すぐに口を押さえた。


「……ちいさく、だね」


自分で直す。直せるのは強い。


ミーナが小さい声で聞いた。


「……なんて、なまえ?」


喉の奥がきゅっとなる。

名前を言うと大きくなりそうで怖い。


私は息を吐いた。


「……ふー」


短い石を落とす。


「……はる」


ミーナの目が柔らかくなる。押してこない目。


「……はる。やさしい」


やさしい、は温かい。けれど声が小さいから忙しくならない。


父が言った。


「……騒ぐな。名は噂になる。噂は犬を追う」


噂は犬を追う。

追われると犬は逃げる。逃げると怖さが戻る。


ミーナが頷く。


「……うん。だれにも、いわない」


それができるミーナは強い。


扉が閉まり、布の壁が整えられる。結び目が確かめられる。ほどけない結び目。


父が短く言う。


「よし」


家の匂いが戻る。火鉢の赤。湯気の白。布の薄さ。

戻る匂いは胸の糸を守る。


私は椅子に座り、胸元の木札に触れた。


だいじょうぶ。


でも今日は、胸の中だけじゃない。

坂の下の石のそばにも、小さな木札が置かれている。


はる。


押しつけではなく、道しるべ。

落ちる音。置く音。


父が台所の隅の壁へ歩いた。名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


私は木札を見上げ、二音を返す。


「……るみ」


父が頷く。


「よし」


その「よし」が落ちた場所は、今日も戻り道になる。

私の戻り道。


そして坂の下に、もうひとつ小さな戻り道ができた気がした。


私は最後にもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、「はる」という二音を、重くしないまま胸に残してくれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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